お断り//ソフトの関係で、CD版と雰囲気がちがいますが、文章内容と写真はほとんど同じものです。
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山と森の記憶3

県中西部の山々です

山と森の記憶最近の山
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 黒岩山
 中口山
 茶臼山
 宇都賀山
 崎山
 大平峰
 義盛山
 蓮池城山
 横瀬山
 鳴川山
 火立森
 橘森
 雉刀森
 三ツ森山
 土居山
 葛原山
 潰ヶ谷山
 下クレ石山
 桑瀬山
 天賓阿礼山
 下蔭山
 黒滝山
 長沢山
 大森山
 西ノ峰
 戸中山
 戸中峰
 白根山
 猿抱山
 松之木山
 鷹羽ヶ森
 馬路山
 十田山
 小式ヶ台
 宮之西山
 阪之口山
 樅ノ木山
 宇津木山
 平場石山
 五在所山
 黒床山
 上森
 大津江山
 清宝山
 錦山
 烏森
 陣ヶ森
 弁財天山
 土岐山
 蛇ヶ平山
 妙見山
 大滝山
 西ノ土居山
 小富士山
 馬場西山
 貝石山
 九反田山
 越知山
 白滝山
 亀ヶ森
 水天宮山
 舟川山
 松尾山
 赤波介山
 西加奈木山
 石槌森
 勝森
 佐川城山
 栗林山
 陣ヶ森
 虚空蔵山
 震山
 蟠蛇森
 鯛ノ川山
 船越山
 法院山
 八坂峰
 城山
 河原山
 水谷山
 角谷山
 海蔵寺山
 須崎城山
 寺ヶ谷山
 大峰川山
 伊吹山
 自念子の頭
 東黒森
 上瀬戸山
 岩茸山
 伊留谷山
 東黒滝山
 越裏門山
 奈辺良谷山
 北浦山
 手箱山
 椿山
 草原山
 筒上山
 宝来山
 高樽山
 上久保山
 余能山
 影森
 中象山
 雨ヶ森
 奥畑山
 竜ヶ水山
 水船山
 黒森山
 尾茂内山
 遅越山
 浅尾山
 栂ノ森
 野老山
 三方ヶ辻
 洗場山
 川渡山
 尾川山
 天狗石山
 姫野々城山
 川ノ内山
 黒森
 萱ヶ成
 中野峰
 朴ノ川山
 土ノ森
 上ヶ倉山
 下ル川山
 川ノ子山
 雑誌山
 雑誌西山
 小松峰
 折尾山
 三光ノ辻山




黒岩山        170.3m        三等三角点        土佐高岡

土佐市新居の山である。クロイワヤマ。

黒岩山の三角点は屋根の下にあった

 立石地区に登山口がある。
 頂上に石土神社があって、登山道はすなわち参道になっていた。途中にある小さな鳥居が標識代わりで、尾根に出ると、かなり広く参道らしくなった。
 社の手前にも鳥居があり、小さな狛犬たちが「あ、うん」と力をこめて神社を守っていた。祠は鉄骨で小屋掛けした屋根に守られており、なんと三角点も祠のすぐ隣でやはり屋根の下にある。雨にぬれることのない三角点を見るのはこの時が初めてだった。登ったのは小雨の日だったが、屋根があるので慌てることもなかった。展望は利かない。
 植生は温帯林特有の喬木や竹林、シダなどが入り混じって育っている。

 
「私にとって冒険とは、一定期間にわたる旅もしくは持続的な努力であり、個人個人の肉体的な技倆で克服する危険と未知という二つの要素を備えたものである。それに加え、冒険とは個人が自分の意志で選んだ行為であり、そこに含まれる危険は自らに課したもので、自分以外の何物をも脅かしたりしない。」      

クリス・ボニントン 『現代の冒険』


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中口山        233.3m        四等三角点        土佐高岡

土佐市宇佐町の山である。ナカグチヤマ。

宇佐市街と横浪半島が見えた

 宇佐町民の長年の念願だった塚地坂トンネル。それを宇佐町に越えてから振り返ると、トンネルの上すこし右手に中口山の頂上部が見える。しかしそれほど顕著ではなく地図で確認すれば判る程度である。この山から中口川が流れ出し、町内の忠霊塔のそばを経て宇佐湾に到っているそうで、地元の人しか知らないささやかな山でも大山と同じ自然の営みがあるということである。山中には岩盤を伝って流れる沢や小さいながらも滝もあった。
 頂上の三角点は背よりも高いシダの中に埋まっている。私たちもその中をあえぎながら泳ぎ、かろうじて三角点を見つけた。四方を四つの石に守られた小さな四等点だった。
 シダは頂上や尾根の上部のみで、その下の部分ではツバキや樫ほかの照葉樹の疎林である。宇佐町や宇佐湾、横波半島などが望めるところもあった。

 
「七時ごろ『イエティ』がやってきた。『イエティ』のすばらしさが初めてわかった。『イエティ』を使ったおかげで、われわれの遠征隊からは、ちょっぴり冒険的なものがなくなってしまったかもしれない。というのも、『イエティ』のおかげで自分たちが孤立無援ではなくなったし、何日も歩かなければ文明社会にたどりつけないということもなかったからである。必要とあれば三〇分で麓のポカラに行けるのだ。帰路の山麓行進というやっかいな問題に頭を悩ます必要もないのだ。」   

マックス・アイゼリン 『ダウラギリ登頂』


 世界で6番目か7番目の高山、ダゥラギリ8167m(サンスクリット語で「白い山」)が登られたのは、8000m峰としては13番目で、残るはシッシャ・パンマ(ゴサインターン)1座となっていた。1950年、フランス隊がアンナプルナに、人類初めての8000m峰として登頂したおり、ダゥラギリをも視界に入れていたのであるが、あまりの険しさに除外されたほどのいわくつきの山で、その後も、次々と各国遠征隊と対峙したが、そのたびに退け、初登頂をはたした1960年のスイス隊は8番目の挑戦者であった。
 彼らは、この山に遠征するにあたって、ひとつの作戦を思いついた。それは中腹まで登山家や荷物を小型の飛行機を使って上げようというものであった。『イエティ』というニックネームのかわいいポーター機が準備され、登攀者たちをいきなり5200mの峠に上げ、そこで高度馴化をはかった。荷物もおおく上げられたが、やはり機械であって、上げきらないうちに雪上に墜落してしまうのだが、この初登頂の成功はやはりこの飛行機によるところが大きかったのではないかと思われる。下から多くのポーターやシェルパたちを使って荷物を上げるよりずっと早い時期に、最終アタックに取りかかることができているからである。こうして513日の金曜日、13名の登山家からなる遠征隊は、8000m峰の13番目の頂に8人が立つこととなった(お気づきであろうか、13と金曜日が連続するのを)。
『ダウラギリ登頂』には、この小型機『イエティ』のことに多くのページがさかれている。とくに私をうらやましがらせたのは、スイスからインドまでの、アルプス、地中海やエーゲ海をこえ、赤土の西アジアの荒野を見、そして肥沃なインド平野にはいる、低高度からの地球の旅であった。最近さわがれているスペース・シャトルなどによる宇宙の旅よりも、このような旅こそぜひ私もしてみたいと思った。


「アルビンは、頂上岩塊にハーケンを三本打ちこむと、これに、登頂のシンボルとして、短い赤いグリコン・ザイルを堅く結びつけた。いよいよおりるときがくるまで、われわれはみな写真を写して過す。クルトは映画を撮った。

 頂上には静けさがただよっていた。あの恐ろしいダウラギリの空模様も今日は沈黙している。今日はしあわせな日だった。一九六〇年の五月十三日、金曜日だった。この日、十三名からなるわれわれの遠征隊が、多くの遠征隊をこばみ続けていた目標である、第十三番目の八〇〇〇メートル峰のダウラギリに登頂できたのである
 頂上に立ったのは六人だった。八〇〇〇メートル峰の頂上に、こんなに大ぜいの人間が一度に登ったのは初めてのことだ。(それから十日後、さらに二人登り、この遠征隊は合計六人の登山家と二人のシェルパが登頂をはたすことになる)」

マックス・アイゼリン 『ダウラギリ登頂』


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茶臼山        237.0m        四等三角点        土佐高岡

土佐市と須崎町境の山である。チャウスヤマ。

シダがいっぱいだった

 下調べのとき、何人もの宇佐の人に「昔はよく登ったものだが」という話を聞いていた。期待して登った日、一人の婦人が自転車で登山口まで先導してくれた。黒潮と太陽の恵みをいっぱいに受けた土地の人はどこまでも明るく親切であった。
 登山道は荒れていて、すぐにはっきりとしなくなった。樫などの喬木の間を登る。だんだんシダも多くなってきた。やがて戦争中の、海軍の見張り台の廃墟が現れ、その先をよじ登りコブの上に出ると、目の前に小さな祠があらわれた。その奥には「石鎚なにがし」と彫られた石碑もある。横波半島やそこに架かる大橋なども喬木のこずえの上に見えた。何十年か前にはさぞよい景観だったことだろう。頂上と思われるところだが、三角点周辺はシダに埋まり、すぐに探すのはあきらめた。
 帰途、尾根をひとつ間違え反対側の浦ノ内側に下りてしまった。土地の人に昔の峠道を聞き、それを越えて帰ることになった。思わぬ回り道をしたものである。

 
「ギーが、行動をリードする。彼はトラバースをすまし、頂稜に抜けでる幅の広いクーロアールをアタックする。太陽は、アコンカグアの背後に没して、山は再び寒気につつまれ、両足は痛みだし、両手はかじかんでくる。
 ギーはじわりじわり登って行く。斜面の傾斜は、極度にきつく、六〇度以上だが、幸いなことに、雪のコンディションは申し分ない。
 やがて、僕らは頂稜に達し、陽光に追いつく。
 幅が広く、容易な山稜のはしに、頂上が目の前にある。
 僕は、まるで子供のように泣きながら、雪の中にへなへな倒れてしまう。太平洋の風に鞭うたれ、一時間、へとへとになって歩いて、僕らはアコンカグアの山頂に登りついた。
 僕らは、よろこびをまったく感じない。感激して叫んだり、小旗を打ちふろうとも思わない。
 僕らの体は、反応を示すには、消耗しすぎているのだ。そして精神は、ものを考えるには、まるっきりうつろなのだ。」         

リュシアン・ベラルディニ 『アコンカグア南壁』


 アコンカグア6950mは南アメリカ大陸の最高峰である。1896年にははやくも初登頂されたこの山は、一般ルートをゆく限り、登頂は困難ではない。途中には小屋がたち、6700mまではロバにも登られるというから、アフリカの最高峰キリマンジャロなどと同じように、スポーツ・アルピニズムの対象とはなりにくい。
 だが、多くの登山者をすでに迎えていた北面とはうらはらに、険悪そのものの様相を見せる南壁は、逆の意味で、登攀しようとするものはいなかった。下の氷河から頂稜までの標高差3000m。つねに雪崩と落石にさらされ、岩は腐り、想像を絶するような悪場の連続する大岩壁を越えなければならない。
 19542月、この岩壁を足下にしようとする剛の者たちがあらわれた。このフランスからの登山隊の一行は、3週間かけてアコンカグア南壁の5200mの第二キャンプまでのザイル工作を完了し、その後、岩壁で、76晩をビバークで過ごして、お互いに注射などで体力を維持しながら、225日の午後8時に遂に頂上に達している。
 アルプス外の高峰をヴァリエーション・ルートから登攀した最初の輝かしい記録といわれているが、かれらはこれほど苦労して登ったアコンカグアを、一般ルートをつかって夜間わずか3時間半で下りおえている。


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宇都賀山        255.9m       二等三角点       土佐高岡

土佐市の山である。ウツガヤマ。

監視哨の跡が近くにあった

 横波半島の最高点であり、四国八十八ヶ所第三十六番札所青龍寺をその山腹に擁している。
 斜面はざらざらと崩れ落ち、頂上にも手で持ち上げられる大きさから、不可能なものまで大小の岩片がごろごろしている。すぐ東側に3mほどの直径の、円形に積み上げて作られた何かの跡がある。太平洋戦争当時の見張り台の跡だろうか。周囲はツバキや樫などの常緑樹の疎林である。
 それにしても海が近い。どこかの島にいるようである。頂上にも海の音が聞こえてくる。登ったのは陽光うららかな冬の一日で、鮮やかな照葉樹の緑の中に咲くツバキの花の赤い色が美しかった。

 
「コルディイェラ・ブランカへのフランス・ベルギー合同遠征隊の特徴は、疑いもなく、その自由なところにある。隊員たちは、上からのいかなる命令にも服す必要がなかった。彼らの肩には、なんらの負担もなかった。彼らは、ただ、彼らの行動慾と、気の向くままにふるまえばよかった。
 彼らが登頂に成功するかどうかは、一に彼らにかかっていた。彼らの熱意は、義務の観念によって狩り立てられたものでもなく、責任感によって強制されたものでもなかったことは、彼らの成功によって、はっきりと知ることができる。背後にある無数の人たちが、自分たちにすべての期待をかけ、その行動を見守りつづけているとき、思い切ったことをするのは、たしかに貴いことだ。しかし、自分たちの野心におとることがないようにという一事のために、そのベストを尽くす人こそ、最も純粋な満足を知り得るものなのだ。

モーリス・エルゾーグ」

ジョルジュ・コガン ニコール・レイナンジェ『白嶺 ―コルディイェラ・ブランカ―

 
『白嶺 ―コルディイェラ・ブランカ― 』は南米ペルーの「世界でもっとも美しい氷雪の処女峰」ネヴァド・アルパマヨ6120mとこれを取りまく未知の山々に、1951年にコガン夫妻、レイナンジェ夫妻を中心とするフランス・ベルギーの気心の知れあった親しい9名の山仲間が出かけ、見事にそのあこがれの峰に登頂をはたした記録である。
「アンデス山脈は、世界で最も長い山脈で、パナマ地峡からケープ・ホーンまで、七〇〇〇㌔の長さで横たわっている。アジアの大山脈よりは、やや高度は劣ってはいるが、六〇〇〇㍍以上の高峯を多数包含し、その最高峯アコンカグアは、七〇〇〇㍍に触れようとしている。こうした大山脈が、アルピニストにとって、情熱を傾けるべきプレイグラウンドとなったことは当然である」とリオネル・テレイも書いている。ヒマラヤのボリュームとアルプスの急峻さを併せもったアンデスの山々は、欧米の登山家たちの食指をそそり、戦前から訪問を受けていたが、とくに1950年代以後おおく挑戦されるようになった。ヒマラヤにくらべてアプローチの距離がみじかく、大きなキャラバンをくむ必要がないことが、この登山隊のようなプライヴェートな遠征も可能としたのであろう。

 
「六〇〇〇㍍の高所の氷の洞穴で、読者の皆さんは一夜を過したことがおありだろうかもし、この経験がまだおありにならないのなら、ここがもの思うのにうってつけの場所だとは信じがたいだろう。
 だがしかし、ヤッケに顔をすっぽりつつみ、あごを両膝にのせたまま、ピッケルで掘り刻んだ低い天井に圧しつぶされそうになっている四人の苦行者は、彼らの夢想にふけっているのだ。
 各自はそれぞれの象の足(寒さから保護するために両足を入れるナイロン製の袋)に脚をつっこみ、防水性の物体となり、たった一人で、苦痛を耐え忍んでいる。人は、苦しむときには、いつも孤独なのだ。」

『白嶺 ―コルディイェラ・ブランカ― 』 ジョルジュ・コガンの物語


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崎山          114.3m        四等三角点         土佐高岡

土佐市の山である。サキヤマ。

桂浜の方向が見えた

 崎山は、岬の山から岬山、崎山と変化して行ったのではないだろうか。横波半島の最先端にあり、まさに岬の山である。昔であれば船を利用しなければ、一朝一夕に達することはできなかったであろう。今は横波黒潮ラインから遊歩道を経て簡単に頂上まで行くことができる。
 天保十二年(1841)、中浜万次郎(のちのジョン万次郎)は出稼ぎに来ていたこの岬の奥、宇佐浦から、漁師筆之丞(伝蔵)の船に雇われて一月七日にかつお漁に出て遭難し、彼の数奇な冒険の半生がはじまった。生れはたしかに足摺岬ちかくの中浜であったが、この宇佐浦からの船出がなければ彼の一生は平凡な漁師のそれでしかなかったはず。いわばこここそ彼の出発点といっていい。若々しい15歳の少年万次郎の銅像が、潮風を受けてなぜ横浪半島にさっそうと立っていないのか不思議である。あまりこの岬に関係のない武智半平太のそれは造られたのに。
 三角点は遊歩道から20mほど西に入ったヤマモモやツバキ、カシなどの照葉樹林の中にある。北の中口山の方向が開かれ、宇佐の町並みもすこしだけ見えた。頂上の近くにベンチなどが置かれた展望所があり、宇佐湾の入り口あたりから高知方面の海岸線が望める。白鼻の灯台も右下方に見えていた。

 
「西風が心地よくヨットの帆を吹いて水面を矢のように走る。ヨットの上を仰いで、ゆく雲を見ていると、あらゆる労苦を忘れて心ゆくまで帆走を楽しむことができた。私たちの持っている故郷は限りなく美しく、私たちの心の中に生きている。あの山はわが恋人であり、この湖もわが恋人である。町から教会の鐘の音が静かな湖上を伝わって聞こえてきた。急いで帰る。弟が船を舫っているうちに私は自転車に乗った。」

カール・ヘルリヒコッファー『ある登山家の生涯』 兄メルクルの印象

 

私も青年の時代、クルーザーを手作りして土佐湾にひとりさまよい出たことがある。そのとき彼と同じようなことを感じたことであった。シングルハンドではるかな世界へ乗りだす夢もひとやすみで、いまは、おもに故郷高知の山のすみずみをザックを背に歩いている。こちらのほうが自分には性に合っているようにも思う。


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大平峰        387.9m        四等三角点        土佐高岡

土佐市の山である。オオヒラミネ。

写真で撮ると山はおだやかになる

 12世紀から15世紀にかけて、当地方を治めた大平氏と何か関係があるのであろうか。山名が気になる山である。
 頂上部はなだらかで大平の名に恥じない。その中央に石の祠がある。下界は見えないが空は開けている。そばに福田部落の一行が平成九年の旧正月二日に参拝したという記念の柱が立っていた。祠は石土神社遥拝所だそうで、手洗いの 石鉢も近くにあり、小さな鳥居が奉納されていた。周囲の雑木林も、それほど密ではなく、緑が美しい。
 三角点はそこから東北東の方角に150mほど離れた植林のなかである。そこも頂上と同様に展望はなかった。
 2月初旬の、厳冬期であることを忘れるほど暖かい日だった。木漏れ日が地表にやさしく落ち、モザイク模様を描いていた。

 
「山、それは、門が閉ざされ、そのうしろに冒険を秘めているような城郭である」

オスカール・エーリッヒ・マイエル


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義盛山        164m        三角点はない        土佐高岡

土佐市の山である。ヨシモリヤマ。

現在は開発されて姿を変えているが 

 登る前から義盛というのは人名ではないかと考えていた。登り口をさがして用石(もちいし)と塚地(つかじ)側でしらべているとき、その双方で聞いたのは、和田義盛という人がこの山の上に城を築いていたということだった。その痕跡は濠や石垣のあととして山中にいまも残っている。
 下山後、もうすこし詳しく知りたいと思い、調べてみると土井肥前守という豪族がかなり長い間この城を支配していたことは長宗我部地検帳などにもあるの だが、土佐市史のなかにも和田義盛という名は一切出てこないということであった。『土佐国古城略史』にもその名は見えない。鎌倉時代、関東に和田義盛という武将はたしかにいたのだが、もしほんとうにその名だとすれば、どうして関東からは遠くはなれた山の名としてここに残ったのか、時のベールにかくされて今はもうわからない。
 頂上付近からは、喬木がおおきくそだって、うっそうとした森となり、以前はよかったという展望も今はまったく得られない。義盛山を南につたうと標高164mの位置あたりに天神ヶ森城、さらに南にいくと、245.2mの三角点のすこし北のほうには三森城という城があったということである。
 土佐町、早明浦ダムの近くに和田城山という山がある。のちにここを訪れることになり、そのときから義盛の名が高知県の山の名として残っても不思議ではないように思えてきた。くわしくは同山の項を読んでいただければ読者もきっと納得されるにちがいない。

 
 アフリカで2番目に高い山、ケニヤ山は、ヴィクトリア湖の東南岸にあるキリマンジャロから320kmほど北にあり、おなじく複数の頂をもつ死火山である。その内、第一の高峰バチアンは19世紀末にイギリスの貴族ハルフォード・マッキンダー卿によって、苦労の末きわめられ、第二の頂ネリオンは、同じイギリス人のエリック・シプトンによってその30年後、初登頂されている。
 さて、第三の頂、レナーナ4968mが登頂されたのはどのようないきさつだったのだろうか。それについてはおもしろい話がある。1943年のことである。そのころ、ケニヤ山から80kmほど離れたところに、イギリスの捕虜収容所があって、そこに収容されていた3人のイタリア兵が、毎日この山を眺めているうちに、レナーナを征服してやろうと決心したのである。図書室の本で調べたり、毎日、山をながめてはルートを研究した。6カ月がかりで乏しい食料を集め、トラックの部品からアイゼンを工夫して作り、収容所の毛布からはアノラックも調達できた。そしてついにある夜、ケニヤ山にむかうために収容所を脱走する。山麓の炎熱から山頂の凍りつく寒さ、吹きつけるブリザードに、乏しい食料と装備でよく耐えて、かれらは首尾よく登頂に成功したのである。
 山に登りたいというほかは何もなかかったかれらは、登頂をおえるとすぐに収容所にとってかえし、もう一度つかまってしまう。3人は罰として、それぞれ数週間の禁固刑をくらったが、かれらはそれにめげるどころか、監房のなかで、心は、ケニヤの頂レナーナを征服した喜びにすっかり酔いしれていたのである。

(ジョッフリー・ヒンドレイ『世界の屋根に挑む』より)


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蓮池城山        35m        三角点はない       土佐高岡

土佐市高岡の山。ハスイケジョウヤマ、シロヤマ。

歴代城主の鎮魂の歌でも聞こえそうな山上

 市街地の西端、土居にある小山である。土居とは城壁、転じて土豪の屋敷のことである。
 上部は土佐市蓮池公園として整備されており、子供の遊具や東屋、ベンチなどが設置されている。桜や梅、アジサイなどが植えられて、頂上部には町内放送のスピーカーが四方八方に向いて据えられていた。蓮池神社ともうひとつ祠があり、いかにも城址であるような雰囲気を醸していた。
 ここに最初に城を造ったのは12世紀の平氏の家人、近藤家綱であるとされ、別名蓮池権頭といわれたところから蓮池城と呼ばれるようになった。
 その後土佐七豪族のひとつに数えられた大平氏の統治下に置かれ、文化面でも長く栄えるのであるが、16世紀になると、一条氏、本山氏、吉良氏、長宗我部氏など、領地と共に城主もあわただしく交代することになる。この城をめぐっての攻防以後、かつての主一条氏と長宗我部氏の間に不調和音が生じはじめた。
 そして戦国時代も終盤になって長宗我部一族の内紛により、時の城主、吉良親実(元親の甥、盛親の従弟)が自刃し、この城もその興亡の長い歴史を終えるのである。

 
「これらの発見に関連して七四九五㍍の高さがある新しい山の名前が問題になった。自然に、これに当時の国家の主斑の名前をあてることになり、ピーク・スターリンと呼ぶことにきまった。
 ピーク・スターリンの発見は、西パミールの谷々の上流にそびえる高い山脈の秘密を解こうとした、一八七八年から一九三二年にいたる、ロシアとソビエトのパミール探検者たちの多年の努力の結晶であった。だからそれは一人の探検家あるいはひとつのグループの功に帰すべきものではなく、長年の集団的な仕事の結果であり、ソビエト地理学の新しい勝利を意味するものであった。
 ピーク・スターリンの麓に達する道はひらかれた。ソビエトのアルピニストたちはソ連最高峰への登頂を準備しはじめた。」

エフゲニ-・A・ベレツキイ 『スターリン峯登頂記』

 
 チベット高原の西につらなる「世界の屋根」パミールは、平均高度4000mの山岳地帯で、ひろさは北海道と九州をあわせたほどである。その大部分がロシア領であり、最高峰ピーク・スターリン7495mはまたソビエトロシアの最高点でもあった。
 スターリン峰は193393日に探検隊により初登頂された。ベレツキイの『スターリン峯登頂記』はその登頂をしるす書であると同時に、パミールの開拓史が半分をしめる。それほどパミールが深い未開の地にあり地形が複雑であったのであろう。いずれにしても、この開拓によってソビエトのアルピニズムは先進国のレベルに接近し、到達高度においては当時匹敵、あるいは凌駕すらしていたのかもしれない。
 スターリン峯、レーニン峰とか革命峯など、山名にもいかにもお国柄がでているし、飛行機で登山隊に食糧や資材を投下して補給したり、初登頂時に重い自記測候器を運びあげねばならなかったり、スターリンやレーニンの胸像を頂上に安置したりするなど、自由諸国のアルピニズムとはどこかちがうように感じられるのは私だけだろうか。
 EA・ベレツキイはピーク・スターリンに初登頂から4年後第二登をはたした登山隊の一員である。


「風にふきさらされた万年雪は固く、靴の鉄鋲はすりへっていて物の役に立たなかった。アイゼンをつける。あともう数十㍍というとき、アバラーコフは疲労困憊して雪の上に倒れ伏した。だがじきに立ちあがって歩きだした。そのときのことを回想して、アバラーコフはこう書いている。

『ナイフの刃のように切りたった尾根道を、最後の死力をふりしぼって、アイゼンとピッケルを氷に噛ませ、横なぐりの風から身の平均を保つことに努めながら、頂上の岩をめざして登っていった。どうしてもあそこへは着けないのではないか、という奇妙な恐れの気持が湧いてきて、ゆっくりした動作のリズムを狂わせてしまう。今はもう四つん這いになって岩の急斜面を攀じのぼりつづけた』
 頂上はかちとられた
 アバラーコフは最高点に立っている。西の空は夕陽をうけてバラ色に映えている。傾いた陽の光は、頂上の岩とアバラーコフの姿を、今登ってきた斜面をおおっている雲の上に、巨大な影としてうつしだした。アバラーコフは両手を挙げる、影も同じく両手を挙げる。四囲は目のとどくかぎり、万年雪にとざされた山稜の波のうねりである。」

エフゲニ-・A・ベレツキイ 『スターリン峯登頂記』


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横瀬山         296.5m        三等三角点        土佐高岡

土佐市の山。国道56号線の仁淀川大橋を高岡の方にむけて渡るとき正面に見えている山である。ヨコセヤマ。

宇佐と横浪半島、そして太平洋

 同市の波介と須崎市浦ノ内の間の山々には、穏やかな山容もあって、かなり道路網が発達しており、尾根にはほとんどスカイラインといえるほどの素晴らしい舗装路が走っている。そして要所には大峠や高山、石槌などと名付けられた 展望台が整備され、宇佐や高岡の市街や浦内湾などを見下ろしている。
 この横瀬山は波介山公園の大峠展望台から歩いても15分ほど。車でも行くことができるが、その間は舗装されていなかった。広い頂上からは高岡町や春野町、そして宇佐のほうまで一望のもとである。ベンチやテーブルなどもあり、公園の一部と思わせる。
 またむかし、宇佐と高岡をむすび、いまも歩く遍路道として使われている塚地峠まで大峠から歩いて10分くらい。国道56号線の仁淀川大橋を西に渡るとき、真正面に見えている山がこの横瀬山である。

 
「危険と困難が伴わず、一〇〇パーセント可能な山ほどつまらないものはない。未知の部分が三〇パーセントぐらいなければ、北壁への意欲と興味は半減してしまう。」

小西正継『ジャヌー北壁』


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鳴川山         309.2m        三等三角点       土佐高岡

 土佐市、須崎市の境にある山で、わずかではあるが周辺の最高地点である。横瀬山(三等点「横瀬」296.5m)より12、3m高く、高山展望所(四等点「波介」307.6m)よりも1mすこし標高が高い。ナルカワヤマ。

県境の石鎚山なども白く染まっていた

 高岡と浦
内湾をへだてる稜線の、快適なスカイラインも石鎚展望所あたりで終わり、その先で舗装路面も切れて、道幅もせまくなり泥濘もあらわれてくる。舗装路ならばそうでもないが、このような道であれば歩いてみてもいいと思い、ドコモの無線中継所あたりの道端に車をとめて歩きはじめた。

 浦内湾まで抜ける道はじょじょに下ってゆく。ハトが頭上の枝から突然飛び立ち、その羽音にびっくりする。空はまだ早朝の暗鬱さから完全には抜けだせていない。それにひどく寒い。今朝は氷点下だったそうだ。途中で見た県境の石鎚山などの山々も真っ白である。林道をはなれて山中に入るころには駐車地点からいえば50mほど標高は低くなっていた。峠から歩く場合には、帰途にとった両市の境の尾根伝いに登るのが正解だったようだ。それならば大きく下って登りかえすこともない。だがそれは効率だけを考えてのことだ。歩く楽しみとはまた別のもの。登山の醍醐味はそんな苦労を敢えてすることといえる。
 池のそばから荒地のなかの道を尾根に出て、そこから目的地にむかった。頂を前にして、目前の空がきゅうに明るくなるのは頂上が近づいたと考えてまちがいでないことが多い。やはりそうだった。三角点は抜けるように明るい空の下、シダの茂みの縁にあった。そばにまだ新しい木製の国地院の標柱が倒れていたが、穴が見あたらない。地面がかたいだけでなく、打ち込むための手頃な石や丸太の切れなども見あたらなくて、元どおり立て直すことはとうとうできなかった。

 
「「富士山というところは、下界で考えているようなところではない。ここはおそろしいところだ。まだほんとうの冬にもならないうちに、そして、ここへ来てから一ヶ月とはたたないうちに、おれはそのことをつくづく見せつけられた。ここは女が居られるところではないのだ」
 到は千代子に山のおそろしさを言いふくめようとした。
「そのように怖ろしいところだから、尚更のことあなたをひとりで置くわけにはいかないのです。ここで一冬過すには、協力者が必要なんですわ」」

新田次郎『芙蓉の人』

 

『芙蓉の人』は富士山の冬期滞頂気象観測の草分けである野中到(いたる、至とも書く)と千代子夫人を、とくに千代子夫人を主人公として、新田次郎が小説化したものである。


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火立森        235.4m        三等三角点        土佐高岡

 須崎市の横浪三里や半島を見わたせる位置にある山である。むかし、火立場(ほたてば)(狼煙をあげる高台のこと)があったのでこの名が残ったと思われる。ヒタチモリ。

ようやく三角点に到着

 よく地形図を見て考えていれば、どこからでも登れたことと思う。東のグリーンピア土佐横浪跡奥の林道から尾根をたどることもできたであろうし、立目や春日の果樹園の上から尾根に達することもむずかしいことではなかっただろう。

 だが、登りはじめから、ひとつ谷をとりまちがえ、あとから考えれば、ひじょうな遠回りをしてしまった。途中で遭遇した竹林迷路といおうか、地獄といおうか、縦横乱雑に倒れたモウソウ竹のヤブにはいつもながら辟易したが、それを脱け出た先には、かれんなスミレの花畑があった。ようやっと到着した頂上は、ルート選択に失敗してしまった憤懣をじゅうぶんに慰めてくれるいいところであった。2年ほど前にあらためて測量の手がはいってクリクリ坊主にされたその頂は、明るくてまぶしいほど。南側に一番印象的に見えたのは、芝の冬枯れしたゴルフ場と、その上の、雉刀森の目立った頂。その手前の横浪三里を、ときどき航跡を引きながら小船が通り、半島のむこうに見える太平洋の水平線が、今日ははっきりしている。西には、いくつかの岬が、遠いものほど薄くかすんで望まれた。
 そこでマットをひろげたが、陽光を遮るものがないので、早春とは思えないほど暖かい。活動のあとの気だるさもともなって、そこにはただ寛いだ時間がながれていた。

 
「山のいちにち蟻もあるいてゐる」               

種田山頭火


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橘森         233.7m         三等三角点        土佐高岡

 須崎市の横浪半島にある、明徳義塾中高の北西側に位置している山である。タチバモリ、タチバナモリ。

宇佐大橋がよく見えた

 正月も明けて早々、その年の山初めにと選んだ山がこの橘森と、すぐ近くの雉刀森であった。縁起のよい植物であるタチバナと、同じくめでたい動物といわれ日本の国鳥でもあるキジを山名に冠する山は、年の始めにのぼる山にふさわしいと思われたからであった。

 明徳の校門前をとおって横浪三里の南岸に下りていくと、北岸の賑わいとはちがった静かな雰囲気の集落が待ち受けている。そのなかにある古い八幡様が今回の山旅の起点であった。しばらく、荒れて危げな山道を、一歩一歩足元を確かめながら登る。夏季などには暑苦しくさえ感じる厚くて艶やかな葉をもった木々たちも、この季節にはたくましい生命力さえ感じさせ、好もしく思われるのも人間の勝手というものであろう。
 最後の急な斜面を強引によじ登って達した尾根を左へ辿る。比較的すいていて歩くのに苦労はない。ところどころから見えた宇佐の市街や大橋を含む一帯は絵のような絶景であった。三角点のまわりは片付けられて下草もなくすっきりしていた。近くの木に、誰かにいたずらされたのか、真っ二つに割れたK山 岳会の記念プレートが括りつけられてある。尾根の左右に、林のすき間から、内海の淡い色の水面が見えた。山を含む部分が、湾のほうに突き出しているからである。
 下山準備をすまし、まわりをもう一度見まわす。おやっ、と目を止めるものがあった。先ほどの山岳会の山名板である。よく見ると幹に巻きつけたビニール被覆の針金が幹にくい込んでいるではないか。その、後方にまわした針金が、木の成長で、プラスチック板を引き寄せて、その圧力で二つに割っていたのだ。いたずらではなかった。木は木なりに、けなげに仇を取っていたのである。

 
「山は地図で見ても分らない。本で読んでも分らない。写真でながめたものとも違う。自らの足で登り、自らの眼で確かめる以外に山を理解することはできないのだ」

新田次郎『孤高の人』


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雉刀森         222.0m         三等三角点         甲崎

 須崎市の横浪半島、デュオ横浪ゴルフ場の南側にある山である。チトウモリ。

火立森よりの雉刀森

 雉刀森は「雉頭森」の変化したものではなかろうか。ご存知のように、キジの頭は緑の羽根の地に赤い顔と鶏冠をもっている。緑の林の近くに赤土の露出した頂をながめて、横浪三里の対岸に住む人がこのような山名を付けたとしてもおかしくはない。
 それにしても横浪スカイラインはどれほどこの半島に便利さをもたらしたかはかり知れない。これがなくば外界に面した福良などの漁港は今もって陸の孤島であっただろうし、明徳中高などの教育文化施設もできなかっただろうし、この山にしても、それをよしとするかは別として、これほど簡単に登ることもできなかった。たぶん渡し船で渡るか、西から陸を伝うかして、どちらにしても大変だったことだと思う。
 スカイライン沿いの待避所に車をとめ、斜面をかけ上り、尾根を左へ登りつめるとはや頂上である。広場に出て、中央やや手前に、難のない三角点が見えた。空も大きくひらけている。強風と今期一番という寒気を避けてこの山に来たつもりであったが、陽光は弱いものの風もなく寒くはなかった。頂上の木々の間からはずれて、外海の見えるところに出ると、おだやかな初春の海が、午後の陽に光り輝いて、崖になった岬の先端の海にいくつか浮かぶ、尖った岩の塔が黒く浮きあがって見えていた。

 
「われわれは(山へ)ゆきたいと思うがゆえにそうするのである。」  

エリック・E・シプトン


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森山        1429.5m        三等三角点        日ノ浦

愛媛県別子山村と大川村の境にある山である。ミツモリヤマ。

峠から見える三ツ森山

 小麦畝の登山口から入山し、広くて、登るほどに快適になる歩道を三森峠まで歩いた。峠には何本もの送電線が交錯している。利用した歩道もそれらの保安管理道だったのだろう。
 峠には小さな地蔵さんが路傍にポツンと立っていた。手を合わせてからさらに登る。そこから三森山頂上までは両手を使わなければならないほどの大変な急坂である。なだらかになったと思ったら間もなく頂上であった。さほど大きくない落葉樹の喬木林と笹に囲まれている。季節柄木々はすべて葉を落としていたが、ほとんど展望は開けない。数枚の記念プレートが立ち木に吊り下げられていた。なぜかそのうちの一枚はプラスチックのおしゃもじの形のものだった。
 すこし下った岩の上から平家平をようやく眺めることができた。

 
「山の中には木地師たちが住んでいて、お椀などをつくるためにトチの木を切ったりしていたが、ひと山で数本切ったとて、森林の生態系にはまったくといってよいほど影響がなかった。
 木が大量に切られるきっかけになったのは、木を運びだす手段ができたことだ。」

稲本正『森の旅 森の人』


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土居山         1061.9m        三等三角点        日

 本川村の大橋ダムの北にそびえる山である。ドイヤマ。

岩棚での休息

 このあたりでは県境稜線の山々があまりにはなばなしすぎて、
1000mそこそこの山では大きな顔もできないが、上部には岩場もあり、案外いい山であった。なによりも静かなのがいちばんである。

 足谷の、人のいない集落のあいだを登っていると、想像していたことではあったが、すぐ車道に出て、それをすこし歩いてふたたび入山した。急峻な坂を、尾根に出たり沢をこえたりしながら登る。出発してから2時間、ようやく頂稜に出た。その前から、頭上におおいかぶさるように大きな岩壁が見えていたが、尾根に出るとそれらの頭頂部が、スズタケや小喬木の中つぎつぎと眼前にあらわれてきて、その間を抜けたり、いちだん下におりて巻いたりしなければならなかった。ようやく頂上。
 三角点まわりを片づけて撮影をすまし、手前の展望のきく岩棚の上にあがり昼食にした。平坦で、10人が宴会でもできそうな岩上である。目前には稲叢山がシルエットを見せ、左を向くと県境の稜線、眼下には県道ぞいの家並などが何ヶ所にも見えていた。紅葉は盛りを過ぎているが、むかいの山はまだ十分にうつくしい。朝にはあれほど冷えたのに、今はなんと風もなく暖かいことか。
 大休止してから、車までかえり、「小麦畝」三等点868.5mにむかったが、時間もなく結局その日のうちには標石を見つけることができなかった。

 
「多くの人達は、何事にもすぐ意義を見出さなければ気がすまない。自分達が登ろうとする山も、あまりにも熱心にそのように見ようとするので、この世の不思議というものを体験できないのだ。」   

ラインホルト・メスナー『ナンガ・パルバート単独行』 単独行


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葛原山         1013.0m         三等三角点        日ノ浦

本川村の大川村寄りに位置する大橋貯水池の真上の山である。カズラハラヤマ、クズハラヤマ。三角点名は葛原(くずはら)である。

山火事あとの尾根を登る

 本川村は森林の国有林率は60パーセント近くで馬路村につづいて県内第二位である。この葛原山も山頂ちかくまで国有林であるが、美林はもはやなく、伐採後は広葉樹林にかえす施業がなされていくという。この山も保水力あふれる「緑のダム」にはやく戻していかなければならないだろう。そのうえ一般的な乗用車一台の排出する一酸化炭素を吸収するのに成木がなんと数十本必要だという。工場などからのそれを加えると、京都議定書ではないが中途半端な考え方では人類はこの先やっていけるのかと心配になってくる。
 林道をしばらく歩いてから入山した。取りついた尾根は山火事があったとかで、トンネル状になったりして(その下を人がくぐれるのだ)白骨化した木の根を多く見かけた。
 三角点のある尾根は東西に長く、南北面は急傾斜になっている。周囲は広葉樹林であるが、展望はすこし西に下ったところから長沢山が、さらに西のほぼ頂上と同標高のピークあたりからは南東方向に大きく居すわる稲叢山や西門山、それに、とぎの山などが連嶺になってパノラミックに望まれていた。

 
「頂上は広い台地になって密生した落葉松には、幹も枝も一面に樹氷がくっついている。折しも吹きつのる風が梢を揺がし、絶え間なく全山は響いている。加藤はこの感じを蕭条と云ったが、全く当を得ている。時に午後三時、三人は黙然と雪の上に腰を下ろしてテルモスをすすり、パンをかじった。さきに地図を按じてこの最高峯を語りあっていたときに、われわれは森林限界を抜きんでてそびえ立つ白銀の稜線を想像していたのであった。だから今この深い樹海に埋れた最高峯の山容を見たときに、われわれはいささか度外れの感じがないではなかった。」

京都帝大旅行部『雪のホロンバイルより大興安嶺へ』 最高峯へ

 

昭和1012月から111月にかけて、京大旅行部は満州ホロンバイルから蒙古高原の大興安嶺1835mへ探検登山を行なっている。前年の同大の白頭山遠征につづくエクスペディションである。日本国内における積雪期の山がひとわたり開拓されつくした後、先鋭の登山者たちの目は海外の山に向けられはじめようとしていた。昭和1012月東大は千島チャチャヌプリに、同志社は12月から昭和111月にかけて樺太東北山脈へ、関西学生連盟の合同登山隊は同じころ済州島のハンナ山に向かっている。そして11年の秋には、立教大隊によりヒマラヤ、ナンダコットが登られ、いよいよ前途洋々たる道が登山者たちの眼前にひらけようとするのだが、戦争はそれらの芽をつみ、若者たちの夢もろとも登山界の未来も一時しぼんでいってしまうのである。


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潰ヶ谷山        1062.5m        三等三角点        日

本川村の山である。国土地理院の地形図には山名は見えないが、昭文社の山地図「石鎚山」に記されている山の名がいくつかある。この潰ヶ谷山もその一つである。尾根を西に伝うと鷹巣山を経て県境に達する。ツブレガダニヤマ、ツエガダニヤマ。

スズタケのなかの三角点

 台風一過の林道では路面を水が流れ、山の上の方にいても谷の音が轟いていた。道路上につえ落ちた赤土のぬかるみを四駆のLOW に切り換えて乗り切り、タイヤから下が文字通り泥だらけになってしまう。幅員のほとんどが谷に潰れ落ちているところの手前で車を止め、歩きはじめた。天気は徐々に好転している。
 林道から尾根に取り付く。最初からスズタケのヤブ。三角点へは考えていたより、もうすこし時間がかかった。どうも尾根を一つ取り違えていたようである。地形図を車に置き忘れてきたこともあり、いささか不安になりかけたころ、踏み跡上、スズタケの陰に標石を見つけた。四方をそれよりも大きいくらいの岩のかけらで頑丈に守られている。そこだけひときわ周りより高くなっているわけでもない。それでも植林や尾根周辺の広葉樹などの木々がなければ間違いなく東側や南北の大きな展望は得られただろう。地図に山名の書かれている辺りまで行ってみることにした。しかしますます濃く、背高くなるスズタケに手を焼いて、頭上の空と木々の写真を一枚撮ってから三角点まで引きかえした。

 
「何故人は山へ登るのだろう。何故好んで、氷の岩尾根を登って行こうとするのだろう。この自ら悦んで求める忍苦の行為を人が棄てないうちは、私は人間の尊いねがいを疑わないだろう。」         

串田孫一『若き日の山』 孤独な洗礼より


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下クレ石山       1486.3m       四等三角点        日

本川村の山である。私の持っている1968年版の昭文社の「山と高原地図 石鎚山」には、国土地理院の地形図に見える山名のほかに、高知県内にさらに7つの山の名が記載されている。椿山、奈辺良谷山、岩茸山、上瀬戸山、鷹巣山、潰ヶ谷山、それに今回の下クレ石山である。書店で同地図の2003年度版を見ると、その数は半分以下になっていたようである。冠山から南に派生する尾根上の峰。シモクレイシヤマ。

手前が旧農商務省山林局の次三角点である

 登る前後、林道上からは平家平から冠山にかけての低い笹におおわれた美しい県境の稜線が見えていたが、入山している間には他の山々の眺望はほとんど得られなかった。若い植林の中のブッシュ、その後は広葉樹林の下、スズタケが頂上に至るまで続く。急坂の尾根上の障害、衝立のような大岩に思わず息を呑む。ルートファインディングしては、小喬木の幹、根にすがりながら登高を続けた。なんとかロープを使わずにのりきる。主稜線に出ると、今までに増してスズタケが濃く、そして背高くなったが、間もなくヤブの間に大きな三角点の標石を見つけた。しかし、最初に見えたそれは明治時代に農商務省山林局によって国有林測量のために設置された次三角点といわれる標柱で、裏には山という大きな文字。国土地理院の四等点はそれから1mほど離れたところに小さくて新しい標石が遠慮がちにある。ここでは山林局のほうが風格のある主人公のような顔をして立っていた。それは仕方のないことかもしれない。四等点は昭和48年に埋標された新顔で、ずっと農商務省山林局の方がこの山では先輩である。次三角点のほかに主三角点があり、こちらは鷹巣山のすぐ西の頂で見ることができる。
 まわりの広葉樹はまだ大木といわれるには遠く、空は見えるが、ただそれのみ。せまい空間を、せめて畳一枚ほどに刈りひろげてから、昼食にすることにした。

 
「私はようやく疲労をおぼえはじめた。二時間というもの、ひつきりなしにステップを切つたからだ。テンジンもまた動きが非常におそくなった。さらに新たな隆起をまいて、ステップを切りながら、何時までこれを続けたらいいのかと、全くうんざりした気持に襲われ、最初いだいた晴れやかな気分は、冷酷そのものの死闘にかわつていた。その時、ふと前方に気をつけると、今までひたすら高まつてきたこの山稜が急に切れおちて、はるか下にノース・コルとロングブック氷河が見えた。そして頂上を見ると、一本の細い雪稜が雪の頂にむかつて走つていた。われわれはこの堅雪に、さらに幾度かピッケルを振つて、遂に頂上に立つたのである。
 真先に私がいだいた感想は、もはやステップを切つたり、山稜を乗りこえる必要もなく、頂上近しと見せては、われわれをじらした隆起も、もう無いという安心の感情であった。テンジンを見ると、帽子(バラクラバ)も眼鏡も酸素マスクも、すつかり氷柱(つらら)が下つて彼の顔をかくしていたが、あたりを見廻しながら心の底からわき起る喜びに相好をくずしていた。
 われわれは手を握り合い、テンジンは両腕を私の肩にまきつけ、息の根がとまるほどお互いの背中をたたき合つた。時刻はちようど午前十一時三十分。山陵を登りきるのに二時間半を要したわけだが、私にはそれが一生涯のように永く感じられた。私は酸素の栓を止めて器具をはずした。」

ジョン・ハント『エヴェレスト登頂』頂上 ‐エドムンド・ヒラリー記‐ 

 
人類が全地球の最高点に立った瞬間である。われわれであっても楽に登れる頂点よりも苦労の末、たどりついた頂が何倍もうれしいものである。たぶん彼らふたりは文字どおり登山者最高の喜びを味わったことであろう。


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桑瀬山         1035.4m        三等三角点        日

 本川村の、冠山や笹ヶ峰、寒風山、それに桑瀬峠などのつらなる県境稜線がおおきな弧を描く、その半円の中心にある三角測量の要の山である。クワゼヤマ。

県境の尾根は吹雪いていた

 一か月前、一
谷越えまで登ったときには「一の谷やかた」の駐車場から登りはじめたが、今回は、旧国道のすこし先から一段上の車道まで入ってそこから登ることにした。何分かはセーブできるが、それよりも準備中などにひと気のないのがいい。風が寒くて寒くてたまらない。県境のほうを見ると、雪か霧氷で白くなっていた。

 20分後に上の林道に出る。高度計とコンパスでナビをつづけながら、登山点として予定していた、登山道が北東から北に転針する地点までさらに進んだ。そこに、主稜線までたぶん出ることのできるだろう切り分け道があるのを前回見ていたからだ。地形図での標高930mの小道入り口のまえで、もういちど地図を広げてたしかめてから、ふたたび登りはじめた。15分後、出た主稜線は、思っていたとおり、北上する緩やかな上りになっている。まちがいない。もう頂上はちかい。
 まもなく尾根道の右側のうすいブッシュのなかに寒そうにふるえる三角点をみつけた。崩れかけた測量の木組みが標石の上にのこっている。さっそくスズタケやひょろひょろ伸びた小喬木、腐った木組みもすっきり片づけて、標石もきれいにお化粧する。半分になった赤白ポールを立て、記念プレートをくくりつけて写真をとった。北の奥七番山あたりを見あげると、積雪がすでにあり、なお今も小雪が降りつづけている様子であった。

 
「かすんでかさなって山がふるさと」               

種田山頭火


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天賓阿礼山       1389.3m       三等三角点       日比原

 土佐町と本川村の境にあるが、三角点は200mほど土佐町のほうに寄っている。稲叢ダムの南、1kmほどに位置し、町村境を北にたどれば稲叢山にいたる。また山名がたいへん珍しく、これを見、また聞いただけで、登頂欲をそそられる。テンピンアレヤマ。

広範囲な伐採跡であった

 
出発のまえ、稲叢ダムからにしようか、程野側からにしようか迷ったが、雪でダムまで行くことができるかどうかわからなかったこともあるが、ほかの誰かが登るとすれば十中八九、そのダム側からにすると考えられることから、余計に歩かなければならないが今回はあえて後者から挑戦することにした。
 峠から、ちいさな地蔵さんの横をぬけ、町村境の急な尾根道を登りはじめる。予想したとおり、1000mをこえた辺りで、道はトラバースをはじめ、滝の上の 断崖などを通って、20番鉄塔。そして19番、18番と辿って、最初の目標である稜線上の17番にでたが、風が強く、電線や木々がうなりをあげていた。ここまでくると眼下や目の前に稲叢ダムや稲叢山がみえる。だがそこから、尾根上に道はなく、密なスズタケと倒木、それに体や足に絡みつくツル状の植物など、まったく一進一退もままならない凄まじいヤブになっていた。垂直水平、上下左右の振幅を考えても、1kmそこそこの空間を移動するのにまるまる2時間もかかった。ヤブ漕ぎにいいかげんあきて、食事にしようか、と途中で妻に話しかける。三角点についたのは、出発から4時間近くたっていた。瑕疵のない標石の周囲はそこそこひらけている。くっついて赤白ポールが立っていた。
 昼食後、下山にあたって、ひとつの決断をした。このまま往路を下山していては日が暮れるかもしれない。そこで、南側すこし下が広範囲な伐採跡になっていたので、それをよこぎって、18番から19番鉄塔の間の歩道に出ることにした。そこらあたりで伐採跡が最接近しているのを登ってくる途中、見ていたからである。登りにはそこから頂上まで3時間を要したところを、わずか30分で19番鉄塔まで下山することができた。山で遠くまで見通しが利くということは、おおいに楽であり安心でもある。

 
「わたしたちはお互いに意見を交換しながら、岩の迷宮の中を、一歩一歩探し求めて行った。未知の不安につつまれて、ためらいつつ絶えず探し求めて行くことは、あらゆる秘密を熟知し、目標へまっすぐ導いてくれるガイドの後ろを安心しきってついてゆく場合よりも、あきらかにその登山をよりすばらしいものとしてくれるものだ。」

ギド・レイ『アルピニズモ・アクロバチコ』 プティドリュの岩壁での一夜


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下蔭山        1001.7m         三等三角点        日比原

 本川村、長沢ダムの南側に、貯水池にせり出すように、岩の兜をきたような厳つい姿でうずくまっている。それが下蔭山である。シモカゲヤマ。

岩に沿ってへつってゆく

 標高差はそれほどではないが、なかなか登山の醍醐味を感じさせる山であった。西側からアプローチするのでなければ、どこかで貯水池か谷を渡らなければならないのだが、その谷にかかっていた橋は、橋脚のみを残してすでに落ちてなくなっていた。コンクリートの橋脚のうえにも草木が茂っている。もう相当以前からこうなっていたのだろう。いちど河床に下りて対岸に上りなおした。朽ちかけた大きな切り株がのこる尾根の二次林には、葉の形も色もまちまちの多くの植物が育ち、初夏のみずみずしい生気が充満している。障害の多い急なヤセ尾根。途中のハシゴも、橋とおなじように朽ちて、横さんもほとんどなくなっている。立木にぶらさがり、ひらきながらよじ登る。崖を巻く。頂稜下の断崖にぶつかり、右にトラバースする。行けども壁はつづき、引きかえして反対側をさがさなければならないのかと気はあせる。なんとか急な斜面をよじて、頂上の尾根に出た。これも道があれば、あっという間のことだったろう。
 ヒノキ、トガ、マキなどの大木が崖に林立している。ダム側は広葉樹の自然林。そこから東へ二つ目の頂に三角点はあった。笹に完全に埋まりかけている。まわりは急に落ちていて、ゆっくりお昼もできそうにないので、ひらいて写真を撮ってから一度下り、西の、そこより20mほど標高の高い、最高点まで上る。そこは寒いくらいだった。登ってくる途中大汗をかいたのがウソのよう。カッコウの声が聞こえてくる。また夏が来たのだ。

 
「午前五時一行とともに出発、露営地の後の崖を登ると、前は雄大な斜面、左手のシュミダールの深い暗い沢から、右手のクングリの尾根へつづいて、キャラバンは、斜面の中ほどをしだいに、南へ歩いた。東南には六〇〇〇㍍を越ゆるシュミダールの厖大な雪の峯が、いまやしだいに雲をはらって露われんとし、赤い金色の光が、峯々から、静かに天地を彩り始めた。五五〇〇㍍の黎明は、ただ神々しいというよりほかはなかった。この天地開闢の美しさのうちに、恍惚として歩を運ばせていた。マサジーも、真面目くさった様子はいつか消えて、心の喜びを静かに顔に浮かばせていた。二、三時間の後には、シュミダールの峯は眼前に迫って、輝く氷の肌が見えてきた。登路を探しながら登ることを想像すると、何とはなしに心が震えた。」  

長谷川伝次郎『ヒマラヤの旅』 クングリビングリ越え

 

 
 長谷川伝次郎(18941976)は東京生まれの写真家である。4年間のインドに留学中、2度のヒマラヤへの旅を試みた。そのうちの一度、1927年の、仏教、ヒンドゥー教、そのほかの、最大の聖地であるチベットの「カイラス山」への巡礼の旅を、インド人の友人であるマサジーと一緒に行なったときの文章である。彼の目的は、最初から、ヒマラヤの、どこかの巨峰の頂をきわめるというものではなかったが、未開の村々や高い連続する険悪な峠を越える旅は、すぐれた登山家とくらべても、なんら遜色はない。1932年に出版された、この本の文や写真は、多くの日本人たちのヒマラヤへの夢をふくらませた。とくに深い関心を寄せたのは、1936年に、ガルワル・ヒマラヤのナンダ・コットに初登頂した立教大の若者たちではなかっただろうか。

 
カイラース ヒンドゥー神話によれば、カイラースは破壊と再生の神、すなわちシバ神の玉座である。一般にはシバ神それ自体として崇拝されているのだ。印度のシバ神を祭る寺院では、シバ神の象徴として 男根(リンガム)を安置するが、カイラースは最大のリンガムなのだ。
 なお印度デッカン高原のナイザム領にあるエロラの岩窟のカイラーサ寺院は、西暦八世紀に起工されたものであるが、構造その他外形のデテイルにいたるまで、すべてカイラースおよび外輪山の山容に暗示を得て設計せられたものといわれる。」


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黒滝山         1210.3m        三等三角点        日比原

 本川村の役場のある長沢の北東側に、岩のよろいを着たような峨々とした山容をみせる山である。クロタキヤマ。

間違って別のピークに登ってしまった

 数ヶ月前の小雨の週末に登山点をもとめて、山のまわりを車でほぼ四分の三周した。その結果、南側はほぼ望みうすで、葛原山のほうから見る山面に可能性が感じられた。その後、試登一回のあと、11月中旬の雨の翌日、頂上三角点をめざした。
 道はほぼあるにはあったが、ヤブになり、また谷側に切れ落ちている。ところどころ崩れたところに掛けてある桟道もことごとく腐っていて山側に寄ってこわごわ通らねばならなかった。丸木橋も当然朽ちていて巻かなければならず、そんなところや崩れて岩が露出して手がかりも足がかりも少なく帰路が危険になると思われるところには細いロープを残して先にすすんだ。幾度渡渉をくり 返したかわからない。大目の水量でぬれた岩に足を滑らさないように注意しながら渡った。おもしろい山であった。分岐をひとつ間違えるととんでもない断崖の下にまぎれこんでしまい、引きかえしてまた別のルートをさぐる
 3時間30分ほどでようやく頂稜に出、まもなく三角点を見つけた。小喬木とうすいスズタケのなかである。石柱はすっかり蒼い苔に包まれて自然の一部になっていた。それと同時に周囲もきれいにして写真をとってから昼食。座っていても南側の山々はほとんど見えている。すぐ前から崖になって落ちているからである。立ちあがると隙間から長沢ダムの堰堤や対岸の林道、どこかわからない建物などが見えていた(展望は、岩山であるが、北の1090m の標高点からのそれが最高である)。寒いのでチョッキとマフラーをまいて食事をし、その様子をケイタイで撮ってIメールで家に送った。何万何千何百何十何日の内の一日のことである、私たちの。

 
「はたして人は大きな夢を現実にした瞬間が最も幸せと言えるだろうか。僕は上に向かって前進しているときが、一番幸せのような気がしてならない。」

山野井泰史『垂直の記憶』 ソロの新境地


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長沢山         1428.6m        二等三角点         日比原

本川村の、長沢ダムの上の山である。ナガサワヤマ。

さわやかな新緑の中を歩く

 中野川で「下根津木林道(しもねづきりんどう)」に入る。高度が上げるにつれて石鎚山系の山々も見え始めたが、やがて崩壊により進めなくなった。路面が水流でえぐられ、草木が茂って自然に帰ろうとしている林道を、40分ほど歩かなければならなかったが、閉塞感がなく、風景や自然を楽しみながらのウォーキングなのでまったく苦にならなかった。適当なところで主尾根に出る。6月だったので若草でズボンが緑色に染まってしまった。尾根は季節的にも、また標高から言っても本当に美しかった。笹や、ブナなどの広葉樹も若葉で生命感にあふれていた。ときには急坂になる踏み跡をたどる。大きなサルノコシカケをたくさん見た。なかには尾根道の踏み段になっているものもあった。
 頂上は広葉樹と笹の中に一坪ほど開けていた。三角点のそばに、愛媛県の登山グループの記念標識が一本、ぽつんと立っていた。展望は林道以外では期待できない。

 
「数十日の苦闘も、長年の準備も、部長、先輩、山岳部員等仲間を始めとする熱烈な犠牲的協力も、今日一日にかけられた。その最後の勝負のこの瞬間を決意することは余りにも勇気を要した。その時私はかつて日本山岳界の大先輩の方から受けた忠告の言葉が頭に浮んだ。「頂上を目前に見て引き返えす勇気がなければならない」と。強く引く力を断ち切ってわれわれは引き返そう。すべてを無にしても今こそは引き返すべき時だ。」

堀田弥一『ナンダ・コートの初登頂』 頂上を狙う

 
 1936年(昭和11年)とはどんな年だったのだろう。国内では、年の初め、青年将校たちが軍部の改革を要求して、2.26事件を起こし、国際的には、8月、ヒットラーのナチス・ドイツが、その全盛を謳歌して、ベルリンにおいて大々的にオリンピックを開催している。そんな、いわば世界大戦前の、嵐の前の静けさといえる時代であったのだが、学生たちやOBたちには、まだその危機感は伝わっていなかったのだろう。
 その年の夏、ふくらむ一方のヒマラヤへの夢断ちがたく、堀田弥一(のちに日本第二次マナスル登山隊隊長をつとめる)をリーダーとする立教大学登山隊5名は、海路インド、カルカッタに向かい、ガルワル地方のナンダ・コットを初登頂すべく、3名のシェルパと約70名のポーターを雇ってキャラバンを組んで出発した。9月2日、4150mにベースキャンプを設営、第4キャンプから最後の攻撃を開始するのであるが、途中、高度馴化の不足と、雪の状態などで、一時遭難寸前まで追いこまれる。上の文章は、撤退を決断したときのものである。態勢を立てなおした一行は、105日、事故もなく、隊員全員とシェルパ1名が、ことごとく登頂を果たし、ここに日本人による初めてのヒマラヤ遠征は、標高6867mの未踏峰征服という、誇りうる成果をあげて終ったのである。
 数年後、日本も、アメリカに対して宣戦布告することによって世界大戦に参戦し、言わずもがなのことになるのであるが、これに召集された、湯浅隊員がフィリピンにおいて戦死することになる。山で、もし、果てていたとしたら どちらが、彼本人にとって仕合わせだっただろうか。山で死ぬのは悲しいばかりではないこともある。

 
「雪の壁を大きく切り取って、踏みしめた足先に全身をたくしながら身体を半ば横に向け、ピッケルをふるって蔽いかぶさる雪庇を少しずつ前に打ち落した。斜め前の雪庇がかけ、そこから片手を伸ばして頂上の雪にピッケルを深く打ちこんだ。それを手がかりとして身体をすり上げながら、もう一方の手で雪庇の端をたたき割った。大きくあいた穴から両腕を頂上にかけてがんばると身体ははずみ上った。
 瞬間、視界は開け、自身より高いところは見当らない。頂上にきた。
 立直って合図をし、雪中深く突きさしたピッケルでザイルを確保しながら、感激と疲労のあまりにその場に俯し倒れてしまった。二時五十五分、ポケットから時計を探り出したのを最後にただ感激の涙があふれた。
 つづいて湯浅が登ってきた。そして無言のまま私の手をしっかりと握りしめた。間もなくアンツェリン・竹節・山県・浜野もつづいて登り、全員二二五一〇フィートの頂上で手を握り合った。
 闘い抜いた感激。そして使いきった心身の疲労を自ら労った。吹き狂う氷雪の山頂で。」

堀田弥一『ナンダ・コートの初登頂』 初登頂

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大森山         1141.1m        三等三角点        日比原

本川村南部の山である。この山の南側を大森川が流れ、その上流には大森川ダ ムがある。オオモリヤマ。

頂上からは好展望が得られた

 ランナーに「ランナーズ・ハイ」があるようにわれわれ山歩き愛好家にも「ウォーカーズ・ハイ」ともいえる状態がおとずれる。草木をながめながら、あるいは大空のもと、息を切らしながらひたすら数十分も歩きひと汗かくころには、やがて世の中の憂きことなどいづこの世界のことかと思えるような幸せな気分になれる。これもまた登山者の楽しみのひとつである。
 そんな軽やかな気持ちでしばらくあれた林道を歩いた。ネコヤナギの穂もふくらみかけている。緑がうつくしく印象的な尾根にはいると、シャクナゲにまじってマキの木が目だつようになった。伐採された大木の根株を方々で見た。近くまで植林はせまってきているが、頂上は低い広葉樹のなか。そこにはスズタケはない。三角点からの展望は南と東にひろがって雰囲気はよかった。稲叢山が格好よく見え、鏡村の雪光山が、かなり距離があるにもかかわらずはっきりしたピークをのぞかせている。早春の山頂でゆっくり時間をすごしてから下山にかかった。
 私たちは西側の林道からアプローチしたが、大森の集落から休場にこえる峠まで登り、尾根をつたうこともできた。

 
「人は漂泊せんがために、さまよい歩く」         

ヘンリー・ヘーク


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西         975.4m        三等三角点         日比原

 本川村と吾北村のさかい、本川村の大森山の3km弱ほど南東、吾北村の小式ヶ台のおなじく3.5kmほど北にある山である。さらに西峰から2km東には新大森トンネルが地下を通っている。ニシノミネ。

寺川より見る西ノ峰

 奥南川林道。この道を走るのは何度目になるだろうか。最初にここを訪れたときには、相当な山奥にきたと思ったものだが、慣れてきて、最近はそんなことも考えなくなってきた。45km走ったところで登山点を確定するために、すこし行ったり来たりする。林道が南にはりだした部分に踏み跡が見つかり、予定どおりそこから登ることにした。準備をしていると、オフロードバイクが一台、横をあいさつして通りすぎていった。登りはじめ、等高線がひじょうに詰んでいるのだが、そこの部分は慎重に踏み跡をたどる。やがて、植林中の斜面になり、倒されている間伐材やブッシュを避けながら登っていった。間断ない斜面なので、ふくらはぎが張ってきて、汗がただ流れる。カナカナとヒグラシが鳴く。この声を聞くとなんだか淋しい。騒々しいがかえって静寂を感じさせる。
 1時間足らずで村境の尾根に登りつめた。自然林の緑がまだ若々しくて目にやさしく、下草の感じがまたいい。さらにルートを西にとって、間もなく三角点の広場についた。ほんとうに広場といえるほど、改測のために周囲は切りひらかれていた。多めの雲量の空模様だったが、時おり太陽が顔をのぞかせるとさすがに暑くなった。
 登りの半分ほどの時間で車まで下り、林道をさらに奥に走り、大森ダムを見たところで奥大野林道に乗って、村境の奥大野越えまでガタゴトと走った。水温の上昇が気にかかる。峠からさらに「寺川」三等点943.8mの方にむかう作業道があり、奥のほうは草がボーボーと茂っていたが、かまわず入っていった。そこからはしっかりした歩道もありナタもいらない。尾根を登るとまもなく眼前があかるくなり、三角点についた。古い標石は、埋めなおされたように、まわりの土も、4個の守り石もみんな新しいのはなぜだろう。テレビの共聴アンテナがそばに2本立っている。南や東に展望がおおきく開けていて、真正面にはおおきく小式ヶ台が、そして左の端には先ほど登ってきた西峰が見えていた。

 
   ある日

   風にゆれる小さな花を見て 手放しでよろこび

   こずえの小鳥のさえずりを聞いて ふと目頭をうるませる

かとおもえば べつの日

   大空にうかぶ白雲を見あげて 真顔で長い嘆息をつき

   ただ首筋にそよ風を感じただけで まんめん笑顔をみせる

ほんとうにしようのない

   私は山のきまぐれやさん


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戸中山         1261m        三角点はない        日比原

本川村と吾北村境の山である。トチュウヤマ、トチュウザン。

滝の中段を渉る

 国道194号線が安望の陸橋にさしかかるころ、右側前方に程野の滝のかかる断崖が見える。戸中山はそれらの上の山である。戸中は、むかし、山村の暮しが貧しかったころ、備荒食として栃の木を植えていたところから、栃の生える里、栃生(とちう)から来た地名ではないかと本川村の古老は伝えている。もっともこれは本川村のみのことではなくて、たとえば、昭和8年に出版された「赤石渓谷」(平賀文男)にも、「戸中は栃生とも書き…」という言葉が見える。
 程野の西滝の上に出ると、登山道(林業作業道)は上方へ上方へとつづいていた。主稜線まで出て、山頂までの途中にある電波反射板の下の広場からは石鎚山系の山々がほとんど同定できてしまうのではないかと思われるほどひらけている。稲叢山や大橋貯水池なども眼前直下に見えていた。本川村の戸中地区の方から反射板の管理道が登ってきているようであった。頂上は、喬木とスズタケのなかに同じような標高の尾根が連続し、三角点がないこともあって、ここが頂上と断定することが難しかった。途中の最高点と思われたところを私たちは私たちの頂上とすることとした。
 車まで下って帰る準備をしていると、近くに住むおじいさんがコーヒーでもと誘ってくれた。急いでいるからと断ると、それではこれでもと、吊るしたままの干し柿を持たせてくれた。20年近く前のことだが、まだお元気だろうか。


「二代藩主忠義の手紙に「今年はことの外木の実が沢山採れたそうで、百姓たちは来春の食べ物に不自由することはあるまい。」(中略)とある。土佐本川に戸中(とちゅう)という部落があるが、ほんとは栃中(とちう)と書いたものでその実を食糧とするために、家々に栃の木を植えたものだった。二本とか三本とか、それが生育していなければ嫁をもらうこともできなかったという。」

「本川村史」 第四章 庶民の生活 村人の暮らし


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戸中峰        1095.3m        三等三角点         日比原

 本川村と吾北村のさかい、戸中山から2kmほど尾根を西南西に伝ったところにある三等三角点の山。改測中で、近く、標高が数十センチ変わるはずである。トチュウミネ。

石鎚山や岩黒山が見えた

 私の持っている
2.5万の地形図「日比原」は古く、昭和42年測量、昭和51年に修正測量されたもの。それによると、本川の戸中から吾北側の安望にかけて二本の並行する送電線が描かれている。そうであれば、送電線に添う形で管理道があり、それを辿れば労なく村境の尾根まで登ることができるはずであっ
た。
 だが、現地には四電の送電線も鉄塔もなくなっていた。管理道を兼ねていた峠道は、あれば修理が重ねられていたはずなのだが、崩れるところは谷側に崩れおちて荒れてそのままになっている。残骸のような心細い歩道の上に雪が乗って歩きづらい。さらに右側が崖のような急斜面なので最後まで緊張感を弛めることができなかった。右手に近く稲叢山、そして手箱山の右方には、長沢ダムを眼下にはさんで、岩黒山や石鎚山がのぞまれる。1時間30分近くかけて、ようやく峠につく。ここから左に尾根をたどらなければならないのだが、すこし吾北側をトラバースしたのち、主稜線に出たところに送電鉄塔が以前立っていたようなので、そこまでは道が残っているだろうと考え、進んでいると、二匹の犬と猟師が大急ぎであがってきた。大きなイノシシがこのあたりに潜んでいることを昨日確かめておいたのだという。私たちに向かって鳴く犬を「静かにしろ、イノシシが逃げるだろうが」と、叱りながら追いぬいていった。
 稜線上のスズタケは、それほど剛性も密度も高くなくホッとする。その上、三角点が改測されて間がないせいか、簡単な切りひらきもあった。頂上は喬木が切られ、枝もはらわれてひらけ、雪が10cmほど積っていた。東に戸中山や天賓阿礼山などの頂らしい盛りあがりが見える。風もなく、穏やかに陽光のあたる正月明けの静かな山頂であった。

 
「山は多くの庶民にとっては神仏や精霊に満ちみちた世界であり、山岳信仰者にとっては、地獄・極楽を具現する十界曼荼羅の世界であった。しかし知識階級の登山者たちにとっては、山はひたすら大自然の風景を楽しみ、浩然の気をやしなう空間以外の何ものでもなかった。長い間山の世界を支配してきた神々や諸仏も、鬼も天狗も精霊たちもまさに消えさろうとしていた。そしてそれが日本における近代登山への序曲でもあった。」

 別冊太陽『人はなぜ山に登るのか』日本人と山


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白根山         720.3m         三等三角点        日比原

 吾北村の、程野の谷をはさんで、戸中山の対岸にある山である。シラネヤマ。

さようなら、三角点

 グリーンパーク程野の山上のゴーカート場で何人かが興に入っていると、チェインソーに似てはいるが、それよりもはるかに大きな爆音が山々に響きわたっているのだが、その日私たちがお昼前にコースの西側の広場に着いて、白根山にむけ歩きはじめるまで、まだだれも小さなマシンを走らせるものはなく、聞こえてくるのは小鳥たちののどかな地泣きの声だけだった。

 結婚記念の植樹がされて、何十組ものカップルの名前が一本一本に記入された白い木柱が、山の斜面に植えられたケヤキやヤマザクラなどの若木の横に立っている。そんな場所を過ぎるとわれわれの領域となった。尾根はしぶっていて、ひらいては、一歩一歩、見えない足場を爪先でまさぐりながら進む。一つ二つと頂を越えているあいだに、だんだん周りの木も大きくなって、歩きやすくなった。大きなクロマツが多い。それからやはり大きなモミもある。ヤマツツジもあればツバキもあった。三角点はキズもなく、頂上がブッシュに埋もれていることもなくて、若葉色の広葉樹に包まれて本当にいい気分。
 西側直下の旧の峠までおりてみる。地蔵はなかったが、かわりに炭焼きがまの跡と、ギンリョウソウの群れが、人通りもたえて寂しげな峠の道筋にたくさんの半透明の姿をみせていた。頂上にもどり、帰りじたくをしているとき、ふと北側の木の間に滝が見えた。地形図で確認すると、どうも程野の滝のようである。そうすると、右上に見えているのが、戸中山の頂か。途中の見通しのきいたところで、もういちど確認してみる。そこからは二つの滝が見え、頂上から見えていたのは程野西滝のようであった。

 
「ただ技術だけが成功をもたらすのではない。人間はまた幸運にめぐまれていなければならない。登山家をおびやかす危険は、だがあまりにもさまざまであり、予測できないものなのだ。山の危険は、わたしたちがどんなに研究し、経験をつもうとも、あまりに複雑であり、あまりに予測できないものなのだ。一人一人の運命は、偶然という力にゆだねられている。ちょうどそれはあらゆる登山家の頭の上にダモクレスの劔がゆれているようなものだ。それはある人には幸福をもたらし、他の人には破滅をもたらす。」

ウィロ・ウェルツェンバッハ 『北壁集』

 
 ウィロ・ウェルツェンバッハ(19001934)は生前に一冊の単行本も出していない。『北壁集』は、1934年のウィリー・メルクル率いるナンガ・パルバート遠征の途上、仲間を守るように氷雪のなかで世を去ってから1年後、彼の属した「ミュンヘン大学山岳会」によって雑誌などに掲載されていた単文を集成編集して出版された「ウィロ・ウェルツェンバッハの山行」より、北壁に関するものだけを日本においてまとめたものである。
 うえの文章は皮肉である。かれのこの言葉どおり、数年後、ヒマラヤの8000m峰ナンガ・パルバートにおいて、予測できない悪天候によって衰弱死してしまうからである。しかし友やシェルパたちを援け、誇りをもって旅立っていったことは当然である。


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猿抱山          841.2m        三等三角点        日比原

 吾北村の194号線、大森トンネルと安望(あもう)の陸橋の間にある山である。サルダキヤマ。

ほとんど直下を国道194号線が走る

 三角点の北東1kmほどのところに、昭和初期ころまで本川村に赴任するお役人たちが、あまりの山道のつらさに辞職ねがいを胸におさめて越えたという、程ヶ峠、別名辞職峠があった。その峠道は尾根をぬけずに、三角点の2300m南側を通っていた。
 安望をこえて、大森トンネルに向かおうとするとすぐ、猿抱山の東側中腹で一匹の大猿を見た。下車してカメラを取りだし撮ろうとしたらゆっくりと森の中に消えた。猿抱山と猿でなにか因縁を感じさせる出来事であった。
 旧の大森トンネルへの車道は、トンネルが通行できなくなっているので、草木が横から張り出していて、ナビゲーションもままならず登山点を決めかねて、しばらく行ったり来たりしていた。その後、取り付きの楽なヒノキの植林中に登路をもとめることにして入山。やがて急な尾根に登り、それを辿ると主稜線にまもなく出た。ナタを使うこともほとんどない。ここの三角点は、四等点に多くあるように、最高点にこだわらずに立っていた。すこし欠けが見られる。北側の広葉樹林が若葉色一色でひどく美しい。ザックを残して100mほど西の、ここら辺では一番標高の高いところまで行ってみた。
 そこは、地形図にあるように南側が崖になって切れ落ちていて、眼下に194号線とそこを走る車が見え、ふかして坂道をのぼる車のエンジン音が聞こえてきていた。猿抱はおそらく猿岳、または猿嶽、猿滝(すべて「たき」、または「だき」、「だけ」と読む)がもともとだろう。それはもちろん崖の多い山のことである。

 
「視界に、動くものを感じ、顔を上げた。
 数人が雪壁を滑落していく。
「あっー
 上を見る。一瞬のうちに下降を待っていた隊員たちの足元のザイルが落ちていく隊員たちの重量でピンと引きつり、立っていた者たちを次々になぎ倒した。
 恐怖に驚愕した彼らの顔。
 恐怖の目。
 見たこともない形相だった。しかし、誰も顔を上げない。
 下に振り向いたぼくは、確保している中嶋正博に向かって、
「とめてー
 と絶叫した。
 すでに六人の隊員、浦光男、島田昌明、小田島均、松永浩、小野寺忠一、佐々木茂がザイルにつながったままミニャ・コンガ北壁へと滑落している。ザイルの弛みがなくなった瞬間、中嶋正博が跳ね飛ばされた。その直前、中嶋正博とぼくは視線を合わせた。驚愕と恐怖、死の世界に引きずられて行こうとする彼の眼差し。
 ぼくは一生、忘れない。
 七人が落ちていく。
 誰も声を出さない。誰も絶叫しない。誰も救いを求めない。無言のまま滑落していく。ピッケルを使って、停止の姿勢をとる者もいない。ある者は仰向きになり、ある者は横を向き、ある者はうつぶせの状態で一本のザイルにつながったまま滑落していく。七人は、どんどんスピードを早めて視界から遠ざかる。標高差二千数百メートルのミニャ・コンガ北壁が、その先にあった。
 北壁の彼方に、七人が消えた。
 一九八一年五月十日、午後五時二十分。」

阿部幹雄 『生と死のミニャ・コンガ』 七人の滑落

 
 マッターホルン初登頂という栄光のあとの、6名の墜死というあの惨劇、それに匹敵するような遭難を日本人隊も経験している。1981年の北海道隊による、中国、ミニャ・コンガでの、8名の墜落死遭難である。この山は、どうも外面に似ない気難しさを持っているようで、1997年に日本人がはじめて頂に立つまでに、ほかにも5名の犠牲を要求している。
 頂上を目前にしてその事故は起った。
 ひとりが滑落したあと、撤退をはじめた7人がザイルにつながれたまま、北東稜から北壁に向けてすべり落ちていったのだ。だがこの遭難は、避けえたものではなかったのか。
 すべては、隊長の「総員登頂」という号令からはじまった。あの八甲田山の大遭難も、大隊長の鶴の一声からはじまったものであったが、ミニャ・コンガでも同じように、若者たちが高度馴化もままならぬうちに、追われるように頂上にむかい、そしてそれを目前にして、退く最中に取り返しのつかない事態に追いこまれたものと思われる。
 阿部幹雄の『生と死のミニャ・コンガ』は、逝きし者、それから残された者の、十数年にわたる鎮魂の記録として胸を打つ。


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木山        944.9m        三等三角点        日比原

 吾北村の陣ヶ森県立自然公園の西端から、さらに尾根を2kmほど西に辿ったところにある山である。マツノキヤマ。

林道から三角点に向かう

 林道が延伸している。最初行き詰まりに登路を求めたがわからなくて、すこし引きかえし、かすかな歩道入り口を見つけて、
9時過ぎそこから入山。道があって楽だが意外に急坂である。松木も多い。キイチゴが美しい黄色い実をたわわにつけているのが見え、それよりもコガクウツギが道の両側に白い花を一杯ひろげて、なやましげな梅雨時の香りを森にまき散らしている。主尾根に出て10分ほどで三角点に到着。

 西側のみモミなども見える広葉樹の林。ほかの方向はヒノキの植林であるが暗くはない。いやむしろ明るいくらいである。下草はなくて、南には木の間から山が見えている。倒れていた赤白ポールを立てて標石まわりのかたづけをしてから、記念標識を書く。撮影後昼食。暑くはないが小虫がうるさい。頭上でセミがしばらく鳴いていたが、それを追いはらうように小鳥がきて鳴きはじめた。

 
「快楽を求めるように生まれついている私たちが、どうして苦しみを求めるのだろう。安全に所有しているものに注意を払わないということは、悲しい真実である。健康な脚を持っている者はそれを感じない。それが化膿したり、折れたり、リューマチにかかったりしたとき、はじめて、脚を意識する。生きているということは測りしれない宝である。のみならず、幾百万のさらに測りがたい宝への鍵である。しかし、だからといって、「なんとすばらしいことだ、私は生きている!」と突然歓声をあげて叫んだり、一日に五十回もこの讃歌をくりかえしていたら、すぐに精神病院に入れられることうけあいだ。自明のことを意にかけたり、感じたりするのは〝ノーマル〟ではないからである。しかしひとたび危険に陥るや否や、人生の意味するところを痛いほど嗅ぎとり、ふたたび危険から脱すると、その後はずっと人生は驚くほど新しく、ひしひしと身に感じられる宝となり、しかも一抹の不安が煙草の煙のように空中に漂うのである。」

オイゲン・ギド・ランマー 『青春の泉』

 
「なぜ山に登るのか?」ここにもその答えをもとめて苦闘した一人がいる。
 オーストリア人、オイゲン・ギド・ランマー(18621945)は、自分自身にもさだかでない、不思議なおさえがたい衝動である登山衝動をなんとか理論づけようと懸命な先駆的情熱をかたむけた山岳思想家のひとりである。禁欲や危険も人間性を回復させるものであるとして、白髪のまじるまで多くのきびしい単独登山をおこなった。彼らの思想は、とくに近代、極東の島国のアルピニストにも影響をすくなからず与えたことはまちがいない。
 あらゆるスポーツのなかで、もっとも「無償の情熱」性の強い登山という行為は、もっとも精神的には褒賞のおおい高尚なそれであることもまた『青春の泉』でランマーはくりかえして語っている。

 
「私にとってアルピニズムは一種の陶酔であったといっておこう。その中に浸っていると私は、われわれの文明の厭世的要素がすべて消え去るのを感じた。しかし、次のような救済手段を発見したときは、この忘却の陶酔はさらに私を喜ばせた――精力的な行動はよしなき妄想を克服し、力強く健全な衝動にもとづくナイーブな行為は私たちをニヒリズムの不毛の荒野から救い出してくれる、ということである。
 しかし、これは単なる思想ではなく、文句の余地のない体験であった。登山、それも困難で危険な山行きはとくに、こうした快よい確信をいつも新しく与えてくれた。このとき私は発見者であり、征服者であり、他人のためのパイオニアであり、自然に対するゆるぎない勝利者であった。とくに単独行で人の知らぬ道を歩むときはこの感が深かった。」

オイゲン・ギド・ランマー 『青春の泉』


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鷹羽ヶ森         918.9m        二等三角点         思地

伊野町の山である。タカバガモリ。

蛇行する仁淀川を見下ろす

 国道194号線を仁淀川大橋から吾北村のほうにすすむとき、加田をすぎたあたりから前方、仁淀川の上などに大きな姿が見えかくれする頂がある。これが鷹羽ヶ森である。
 周囲に林道らしいものも見あたらず、どちら側から登ってもかなりな標高差をたどらなければならない登りでのある山である。植林と自然林の混交するなか、道をひろいながらじわりじわり高度をあげてゆく。雪でうすく化粧した頂上も自然のみにかこまれた頂とは言いがたかった。植林はがまんできるが、そのほかの人工物があんがいまわりに見える。展望は一方向のみ、北西にひらけており、稲叢山はなんとかわかった。さらに先、県境の平家平方向の山は雲にじゃまされてしまって山名の同定はまもなくあきらめた。
 寒いので雨具を着こんで昼食にする。県外の登山グループの記念プレートが奥の立ち木に見えた。広場中央では二等三角点が、相当に露出した姿ですこし傾き加減に立っていた。

 
「山にも、人生にも、オーバーハングという厄介なやつがあるが、相棒がひとりいたほうがずっと簡単にやりすごせるのだ。ザイル・パーティを軽く見てはいけない。」

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』


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馬路山         589.9m         三等三角点         思地

 伊野町のもっとも西にある三等三角点の山である。高知県東部に馬路村(うまじ)があるが、こちらは「うまみち」と読む。吾北村には同じ漢字を「ばーろ」と読む地名がある。どこも同じように昔、山中に馬のかよった道があったゆえの命名であろう。ウマミチヤマ。

スズメバチの巣を見つけた!

 上八川川の川べりから登りはじめる。苔の生えてすべりそうな山道をのぼり、なんとか道をつないで主稜線に突きあげる尾根まで出ると、ひとときまで、用材や焼いた炭、薪などを河原までおろすため滑りおとしたり、あるいは馬に引かせたりして樋状に削られた運搬路の跡があらわれ、そのあと頂上近くまで急なそんな路や、主稜線では馬がつまずかないで歩けるように平坦にならした路もところどころに見えた。しかし全体に荒れていてヤブになると樋の土手の上にあがったり迂回したり切りひらいたりする。頂上までずっと急坂の連続であったような印象。標高差
550mほどか。石ころや落葉や枯れ枝、倒木で足元危うげなそんな急斜面を最後まで登りきった達成感、満足感はあんがい大きいものだった。

 頂上からは北東に鷹羽ヶ森がこずえの間から見える。だれに注目されることもなかった三角点は欠けもなく露出具合もちょうどよかった。だがこの標石も阪口山のそれと同様に南ではなく北東をむいて立っている。方向に厳格なルールはないのかもしれない。
 下山している途中、木の洞のなかにスズメバチの巣を見つけた。入り口あたりに数匹の大きな蜂が出たり入ったり動いていた。登るときにもすぐそばを開きながら通過していたのでぞっとする。あぶない、あぶない!
 急坂をくだりきって、澄みきった上八川川に飛びこんで汗を流した。10月の水浴は思いのほか最高に気持ちのいいものだった。

 
「小生事旅行を好み候へども、暇がなかつたり、金がなかつたりして、足跡未だ日本の半にも及ばず、四五年中には、日本の名山にのぼりつくし、然るのち支那の山水をきはめ、然る後欧米の山水をきはめつくさむと存居り候。支那なら四五百円あれば、事足り候故、実行しやすし。されど欧米は二三千円もかゝる故、我々貧書生では、むつかしきかと危ぶまれ候へども、とにかく希望は希望也。旅行をなぐさみの一として小生は浮世にながらへ申候。」     

小島烏水『アルピニストの手記』大町桂月より小島烏水にあてた手紙


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十田山         629.5m         三等三角点         思地

 吾北村の南部、五在所山の東にある山。トウダヤマ。

道を尋ねた十田の民家までかえる

 仁淀川沿いの国道から離れて、急な山間の林道をのぼっていると、千枚とまではいかないが、すくなくとも十枚よりは多い山田が段々にひろがる集落に到着した。そこが十田であった。吾北村史によると、戦国の世、藤田源左衛門という武将によって収められた土地から藤田(とうだ)と呼ばれていたという。標高はすでにもう
400mをこえている。十田山
の山頂までもそれほど遠くはない。
 山の人の指ししめす三角点の方向を、地形図で確認して頭にいれてから歩きはじめる。なにもみえなくなる樹林帯にはいってからは、刻々変化する方向をしっかりつかんでいるためにはこれは必要な作業である。あとは自分のセンス オブ ローカリティ(位置感覚)が正確であることを願うだけである。
 三角点はひろい平坦なヒノキとスギの植林の東端に見つかった。よく手入れされた林なので圧迫感はまるでない。標石のまわりもきれいなので、迷わずそこを昼食の場所にきめた。北には小式ヶ台の頂が林間に迫るように望め、ひらけた隙間からは439号線の西津賀才あたりの家並や車道が見えている。登ってくるときには汗になったが、じっとしていると秋気で寒いくらいだった。
 帰途は別のルートをとった。国土調査で切りひらかれた急な斜面をくだり往きの山道の途中に合流した。登山口の民家の若奥さんに駐車のお礼をいう。入院中の父親のために週にいちど夫婦でかえって家の手入れをしているそうだ。山の話をすこしする。まだ二人とも三角点まで行ったことはなく、われわれと一緒に行きたかった様子であった。

 
「おもんみるに余の如きは、山の幻像(ミレージ)をのみ、追ひて、捉ふるところなき、いたずらなる自然崇拝者の一人なるか、されど我は雲と二人にて、最も天に近き凸点に立ちたる秘密の味を永世忘る能はざるをいかにせむ。」   

小島烏水『山水無尽蔵』 自序


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小式ヶ台         949.8m        二等三角点         思地

吾北村中央部の山である。山ではミツマタなどの皮を蒸したりしていた陶器製の容器を 甑(こしき)といったが、北側の大森トンネルあたりから眺めると、その甑を伏せたような姿にこの山は見えるという。コシキガダイ。

宮之西山から見る小式ヶ台と南越集落

 国道194号線の池川への分岐のあたりで北の方角を眺めても同山の姿を目前に眺めることができる。南越の人によると、眺望は三角点周辺よりも東の806mピークあたりの方がよいということであった。
 南東側の中腹にある南越(みなごし)集落から登ったが、平成11年2月現在、在住戸数は10軒だそうで、廃屋も目だっていた。長宗我部地検帳に載る戸数は百戸をこえていたようにSさんに聞いたと思うが、峠すじに当たっており、むかしは料理屋まであったそうである。現在、お年寄りの一人住まいが多いので、いつまで部落が存続できるのか。みな、不安な気持ちで生活されている。悲しい現実がここにもあった。(土佐州郡志には、「南越村 縦横三十町許戸凢十有餘」と書かれ、今とほとんど戸数には変化がない)
 稜線の峠まで手入れのゆきとどいた道がつづいている。峠には大きな祠と、そのすぐ西のほうには狛犬や鳥居もある金毘羅さんの社があって、双方とも信心する人の気持ちが今も十分に感じられた。そこから230分で達する頂上は、桧の、50年生ほどの植林のなかにあり、展望はほとんどひらけない。比較的平坦なうえ、倒された間伐材にかくされて、三角点は見つけがたかった。

六年後、ふたたび訪ねたときにも、やはり南越の戸数は十戸であった。ほかから移住してこられたり、あるいはUターンの人もいるようで、われわれが案じるほどのことはなく、山里の未来は明るいのかもしれない。それほどここはいいところであった。つぎに出るSさんも大阪や東京に住んだことのあるUターン組のひとりである。

 
「それに僕が社内に入ってからは、総選挙につぐ二・二六事件、それに伴う必然的な政変と新内閣の成立等で昼夜の別なく、一切をたたきこんだ鋭角的な仕事に従わなければならなかった。この世における最も崇高な自然、僕の心の師であり友である山岳、ある時は皓白に、ある時はいぶし銀に、またあるときは紫にさえ輝く白衣の高原、それらのもの一切を、念頭に断片的に思い浮かべることさえ不可能だったのだ。頭脳はしびれ、肉体は倦怠を感じた。かかる状態にあって、自然が僕の生活と乖離し去るとしたら、僕は既に死んだも同然ではないか。」 

細井吉造『伊那谷・木曽谷』ある心境


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西山         863.3m        三等三角点        思地

 吾北村のほぼ中央、小式ヶ台の東どなりにある山である。ミヤノニシヤマ。

Sさんにヒゲニンジンの話を聞く

 林道が山の東で尾根に出たところから山にはいって、9時前ごろから登りはじめる。思ったより急坂である。ただ汗が流れる。9時半すぎに三角点に到着。まわりは急な坂になって落ち、西の小式ヶ台の三角点周りよりずっと頂らしい。ヒノキの植林のなかである、十分明るいが眺望はほとんどない。

 さらに、予定していたように西の806mのピークまで歩いていると、間伐に行くという南越のSさんと出会い、言葉に甘えて展望のいい岩場まで連れて行ってもらうことにする。「三方(望?)岩(さんぼういわ)」と呼ばれる、足もすくむその岩の上は、スケールこそちがうが、奈良・三重さかいの大台原の大蛇嵓(だいじゃぐら)を思わせるようなところだった。狭いうえに切り立っていて、とくに左側は10m以上下にようやく広葉樹のこずえが見えた。
 地元の人しか知らない岩上からの展望はまことにすばらしかった。正面眼下には国道194号線と上八川川が谷間にうねり、目を上げると蟠蛇森や虚空蔵山が遠くかすんでいる。すこし右に転じると五在所山が丸い特徴的な頂を見せているが、何よりも近く大きかったのは南越集落の上にそびえる小式ヶ台だった。あの平凡な頂上風景をもつ山も、ここから臨むと案外山らしく見える。その肩の奥に雨ヶ森がやはり水蒸気にぼんやりしている。さらに右の方に見えた険しそうな山の名を聞いたが、その名は、まだ一度も耳にしたことのないものだった。まだまだ登れる山が多いぞと思ったが、あるいは南越の人にはそう呼ばれているだけで、すでにもう登っている山であったのかもわからない。
 Sさんには、イノシシの寝床の跡とか、足跡、それから「ヒゲニンジン」という朝鮮人参のような薬草などについても、わざわざ根を掘り出して詳しく教えていただいた。朝鮮人参はなかなか見つからないと聞くが、これはたくさんあった。いつもなら踏んでそのまま通り過ぎてしまうような、そんな、なんでもない只の草だった。

 
「そのギャップのさきはゆるく尾根がもり上って小さな雪の円丘になっていた――それが山頂だった
 われわれはレワをつかまえて、われわれの前に押しだした。わたしは彼を強く抱いたとき、ハアハアいう荒い息のなかで、彼の口からもれるかすかな声が聞えた。われわれが何をしようとしていたのか、彼にはよく分からなかったとわたしは思う。そこで最初に頂上に立つのはレワとなったのである。それは、これらのすばらしい人びと即ちわれわれのポーターにたいして、われわれがなしえたわずかばかりの挨拶であった。この遠征の成功はまさに彼らのおかげだった。」        

フランシス・スマイス 『カメット登頂』

 
 1931年6月21日、ガルワル・ヒマラヤのカメット(7757m)は初登頂されたが、その当時人類が到達できた最も高い頂であった。登ったのはイギリスからきた数人のプライベートに近い隊員と地元のポーターたちであった。後に、ヒマラヤも開発がすすむにつれ、手におえない彼らに悩みはてた欧米人たちは、自分たちだけで登高しようとするものもあらわれたが、この当時にはまだポーターたちとの仲は睦ましかった。ポーターのかしらを一番に初めての山頂に立たせようとするイギリス人もまたロマンチストでいじらしい。
 フランシス・シドニイ・スマイス(19001949)はもともと電気技師であったが、30冊をこえる著書を数え、人気を博して以後はそれに専念するようになってゆく。一般に山の文学は初期ほどロマンチックな傾向がつよいが、彼の文章にもまだその雰囲気があふれていて書き上手で、読むものの気分をそらさない。

 
「この世界でもっとも高大な山々を登ろうとする場合に、避けることのできない労苦、艱難、危険に彼らポーターが進んで身をさらすのは、金銭的な利益のためであるとか、あるいは自分の虚栄のためであるとはとうていわたしは信じることができない。彼らのサーブと同じように、彼らもまた、《アドベンチュア》とよばれるあの不思議な本能を、生まれながらに備えているのだと信ずるほかはないのである。」

フランシス・スマイス 『カメット登頂』


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口山        664.2m        三等三角点         思地

 吾北村の北西部の山である。北には本川村の大森山、南東側には小式ヶ台。ひろくこの辺りは「小川樅木山」と呼ばれているようである。地形図にもその名が横書きで見える。サカノクチヤマ。

三角点に到着はしたが…

 峠から歩きはじめても、その歩道や、途中で突然出た林道のわきに樅
木がのこされている。以前はモミで山はいっぱいだったそうである。左側の林のなかに目当てのお宮が見えた。林道わきの歩道に入ると「天保十年亥三月」としるされた石灯籠がまず迎えてくれた。つづいて「雨降神社」と書かれた木の鳥居があり、その奥に古い建物があった。むかしは雨乞いのお祭りがされていたのだろう。また、二十九番、三十番などの仏さんが周囲に見えるのは、ぐるりとミニ八十八ヶ所が巡らされていたことを連想させる。

 その横から、さらに尾根を南下したが、地表が荒れていて案外楽ではなかった。ほとんど高度を上げず小さなアップダウンが連続する。ほどなく頂上についた。北側は植林なので、その手入れに切り倒された雑木が無造作に放置されて、三角点はかくされそうに小さくなっていた。くっつけて赤いプラスチックの境界標が打ちこまれている。大切にされているとは思えない文化遺産。落葉した木々のあいだから南西側に連なる山が見える。下からは大きな谷の水音。ツクツクボウシの声が秋近しを印象づける。
 折畳み鋸をザックから出して倒木を移動可能な大きさに切って片づけてから写真撮影をした。頭をすこしだけ出していた標石の、表面に刻まれた文字をさがすが見いだせない。なんとこの三角点、北東を正面に埋められていた。これほどはっきり方角が狂っているのはめずらしい。そのことなど意識せずに無造作に設置したとしか思われなかった(その後何回も方向無視の標石をみかけることになるのだが)。

 
「正面、東の空にボーと明るみがさした。と思う間もなく、そこから大きな黄色い月が昇ってきた。ひとかかえもある月が東の空をこうこうと照らしはじめると、限りなくつづくアルプスの峰々は白く浮出し、広く長い氷河も青く輝いていた。このすばらしい風景。この幻想的な空間の美。この美しさに感激しない人がいるだろうか テラスから月を眺めるこの一時があってこそ、この山へ登る意義もあるのだ。
 うとましい世事から隔離された世界にとけこんでゆく自分をしみじみと味わえる貴重な時間である。山という自然の中に無我の境をさとり、全く山の中に浸りきっていられる。この楽しみがなくて、何で苦労して山にはいれるだろう。」

今井通子『私の北壁 マッターホルン』 グラン・キャピサン東壁


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木山        806.6m        三等三角点         思地

 吾北村西部の山である。谷をはさんで東側に小式ヶ台が、439号線を間にして真南には五在所山がみえる。モミノキヤマ。

こんなところに赤いホオズキがあった

 残暑きびしい一日のこと、モミの大木たちの涼しげな雰囲気を期待したが下山するまでそれはかなわなかった。そのかわり、路もとぎれた森林中の斜面の草むらにホオズキがたわわに幾つもぶら下がっているのに出あった。誰かがずっと以前に落とした種がここに居着いたものか、最初から野生のものがあったのかはわからないが、その袋に包まれた橙色の実の集団は、しばらく私たちの足をとめ、かすかな子供時代のやさしかった思い出をさそいだして幸せな気分にしてくれた。

 消えかけてはまた現われる杣人の路を追い、さいごに尾根の鞍部までのぼったときには、出発してから1時間30分以上の時が流れていた。そこから右に尾根を伝い、そのへりに三角点をさがしたが、イバラなどのヤブに包まれてすぐには発見できず、ここしかないと振り返ったときはじめて白い国地院の木柱が緑のなかに浮きあがっていた。北側は植林、南はマツまじりの雑木林である。モミの大木はここにもなかった。途中にはちらちら望むことのできた五在所山などもここではもう見えなかった。
 ヤブをはらって撮影をすまし、近くにシートをひろげて昼食をとった。行動中には汗みどろになったが、ジッとしていると標高なりに涼しく背中が寒いくらいになる。ザックを枕に寝ころんで梢を見あげると、セミの声のなか、アゲハチョウが一羽樹間を縫うように飛び舞っている。弱い太陽はなにかにさえぎられて、明るいもののここまで下りてきてはいなかった。

 
「「何故、ダージリンの連中といっしょに火にあたらぬのかね」と彼はきいた。
「宗教が違うからです。彼等は仏教徒ですし、われわれはヒンズー教徒ですから」という返事なのだ。
 しかし、彼らははっきりそうは言えないことをわれわれは知っていた。何故というに北部ガールワルのポーティア人は、宗教の違いなどをほとんど気にかけてはいないからである。彼らの分離は、むしろ、ニティでレワが土地のポーターたちに示した侮べつの態度から、お互いに信用しなくなってきたからなのである。宗教の不同というのは弁解にすぎなかった。そこで、バーニーは彼等にうまい質問をした。
「君たちの料理はどうやって作るのか」
「料理鍋で作ります」という返事。
「しかし皿は持っていないじゃないか」
「ええ、いる時にはダージリンの連中から借ります」と愚直な返事をする。
 そこでバーニーは「では、信心深いヒンズー教徒が異教徒とはいっしょに火にあたることはできぬといっていながら、どうしてその使った鍋から食事ができるのか」と言った。
 これに対して返事はできなかったが、このとき以来ダージリンの連中と土地の連中とはいっしょにたき火を囲むようになった。偏見と不信はだんだんなくなり、今度はお互いに気をつかい、重んじ合うようになってきた。山は確かに人々を結びつける、こつを持っているようだ。」               

フランシス・スマイス 『カメット登頂』

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宇津木山         885.0m        三等三角点        思地

 吾北村の山であるが、三角点から150mほども東に歩けば伊野町との境界になるので、町村境の山と言ってもいい。鷹羽ヶ森の北側にある。また標柱の所在地は「三ツ筒森」となっている。ウツキヤマ。

おそらく一年中で一番むしあつい一日だっただろう

 
8時ごろ、登山口の打木集落についたが、せまい車道が家々のあいだを何本も曲がりくねって上に伸びていて、聞いてもなかなか公民館まで行きつけなかった。ようやく840分ごろになって、打木公民館のすぐ前の、畑のあいだの歩道から登りはじめる。道はずっとあった。その点は楽でよかったが、とにかく
暑い。今日は一年中でおそらく一番むし暑い日だろう。そんな日が毎年梅雨時にかならず一度ある。過ぎてみなければわからないが。すぐに汗でビッショリになる。ところどころ日光の入るところでは道にも草がしげっていた。やがて聞いていた伐採あとに出たが、道はここもふさがれていることもなく順調に歩ける。尾根までの高度差は相当ある。そこが見えているだけに尚つらいと妻がいう。ふりかえると五在所山が正面に見え、その右側奥のほうには雨ヶ森も見えるが、かすんでコントラストはきわめて弱くほとんど空にとけこんでいる。下方には打木集落の一部やそこに至る林道なども見えた。尾根に出ると風も吹きぬけていて、伐採地のふちの樹陰までくるといい気分になった。
 ヒノキの植林が三角点を遠まきに取り囲み、空は開けていたが、はやくも陽光を好む植物たちによって埋もれはじめようとしていた。10mほど先にテレビの共聴アンテナ群が見える。早々に記念写真などを撮ってから、いそいで伐採あとまで下り、上端の木陰で昼食をとったが、やはりそこは最高の場所で、1時間近くゆっくりしていた。

 
「過去の山登りは現在の山登りと、はっきりしたつながりを持っている。マッターホルンへ登る人たちが、もし、この山が難攻不落と思われていた時代に、この山に挑み戦った先駆者のことを忘れ、また過去の希望と恐れと悲劇に思いをはせるところもなく、エベレストやカンチェンジュンガを眺めていられるとすれば、そういう人たちには山登りの根底となるあの神秘と伝統の真の精神は分からないことだろう。
 カメット峯の山かげに、またわれわれを包んでいるあたりの静寂の中にあって、われわれは、彼らの「最後の峠」を越えていった先蹤者たちが、今われわれを見守っているのを心に感じた。」        

フランシス・スマイス 『カメット登頂』


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平場石山        814.3m        三等三角点         思地

 吾北村の山である。陣ヶ森の県立自然公園の尾根を西につめたところにある三角点で、そこから南西に下れば思地に、北西に下れば枝川川ぞいの日比原に出る。ヒラバイシヤマ。

展望は一服の清涼剤である

 登山口として利用さしてもらった馬路の
Tさんの家には三歳になるセッターがいた。わが家にも今年17歳になるセッターがいることなどの話をしてから、かれの薦めてくれた山道を歩きはじめた。さいわい主稜線に出るまで、ひさしく使われた形跡もないような仙道や踏み跡なりがあって迷うことはなかったが、かなりの急坂である。休憩中には涼気も感じられるけれど、一歩一歩のぼっている間は汗がじっとり身体をぬらす。だがこれも考え方だ。この汗が山では貴いのだ。心肺機能と共に体を内部から浄化してくれているはず。だがそれ以前に、下界でのモヤモヤをはらうには山での汗がいちばん効き目がある。

 主稜線に出たところは、だだっ広くてそのうえ平坦な植林のなか。コンパスだけが頼りとはいえ、現在地がはっきりしないのでいささか迷う。山勘で、広い尾根を西にむかった。途中深いササヤブにあって難渋する。そこを脱出してから10分たらずで三角点に達した。標石にはキズはまったくない。南側はヒノキの植林、北側は広葉樹林で、そばには腰をかけるのに手ごろな石が一個あった。
 三角点から20mほど東に、北に突きだした大岩の断崖があり、白根山など前山のむこうに戸中山や大音谷山それに程野の二つの滝などが見えた。清涼の季節であればここで食事にしただろうに残念である。岩のうえは平坦なので、山の名前はきっとここから来ているのではないだろうかと思われた。
 ツクツクボウシに送られるように赤テープを追いながら急坂をくだる。1時間30分ほどでTさん宅までかえった。初めての山で頂上へ行ってきたことはすごいと驚いていた。Tさんはまだ三角点まで行ったことがないのだった。わたしは彼に人柄のよさを感じた。

 
「僕たちはかくてすべてを一挙に賭けなければならない今残りわずかの日と時間があるのみで、さもないとあまりに遅くなり、寒くなってしまう。僕たちはもう数日分の燃料等々しかもっていないし、もはやそういつまでも体力とエネルギーがつづくわけでもない。というのは、七〇〇〇㍍を越えた高度では、人間のもっている能力はすり減らされるばかりだからである僕はこれで約四十日間六〇〇〇㍍以上で生活してきた。僕は自分の脂肪層をずっと前から消費してきて、筋肉は目立っておとろえをみせてきた。――そのつど、自分の以前の太い大腿が目に浮かぶ――しかし自分の能力はまだ残っている。むしろ前より一層高まっている。――しかし一体それがどのくらい長くつづくだろうか。
 かくてすべては一瞬のうちに勝負が決まる
 一週間のうちに結末がある――お休み。」

ハンス・ハルトマン『カンチ日記』 九月十二日


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五在所山         976m        三角点はない        思地・

越知町と吾北村の境にある山。御在所山とも書いたようである。1997年に西側の峰に四等三角点「五在所山」(938.8m)が新設されている。ゴザイショヤマ。

五在所山山頂をのぞむ

 この日妻と、その頃高知県の森林政策課に勤務していた長女と3人で、椿山に登りに出かけたのだが登山点を決めかねて、急きょ、予備として用意してあったこの山にむかったのだった。
 桑藪からの登山道は、五在所神社への道として、よく手入れされていたが、山の神社の参道にありがちな、つねに爪先上がりのいちずな登りの道だった。そのせいか、新しい皮の登山靴をならすために履いていたからなのだが、かかとに見事に豆をつくってしまった。頂上は神社の左手をすこし入ったところにあり、そこではじめて周囲があかるくなって、北側の山々の展望がひらけた。植生などの雰囲気もわるくはない。
「片岡」三等三角点(879.6m)のわきをとおり十田峠をまわって下山をようやく終えるころ、竹薮のところを曲がって突然ひらけたところの風景が、昔話に出てくる田園の景色のようですばらしかったと妻や娘は異口同音に言うのだが、自分はもう十年以上前のことなのでどうも思いだせない。

 
「山はわがこころを占む。あたかも信仰のように」       

大島亮吉


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黒床山         773.9m         三等三角点         思地

 越知町と吾北村の境界にある山である。この三角点から尾根を北西にたどれば前宮をへて十田峠、さらにすすめば五在所山に至る。クロトコヤマ。

登り口が見えてきた

 五在所山に登るには五つの在所から頂上にむかう山道を歩けばよい。黒床山には、片岡谷
内からの五在所山への道を峠まであがり、そこから尾根を東に行けばよいのであるから簡単だと思っていた。実際に歩いてみるまでは。

 台風が太平洋のはるかに沖ではあるが本土に近づいているそんな9月末の一日だった。その影響か、ひどく蒸し暑くて、峠まで登る最中からはや喘いでいた。最初はまちがうはずもない広くて樋状の峠道。だが途中からそれもはっきりしなくなる。さらに、倒木やヤブの中にほとんど踏み跡は消えてしまい、ひ らき、探しながら峠まで登った。そこから先の尾根も、倒木や小喬木のブッシュをひらく必要がある。はっきりした展望も空もひらけず、足元もまったく安閑と歩いてはいられなかった。780m台の頂ではじめて三角点峰が見え、ようやく現在位置がはっきりした。ひとがんばりで三角点に達したが、小喬木の密集に囲まれ、ごく周辺はたしかにきれいに刈りはらわれて空も開けていこそしたが、なんだか鬱陶しくそこで昼食をとる気にはとてもなれなかった。
 780m台のピークまで引きかえす。林間にシートを広げ、あまり食べたくもない飯をのどに通した。冷たいビールはひといきに飲んだ。これだけは本当にうまかった。終ってからしばらく寝ころんで梢の上の雲を見ていた。それだけ今日は暑さがこたえていた。

 
「吾れ唯一人うっそうたる自然の懐に吸込まれる時、吾れは唯、全肉体をふるはして限りなき喜びにひたる。自然がわが青春にさゝやき、自然の美がわが青春に迫り来る。我は唯感謝を以て迎ふるのみである。宇宙自然美と真と人間至上の愛と誠との深味を求めて静かにわが生の意味を考ふ。清々しきは奥山の朝である。閑寂にこだまする鳥の囀りと這い流れる雲霧の心地よき呼吸の甘さ。我は邪悪を吐き出し、自然の美を謝し誠を全身にみなぎらせる。
 まさに我が山岳の独歩はその目的を達したのである。」

『いしづち ―松高登山史―』高縄山 昭和2122


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上森          378.1m         三等三角点          越知

 土佐市と日高村を隔てている山地の一山で、南側にはタチバナの群落で最近名を売っている松尾山があり、南東側には大平峰がある。カミモリ。

上森をのぞむ

 甲原で
56号線をはずれ、山地のほうに入ってゆく。福田という集落に向かうためだけの狭い林道である。その部落の手前で、西に山道は別れるが、まもなく桜などの植えられた小さな公園があり、そこに出来てあまり時を経ていない石碑が立っていた。平家の落人を始祖とする福田部落の人の変遷を記したもので、途中人々が北海道やブラジルにまで雄飛して行ったこと、時の流れで、何度か18戸まで増えた戸数が現在は6戸まで減っていることなどが連綿と石の表面に刻まれている。それは、残った6戸の戸主たちが連帯を強めるために公園を造り建立したもののようであった。思わぬところで旅人は思わぬものを見る。

 三角点まで到達するのに考えていたより時間がかかった。どうも尾根に出た位置が、予想より東寄りであったようだ。庭石のように稜線上に点在する岩の上に乗れば、国道付近の光景の先、山のあいだに寒々と光る冬の海が見えた。三角点まわりは数年前にGPS測量が行われたばかりで空はひらけていたが、すこしヤブ化もはじまっている。標石は頭部の欠けをセメントで補修されていて興ざめだった。なんと国地院の白い標柱が、木製2本、プラ製1本の合計三本立っている。今までで最高。下山は迷うこともなく車まで帰った。
 県道に出てから、松尾山のタチバナを見学にまわった。ブンタン畑を登りコルに出て、松尾山東面の急な尾根上の群生地まで20分もかかっただろうか。大小の木に、ミカンを、大き目のキンカンぐらいにしたような黄色いタチバナの実がたくさんなっている。落ちたものを一個ひろって、実を割ってみるときつくて甘酸っぱい柑橘類の匂いがやっぱりした。

 
「景色とは、ある時、それを見た人の記憶である。毎日眺められれば別だろうが、山の風景はその時、その人の見た印象なのだ。苦労して登ったときは苦しいことばかりだったのに、後になるとすべて美しい思い出になってしまう。」

『人はなぜ山へ』奥秩父の沢の音 石井光造


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大津江山        522.8m        三等三角点         越知

 伊野町の、仁淀川沿い勝賀瀬の西側すぐにそびえる山である。そのまま尾根を北上していけば鷹羽ヶ森に至る。「大津」は大きな港、「江」は河口にちかい川の意味であろうから、「川口の大きな港」が大津江である。事実、昭和はじめまで勝賀瀬は仁淀川河川交通の要所であったそうである。川口の地名ものこる。オオツエヤマ。

三角点に到着する

 山へ登るには、峠から縦走する方法や、林道からてっとりばやく登る、あるいは額面どおり、麓からほぼ標高にちかい高度を地道に上るやり方などがある。この大津江山の近くには林道などもなく、鷹羽ヶ森からの縦走も一般的ではな
いので、この山は現在でも、大昔とまったくかわらず、仁淀川水面近くからルートを求めるしかない。
 私たちの場合、川口からの古い山道をとった。道はあったが、ほとんどが荒れはてた急坂である。水で洗われて中央に深い溝ができ、そこに朽ち木や枯れ枝、落ち葉などが、土や石ころなどと一緒に詰まり、きわめて歩きづらくなっている。それに倒木くぐりと倒木またぎ、そして段差越え。登山の楽しさをようやく覚えはじめた方などにはあまり薦められないコースだが、山におけるこのようなちょっとした困難こそ、なによりの登山の喜びを生む要素のひとつであるのだが、それがわかるにはまだいくつかのステップを踏まなければならないだろう。登るほどに、一週間前の記録やぶりの大雪がまだ多くのこっていた。
 トラバース道が全体に北に振れはじめたので、見当をつけて斜面の雪をふんで主稜線まであがった。それからすぐに、整地されたように平坦で、そのうえ下草もない頂上についた。日当たりがよく雪がまだらに解け残っている。眼下に、沈下橋や、中州で水面を限られた仁淀川が蛇行しているのが見える。私にとってはただ美しいだけの景色だが、ある人にとっては故郷の懐かしい光景にちがいない。西には雪で白い山々。黒森山はアンテナ群ですぐにわかった。寒風がこたえるのでまもなく下山にかかる。帰路は登ったときとは反対側の東に下りた。雪でスリップしないように木の幹をおさえながら下り、上の峠でもとのコースに合流した。

 
「古い路をえらんで歩け。ことに古い、落着いた影のある静かな路を」 

大島亮吉


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清宝山          357.1m        三等三角点         越知

日高村と佐川町の境にある山である。セイホウザン。

その日の朝雪が降っていた

 頂上近くまで車で上ると、その終点ちかく、公民館のような建物のそばに、「霊峰清宝山」溝渕増己と刻まれた石碑が見えた。そこからひと登りしたところに石土神社と大山祗(おおやまつみ)神の祠が鎮座する。
 大山祗(津見)神はいざなぎいざなみ両神の子で、山をつかさどる神であるが、それならばどうして瀬戸内海の大三島などにおわすのか。もっとも同神はそこのみでなく、山形県の湯殿山神社など全国各地に祀られているが、元締めはやはり大三島だろう。ちなみに、山の神様は大山祗神のほかにその娘の 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)がある。姫は富士山をもっぱら取り仕切っているようであるが。また綿津見(わたつみ)は海の神である。「綿」は海、「津」はの、「見」は神の意味とのこと。
 三角点はそこからすこし歩いた次の峰の、草むらのなかにあった。周囲は植林と広葉樹林が入り混じっている。測量のために開けている方向もあるが、車道をすこし下ったところからの下界や、南方向の、山々の展望のほうがまさっていた。
 わたしたちが訪れた平成8121日は降雪の翌日で、途中の山道や三角点の周囲も雪で白く化粧されていた。

 
「考えてみると、当時私はリーダーとして適切な場所にいたとはいえない。先頭に立つと集中力のすべてが、鼻先数フィートの雪と氷に奪われてしまう。登攀を長期の視野に入れることも、後方の荷上げの流れや隊員の動きをとらえることも出来なくなる。私はただ雪稜の上の端まで達したいと、その思いにだけとり憑かれていた。」

クリス・ボニントン『アンナプルナ南壁』


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錦山          175m         三角点はない          越知

日高村の山である。ニシキヤマ。

カザグルマの花を見に再び訪れた

 秋の紅葉が錦のように美しいので名付けられたという錦山。すぐ南にある妹背峠よりも標高はひくく、頂上は山というより尾根上の一コブという感じである。現在、日高村により「錦山公園」として整備されている。
 だが、蛇紋岩質のこの何でもない里山が、植物学的に見て、日本でも有数の特異なところだそうで、牧野富太郎博士なども研究採集のために幾度もおとずれている。自生のドウダンツツジやニシキアカマツなどはここだけにしかないそ うであるし、そのほかにも、ニシキと名の付く植物はおおい。また自生のトサミズキなどは全国的に知られているとのことである。
 高知県を代表するような山のグループで活躍せられていたという日高村の熟年のKさん夫妻にそこで出会い、はなしを聴いた。錦山の登山道が最近開発されて、木の段々などの遊歩道にかわってしまったことに苦言を呈せられていた。山をそれほど知らない行政の人と、登山者たちとの普遍的なジレンマである。著名な山のどこでも、通りすがりの登山者たちに、つねづね言いかわされていることではあるが。
 訪れたのは55日の子供の日。その年の立夏の日でもあった。花は端境期であまり見えず、今年初めてセミの声を聞いたが、その声はまだまだ弱々しかった。
 その12週間後、カザグルマの花を見に、わたしたちはふたたび錦山をおとずれた。

 
「人は山のことより、山頂に立つ旗のことに注目する」

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』


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烏森          366.8m         三等三角点          越知

 日高村の錦山ゴルフ場の南側にある山である。カラスモリ。

摩耗した三角点

 日高村で
194号線と33号線をむすぶ妹背峠は、冬季、それほどいつも寒いところなのだろうか。近隣のもっと高い所の北面に、もうほとんどない何週間もまえの雪が、まだ相当残っていて、「チェーン必要」などと、峠への入り口に看板が立っていた。私は一週間前にも通っていたので、無視をして峠のほうにのぼっていった。

 錦山ゴルフ場とひろい茶畑のあいだを走り、ゴルフ場の東端に車をとめる。グリーンのふちをゴルファーに遠慮をしながらすこし歩き、それから入山した。雑木林の急坂を登り、あとは、左に日下の市街からの騒音を聞き、右下からはゴルファーがボールを打つ音や話し声を聞きながら三角点まで尾根をたどった。頂上は、最近再測量されたようで、おおきく空がひらけ陽光が落ちている。かわいそうなほど欠けまくった標石。街近くの山の悲哀。
 ふと傍らの立木にプラスチックの派手な山名板をみつけた。またあの人かと近づいてみると、やっぱりK山岳会のものだった。弁財天山でも見たので、どうもこの近隣の人ではないだろうかと思った。ゴルファーたちをカメラにおさめながら車まで帰った。

 
「山にいる間は家にいたいと恋い願い、家に帰ると二、三日でまた次の計画を考えて落ち着かなくなる。」            

クリス・ボニントン『現代の冒険』


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陣ヶ森          344.3m         四等三角点         越知

日高村の山である。点名は「井峰」。ジンガモリ。

測量したばかりだった

 同名の山が吾北村と土佐町境にあり、こちらは知名度も高く、多くの人に登られている山であるが、日高村の陣ヶ森は無名にちかく訪れる人もほとんどない。
 吾北と土佐、町村境の陣ヶ森には田野々城という砦があったそうだが、日高村のそれには誰がどのような陣を張ったのか。登っているとき、あきらかに人工的な崖を何段も、よじ登らなければならなかったが、これも城の備えのひとつだったのだろうか。そんなことを考えながらよじ登る。植林や喬木を避けながら進むのだが、部分的に茂るシダに足をとられる場面もあった。
 頂上では、三角点測量が最近行われたようで、標石の十字の上に赤白ポールが針金で支えられて立っていた。そのためか、展望の開かれた方向もあり、全体にあかるい。とくに南西の方角の虚空蔵山、蟠蛇森、その間にある勝森などはよく見えた。また木々の頭越しに望まれる鳥形山などの方向の展望も悪くはなかった。

 
「ぼくはいつも思うのです。ぼくの好みからいうと、雪の無い冬の生活が人世にとってどんなに淋しいものかと。東京でどんなに酔い痴れていても、こんな所なら死んでもいいなと思う場所はないのですが、サッポロの雪の夜を歩くと、奇体にこのまま横に倒れてしまいたいような衝動にかられることがあるのです。」

上田哲農 『日翳の山 ひなたの山』


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弁財天山        340.6m        三等三角点         越知

 日高村のグリーンフィール・ゴルフクラブの北東側の山。山頂近くに弁天様の小さな神社がある。ベンザイテンヤマ。

神域にはいる

 道路工事で伊野方面から入れない大花集落に、妹背峠の方からまわり、グリーンフィールゴルフ場の手前で集落に向かい、手前の峠に車をとめた。風が吹き抜けて、ここがその日一番寒いところだった。急いでザックを背負い、踏み跡を登りはじめる。しかし道はすぐになくなり、ヤブをひらきながら進んでいると、急に右から上がってきているきれいな山道に出た。どこから登りはじめている小道だろう。

 まもなく左側鳥居のおくに中くらいの祠があったが、山道はまだのぼっている。すぐにもっと大きな鳥居が山道を跨いであらわれ、それに「弁財天神社」と書かれていた。土にステップを切られた急坂を50mほどでもっと大きな祠に出た。それが山名のもとになっている弁財天さまにちがいなかった。三角点はさらに100mほどか先の、数本の大きな木の間に30cmほどのこじんまりしたコンクリートの祠が置かれていて、その奥の混合林のなかにあった。ほとんど頭部の水平面しか見えていなかったのですぐには見つからなかったが、そばに二つに折れた赤白ポールが落ちていてわかった。近くの立木に、以前安芸の土居山や高河山で見覚えのあるプラスチックのきれいなK山岳会の山名板が架けられている。今回もチューリップで飾られた、なかなか凝ったデザインのものである。私たちも質素な板切れを遠慮がちにその下につけさせてもらって、山頂をあとにした。

 
「最近、山がさ、やさしくなって、『もうそろそろ、私の胸のなかにおいで。もういいだろ。抱きしめてあげる。疲れただろ。休ませてあげるよ』って言っているんだ。」 

長谷川恒男


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土岐山          232m         三角点はない         越知

日高村の山である。トギサン。

印象的な姿をしている土岐山

 昔、山頂に城があったという。国道33号線を高知方面に走るとき、きりっと引き締まった姿を見せる。私も登る以前、ここを通るたびに、この山は姿がいいが名はないのだろうかと考えていたものだった。やはりそんなところに惹かれて豪族が城を築こうとしたのであろう。
 土地の人に登山道を聞くと、「きついよ」の一言。桧の植林のなかに急な坂道が続いている。転げ落ちそうなところも二ヶ所ほどあった。頂上には古いが、かなり大きな祠があり、その前は広場。毎年、ふもとの部落の人が祭りのために登っているそうで、下草もほとんどない。社の後ろが一段高くなっていて、そこに国土地理院の標柱や赤白のポールが立っていた。西側は急な崖になっており、やはり砦の跡という感じである。展望はまったくひらけない。
 土岐城に関して定説はないが、10世紀ごろ、藤原純友にくみした別府経其(べふつねもと)あたりの豪族が最初に造ったのではないかといわれている。その後、一条氏の武将白河兼親が守る土岐城は、長宗我部に包囲され、数日間の激闘の末落城し、天文12年以来三十余年のあいだ一条氏の勢力下にあった高岡郡は長宗我部氏の手にうつった。

 
 むかし、島や、閉ざされた世界に住む人は、目のまえにそびえる山を世界で一番高いと信じて疑わなかっただろう。いまではエヴェレストが地球上の最高峰だといわれているが、そうなるまえには世界最高峰の称号は中国のアムネマチン山(6282m)やアンデスのチンボラソ(6310m)、それからヒマラヤのダウラギリ(8167m)そしてカンチェンジュンガ(8586m)と転々としていた時期もあったのである。
 今後、世界のどこか測量の盲点となっているところに、エヴェレストより高い山がぜったい見つからないとは誰にも断言できない。そう考えるほうが夢があっていいではないか。

 

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蛇ヶ平山        150.4m        三等三角点         越知

 日高村の土岐山から南に流れおちる尾根上にある山。ヘビガタイラヤマ。

三角点は畑のそばに移設されていた

 最高点あたりに、
1年ほど前にできたというNTTドコモのアンテナがあり、何も見ずにまずそこまで登ってみた。その西側の最高所はすごい茅場になっていて標柱はなく、ここではじめて地形図を出す。三角点はアンテナの東側の、10mほど低いところ辺のはずである。しかしそこは花木などが植えられた畑になっており、標高も等高線2本分くらいは低い感じであった。訳がわからなく、車に一度帰ったところに、ちょうど軽トラックのおじさんが来たので、聞いてみると、笑いだしてしまうほど明瞭に事情がわかった。

 その人はここの地主だった。三角点はおじさんが老後の楽しみに畑を造るために国土地理院に移設してもらっていたのだった。標柱は25mほど東のやはりおじさんの畑の片隅に移されていた。それが道の反対側であったためにいくら見ても分からなかったのである。
 おじさんは私たちの山歩きの趣味をうらやましがってくれた。自分は残念ながらもうそんなには歩けないと、体格のいい体でわざとゆっくりと何歩か歩いてみせる。本当にいい人であった。いいよ、おじさん。おじさんにはまだこんなにすばらしい楽しみがある。畑には、桜や梅、桃のほか、ボケなど多くの花の木、それにユリなどの草花、彼岸花まで見えた。そこはおじさんにとってはたぶん桃源郷といえるところだろう。
 三角点は、南天と穂をつけた生け花用のネコヤナギ、花が開くのもまぢかい梅の木のあいだに埋められていた。

 
「人夫達にしてみれば、尾瀬へ行く目的を、金のツルでも捜しに行くものと早合点したらしい。というのは、その当時、三平峠に近い船川原(ふながはら)という字に銅鉱山があったのにも因るかと推測する。尾瀬地方の地理や特徴を尋ね、彼らの説明によって、例の地図に照らして見ると、いきなり尾瀬沼に行くよりも、まず尾瀬ヶ原を訪ね、それから尾瀬沼に出てから、最後に鬼怒沼を訪れようときまった。そのためには、翌早朝出発して、 鳩待(はとまち)峠を経由して、原に足を入れることとし、炊事などになるべく手のかからぬために、米の代りに蕎麦粉を携えることとし、別に大豆を煮させて、そんな物や、若干の缶詰などを携行することとした。そして砂糖を求めたところ、村には無いが、越本まで行けば、黒砂糖ぐらいならあるだろうというのには、一瞬たじろいだ。採集圧搾用具はもちろんであるし、雨具としてその時代には、桐油(とうゆ)紙が手頃の品として、常備すべき物と誰しも考えた。」

武田久吉『明治の山旅』 尾瀬ヶ原の探勝

 
 大町桂月によって八甲田山や十和田湖などの東北地方の風光が、そして小暮理太郎には奥秩父、冠松次郎によっては黒部渓谷が、世に紹介されたように、武田久吉(たけだひさよし1883-1972)によって、人々に存在がひろく知られるようになったのは、尾瀬沼や尾瀬ヶ原のすばらしい自然であった。
 英国の外交官アーネスト・メーソン・サトウを父として東京に生まれた彼は、また明治38年の山岳会(英国山岳会がただの「アルパイン・クラブ」だったことから、日本でもそれになぞらえて最初は「日本」をつけずにただ「山岳会」と称していた)発足時に集った7人のうちの1人でもあった。最初、山岳会に集った人には武田のように博物学を研究するものが多く、その他の者のほうが少数派であった。彼の専門は植物で、牧野富太郎らとも交わりがあった。
 そのころの尾瀬はまこと新種の植物の宝庫であっただろう。尾瀬沼の長蔵小屋ちかくの平野家の墓地には武田久吉の顕彰碑がある。

 

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妙見山         530.2m         三等三角点         越知

日高村と佐川町の境界にあり、日高村の最高峰である。地形図に山名は見えない。ミョウケンサン、ミョウケンヤマ。

三角点にのって景色をながめる

 妙見山は安芸市にもあり、そのどちらにも頂上か、その近くに星神社を擁している。ゆるやかな登山道をホトトギスやミズヒキソウなどの可憐な花々を見ながら登っていると、ふいに南に視界がひらけた。蟠蛇森や勝森、虚空蔵山が、佐川町の平野部のむこうに見える。頂上は桧の植林の中だが、間伐や枝打ちの手入れがゆきとどいているせいか、圧迫感がなく、広々としていて気分がよかった。
 三角点を見つける前に、東の頂にある星神社まで行ってみる。かなり離れたところから、高い石垣と空色のトタン屋根でその所在はわかった。石垣の上、ひろい草むらのなかに小さな祠があったが、近くには瓦が多くのこされていたので、以前にはもうすこし大きな祠があり人々の信仰があつかったことがわかる。
 引きかえして植林の中の三角点を見つけた。数メートル南側の伐採跡にでると、日高村や伊野町の山々のむこうに高知市街の東部が見え、その右手には浦戸湾からはるかに太平洋までが望まれた。

 
『天幕を張るには水の在る処』と、本(テキスト)には書いてあるが、本当の山は中々そう巧くはゆきません。晩飯は水筒の水で、どうにか間に合せたが、朝飯は勿論食べそこね。」

加藤泰三『霧の山稜』


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大滝山         247.1m         四等三角点         越知

日高村の山である。オオタキヤマ、オオタキサン。

ランチタイム

 滝という文字には岳とか嶽とおなじ意味の断崖をあらわす場合があるようだ。それも宗教的な雰囲気をもつ山の名におおい。
 この山もまさにそのとおりで、頂上は大岩のつみ重なる崖の上にあり、そこへ行く途中にも、家ほどの大岩にたびたび行き当たった。山頂のひときわ高い、とがった岩の上には、小さな鉄の鳥居や短い鎖場をそなえた祠がまつられていた。これが石鎚山の祠であろう。護摩壇などの跡もあり、修験者の山だったことがわかる。周囲の木々がかなり切りはらわれて、とくに北と西の展望にすぐれており、眼下の国道周辺の光景のみでなく、遠く県境の山々まで眺望することができた。昭和初期に出された武市佐市郎氏の『土佐の史蹟名勝』の大瀧山の項に、「頂上の山下を左に折れ進めば一巌窟がある。(中略)奥に不動尊を祀れるを以て不動窟と稱へられ、」とあるのは、猿田洞のことであろうか、よくわからない。三角点はそこから10分ほどあるいた針広混交の林のなかにあり、そこからはほとんど展望はひらけない。
 すこし下った大滝山公園にはツツジがたくさん植えられていた。日高村の運動公園から送電線の管理道をつかって登る。途中、道標などもよく整備されていた。私たちが登ったのは4月末、「つつじまつり」の前の日ということもあって、山は、開花した花にあざやかに彩られて春を謳歌していた。

  
       旅人の夜の歌       

なべての峯に / 憩いあり / 梢に / そよぐ / 風もなし

森の小鳥も静まりぬ / 待てしばし やがて / なれも憩わん

  ヨハン・W・ゲーテ


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西土居山       357.0m        三等三角点        越知

 佐川町の小富士山の南にある山である。土居は土塁のことであったから、戦国時代に砦でもあった山だろうか。ニシノドイヤマ。

三角点は傷んでいた

 民家を過ぎると道は急に林道らしく狭く悪くなり、そのうち草木にさえぎられて通れなくなった。とうとう四駆といえども進むのに躊躇するようになって、終点のかなり手前で車をすてて歩くことにした。そこから上の果樹園がすべて放棄されていたからである。

 のこされた樹に、いまも未練がましく育つブンタンやユズ、名も知らぬ柑橘類を横目に見て、倒木やツタ類、ブッシュなどを、ひらきひらき登っていった。北西側のザッテルに出て、そこから頂上までたどる。最後も急坂であるが、三角点の周囲の、そのほかのどの方向の山面もやはり急角度でさがっていて、標高は低いながら、ようやく登ったという実感のもてる頂であった。
 キズだらけの標石のまわりは、気持ちよくひらけてはいなかったが、木々のあいだから案外山が見える。虚空蔵山から蟠蛇森にかけてもすぐにわかったし、反対側を見ると黒森山と亀ヶ森が一直線に見とおせていたのが印象的だった。あまりに風が冷たくて、それ以上山をさがすことはあきらめて急ぎ足で下っていった。

 
「お父さん、お母さん、ありがとう、通子は、今、生きています。沈み行く夕日を胸一杯に浴びて、マッターホルンの頂に立っているのです。
 四十二時間、途中のビバークを除いては、絶間ない岩との戦い、精神的な緊張の連続でした。これから開放されたこの一瞬は、何も頭に浮んで来ず、ただ生を受けた者の感激だけが体のどこかにうずいています。」

今井通子『私の北壁 マッターホルン』 頂上

 

 東京女子医大四年のときに、ようやくクライミングをはじめた今井通子(いまいみちこ1942‐)であったが、それからわずか3年後に、世界中のクライマーにとって登竜門のようにいわれているマッターホルン北壁に、苦もなく、しかも世界初の女性パーティだけで登攀してしまった。いっしょに登った(しかもリードで)若山美子は、それから10年ほどのち、新婚旅行で再びマッターホルンを訪れ、夫君の墜落をとめようとして、とめきれず墜死することになる。いっぽう、今井通子は、その後、グランドジョラス、アイガー北壁にも登り、アルプスの三大北壁を完登した世界で初めての幸運な女性となった。


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小富士山        207m        三角点はない         越知

佐川町荷稲(かいな)地区の山である。山の姿が富士山に似ていることから、いつしか「世人称シテ荷稲ノ小富士ト曰フ」と佐川町誌の大正中期の項にある。コフジヤマ。

なるほど富士山のような姿をしている

 富士と名のつく山は県内にもいくつかあるが、どこから眺めたら富士のように見えるのだろうと思えるものも多い。ところがこの佐川町の小富士山は、東西どちらから見ても、山裾を秀麗かつシンメトリーに引くその姿において、いささかなりとも名に恥じるところはない。まさに富士であった。町内に富士見町や富士見橋があるが、この山のためにつけられたものである。
 頂上には石積みの祠がある。昭和の初期に築かれた石鎚さんが祀られて、今でも毎年227日に祭礼が行われているとのこと。祠のそばには榊が植えられていた。南側にはひらかれた形跡があったが、ふたたび木々が育ち視界をとざそ うとしている。落葉したそれらの間から正面に虚空蔵山、その右手に勝森や蟠蛇森などが見えていた。小雨がふってきたので、大急ぎで下山にかかった。
 帰途、日高村にはいったところで車をおりて、雨もやんだ夕暮れのなかに小富士山をふりかえってみた。その姿は佐川町内で見たそれにまさるとも劣ることはなく、際立った山容をまわりの凡庸な山並みのなかにしっかり浮かびあがらせていた。

 
「富士の山肌の地色の複雑さを私は寝ながらに沁々と見た。遠くから見れば先ず一色に黒く見ゆるのみであるが、決して唯の黒さではない、その中に緑青に似た青みを含み、薄く散らした斑らな朱の色も其處らに吹き出てゐる。黄もまじり、紫も見ゆる。そして山全體にわたつて刻まれた細かな襞が、襞に宿る空の色が、更にそれらの色彩に或る複雑と微妙とを現はしてゐるのである。富士山は唯だ遠くから望むべきもの、ことに雪なき頃のそれは見る可からざるものといふ風に思つてゐた私の富士観は全く狂つてしまった。要するに今日までは私は多く概念的にこの山を見てゐたのであつた。けふ初めて赤裸々なこの山と相接して生きものにも似た親しさを覚え始めたのである。一種流行化したいはゆる「富士登山」をも私は忌み嫌つて今まで執拗にもこの山に登らなかつたが、斯うなつて来るとその考へも怪しくなつた。早速来年の夏はあの頂上まで登つてゆきたいものだなどと、鮮かに晴れた其處を仰いで微笑せられた。」

深田久弥編『富士山』より 若山牧水「富士の南麓」

 
 また、『旅への憧れ』のなかで田部重治は富士山のことを次のように書いている。
「富士山は遠くから眺める方がいい。登るほどのことがない。一度は登って見るのもよかろうが、晩年にそろそろ山登りの出来なくなる一寸前頃に登るのがいい。
 私が初めて山登りをやりはじめたころ、中部山岳に夢中になつていた若い人達は、こういうことを私によく言つた。この言葉を信条として登山をやつたわけではないが、今迄、夏になると、中部山岳へ登る案を立てるとか、余り人の行かない山や幽谷に這入るような案を立てるとかして、とかく足が富士山から遠ざかった。そして富士へならばいつでも登れると思いこんだきり、今日まで登ろうとはしなかった。」
 こうして彼は昭和1788日、初老期に入って初めて富士に登ることになる。

 
 深田久弥が「偉大なる通俗」と呼んだ富士山は、一般の登山家には意外と人気のない山である。その理由を考えてみるに、多くの、にわか登山者による都会を歩いているような喧騒と俗っぽさ、登りいっぽんの変化のない登山道のせいかもしれない。だが頂上で見る、名だたる高山をはるか下に見おろしての、御来光だけはやはり素晴らしい。富士山頂は日本一晴天率の高いところでもある。


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馬場西山        229.6m        三等三角点         越知

 佐川町の小富士山の北側にある山。ウマバニシヤマ。

新高梨の梨畑からのぼった

 岡花で国道からはなれ登山口にむけアプローチしていったが、それにつれて小富士山の端正な姿が崩れてゆき、ついには形も定かでなくなっていった。

 馬場西山の登り口として選んだのは、山の北側の新高梨畑からだった。梨の低い枝に身を屈めながらそこを抜けて、谷間のほうまで歩いた。それにしても梨の木は大きな幹をしている。「巨木ですね」と主人にいうと、40~50年とも50~60年とも、正確には忘れたが、とにかくずいぶん長い年月たっているから「大きくなったのだ」とこたえた。
 尾根に出ると、すぐ左に11番送電鉄塔が見え、その東の林のなかに三角点はみつかった。山道のすぐそばである。ここにも派手な「K山岳会」の記念のプラ板が立ち木に残されていた。
 すぐにはわからなかったが、山頂の南側は垂直の崖になっていて、木の幹につかまりながら下を覗いたがすぐにあきらめた。虚空蔵山や蟠蛇森などのアンテナ群は明るい逆光の光のなかに霞んでぼんやりとしか見えなかった。東のほうには土岐山が、それとわかる頂を見せ、崖の下の方には里の田園風景が広がっている。下山後、正面にあったはずの小富士山が、そこからどのように見えたかを確認してこなかったのがただ一つ心残りとなった。

 
「登山という行為は、人間とか物事を、そこから引き出しうる物質的な利益だけで判断しようとすれば、たいした価値はないように思われる。(中略)だが、それだからこそ、人間としての価値の尺度において、山登りはまことに高い価値を与えられているのである。」

ワルテル・ボナッティ『わが山々へ』


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貝石山         262.2m         四等三角点         越知

 佐川町の山である。県道197号線をはさんで南東側に荷稲富士があり、東どなりには馬場西山がある。馬場西山には四電佐川線の11番鉄塔が、そして貝石山の頂には同じ線の8番鉄塔が立っている。介石山とも書き、紫雲山、紫気ヶ峰、琴平山などとも呼ばれていたということである。点名は「下山」。カイセキヤマ、カイセキザン。

片隅に「下山」四等点はあった

 大正
8年の佐川町史に、「町ノ東北隅に在リテ 加茂黒岩ノ二村ニ跨リ 西南麓ハ柳瀬川ニ瞰ム 高サ二百米突 山上ニ貝類及植物ノ化石アリ 故ニ此称アリ」と、記されている。白亜紀からペルム紀にかけて、6500万年から29000万年前の古い地層から、貝類や植物類の化石が多数出たことから、この「貝石山」の山名が生まれたのであろう。

 ある日、高知新聞にこの山のことが紹介され、後ればせながら、ほかの山からの帰途、この山に寄ったことであった。下山5号町道にはいり、狭い農道を切りかえしながら上っていったが、途中に倒木があり、終点の50mから100mほど手前から歩かなければならなかった。送電線の管理道をたどると簡単に山頂につく。鉄塔の北東側の一段高いところに新しいタイプの、四等三角点の銅製半円球の標識が、コンクリートの台座の上にとりつけられていた。地味な山頂にかかわらず、山名板が2枚も木の幹にくくりつけられている。
 行き止まりになった農道をバックして分岐のところまで戻ると、すばらしい秋の風景が眼前にひろがった。冷気のまざった涼風にススキの穂やハギの花がゆれ、柿の実たちが枝をたわませてぶらさがっている。その向こうに、虚空蔵山、勝森、蟠蛇森などを含む山々が、霞むことなく、夕刻近い空をバックに、くっきりと稜線を浮かびあがらせていた。

 
「いまの私の場合、一年を通じて山へ出かけ、山で過せる日の実数はせいぜい一、二週間ぐらいのもので、それもかなり奮発してのことである。にもかかわらず、山のことがたえず念頭を離れず、いつもそれを身近に感じながら過せるのは、まつたくもつて書物のお蔭というほかない。」        

小林義正『山と書物』山と書物


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九反田山        226.0m        二等三角点         越知

佐川町の市街北部少し西よりに見える、同町唯一の二等三角点の山である。南西麓に九反田の地名が見える。クタンダヤマ。

頂上にはなにか人工物の跡があった

 北側の幅員のせまい農業用の車道からはいり、送電線鉄塔の管理道を経由して登った。
 市街近傍の山もさまざまである。公園化されて遊歩道、展望台まで整えられた山、昔からの信仰を集め、山頂に社や寺、祠などのある山。あるいはまたアンテナなどの乱立する山。しかしこの九反田山はそのどれでもなかった。道すら途中からは消えて、松のおおい雑木林の斜面を直上した。頂上はすこし荒れ気味の、やはり雑木のなかである。木々の間から虚空蔵山の頂や、市街のところどころが見えていたが、それよりもザワザワと上がってくる町からの騒音の方がより耳についた。
 三角点の横には測量旗を結わいつけられた赤白ポールが立ち、すぐにその存在を知ることができた。最初そのどれでもないと言ったが、山顛にはかなり大きな石積みの跡がシダや喬木の下に残されていた。昔にはここにも人々の信仰を集める社や、それほどではなくても大き目の祠があったのかもしれない。

 
「何はあれ「一日の王」、私は今日もまたこの心で出発したい。この心のあるかぎり、私の老いはいよいよ私を富ませるだろう。」       

尾崎喜八 『山の詩帖』


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越知山         442.4m         三等三角点         越知

 佐川町と越知町の境にある山。明治維新前夜、田中光顕ら5人の勤皇の志士たちが集結したことで有名な赤土峠から西に尾根を1.5kmほど伝ったところの頂である。オチヤマ。

佐川市街をのぞむ

 頂上には短い石段の先に三峯神社という大岩に守られた祠があった。その所在地は三峰ヶ辻である。だから山名は「三峰ヶ辻山」でよかったかもしれないが、ここでもやっぱり点名の「越知」を使うことにきめた。その祠の左右一段下には
NHKRKCの送信施設があって、その縁であろう、石段の鳥居の寄進元は両放送局になっていた。

 立春の日に登ったが、手水鉢には厚い氷がはっていた。春は名のみでまだまだ先のようだが、まわりの木々の芽は確実に大きくふくらんでいる。それに陽光もめっきりと明るさをまし、小鳥たちのさえずりも気ぜわしくなった。春はやっぱりすぐそこまできている。
 南側はとくによく開け、佐川市街はもちろん、東や南の山々や青空とのあいだの視界を邪魔するものはなかった。北側はこういうわけにはいかないが、越知市街や仁淀川、亀ヶ森や黒森山は確認できた。三角点は岩の祠の左手前、すぐに分かるところにあった。公共性も高く、人目につく場所なので、記念のものはなにも残さないことにした。
 あとになって、祠にいちども手を合わさなかったことに気がついて、下山してから山の方向にそっと合掌した。

 
「山の魅力は、ただ通り過ぎるばかりの登り方では、ほんとのよさに触れることが足りない、と私はいつも感じている。
 少なくとも一つ所で暮れるのを眺め、朝を迎えるのでなくては、大方の山のよさを見過ごしてしまう。
 日常生活のさ中でも、朝と夕は趣あるもの。まして、大自然のふところに抱かれて、山であう朝夕の味わいの深さは、また格別である。麓にしても、山頂にしても、高原にしても、森林、渓谷……いずれも、それぞれの特徴をきわだたせて、美しい。ことに、布一重にたよって仮寝するキャンプのときは、なおさらである。」

村井米子『山の明け暮れ』 山の明け暮れ


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白滝山         550.2m         三等三角点         越知

 越知町の、もっとも東にある三等点の山である。シラタキヤマ、シロタキヤマ。

仁淀川対岸より白滝山をのぞむ

 山名といい、標高差、山容といい、案外興味をそそられるような山であった。どこに登路を求めることができるだろうか、黒瀬集落で数人に聞いて、結局、山頂の1
kmほど南にある岡本神社(ここにはそのむかし、法厳城という砦があった址でもあるそうだ)まで車でのぼり、そこから北上する尾根を行くことにした。

 神社は広場のいちだん高いところ、おおきな粗石を積んだ石段の先にあった。社の屋根の上には白滝山の頂上部がそびえている。神体とされているのだろうか。その頂の横に歩道があったが、それは下るばかりなので、すぐに尾根に出、直上することにした。ズルズルとすべる足元。じゃまをする倒木や小枝。しかし、小喬木やかん木の幹や小枝などがなければ、急斜面は危なくて上りも下りもできないことも事実である。やがて山の名にそむかない崖があらわれはじめる。ステップは十分にあり、すぐに上に出ることができた。岩上では文句の付けようもない眺め。くねくねうねる仁淀川。豊かな水量の上にかかる沈下橋、その傍には片岡や南片岡などのなつかしい集落。「望郷岩」と勝手に名づけた。目のまえには水天宮山や亀ヶ森などの変化のない稜線の山が連なっている。今回はここがいちばんの場所だった。
 頂上は雑木林のなかである。広葉樹は葉がほとんどなくあかるい。きれいな三角点の上には、赤白ポールが針金でひかえられて立っていた。家に電話をしたり写真をとったりしてから下山。下りも望郷岩のうえでもう一度展望を愉しんだ。

 
「現実のみによる人生は醜いものになるだろう。」

ジョン・コスト 『アルピニストの心』


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亀ヶ森         395.6m         三等三角点         越知

 越知町と佐川町の境界にある山である。カメガモリ。

越知市街がよく見えた

 国道33号線をゆくとき、ときどき越知市街の北で、パラセールが大空にゆったりと浮かぶのを見ることがあった。それらはこの亀ヶ森から発進したものである。下から眺めても三角点の東のほうにそのゲレンデがあるのがよく見るとわかる。
 平野林道から亀ヶ森三角点はすこしだけ分かりづらかった。一度、黒森山や仁淀川、対面の山腹に里の見える山などをよく見わたせる頂まで行ったが、三角点は見つからず、パラセール発進場までいってから、ひき返して登りかえし、先ほどの頂のもう一段下の、標高のすこし低いところに標石は立っていた。フェンスで囲まれた電波反射板の陰になった小広場である。反射板の角などから垣間見えるぐらいでほとんど展望は得られない。眺望はなんといってもさきほどの発進場からが一番である。ここからなら越知市街もまったくあますところなく眺めることができた。

 
 明治期、いわゆる「探検の時代」の登山は、一部の有産階級やその子弟たちの趣味的活動に負っていた。大正、昭和初期になると、裕福な家庭に育った学生たちを中心にした、アルピニズムを標榜する先鋭な登山活動にその主役は移っていく一方、都市を中心に、さまざまな階層の人々にも登山趣味が深く浸透していった。そのなかには、学生たちに負けてなるものかと、先を競って谷川岳などの険しい山岳の壁や稜線に一番乗りを目指すものもあれば、ハイキングやツーリズム色の濃い活動のレベルまであり、登山という分野の裾野そのものがじょじょに広がっていった時代であった。
 このような登山の大衆化に、すくなからず影響力をもったのが、昭和5年創刊の「山と渓谷」などの諸山岳雑誌や、松井幹雄らの「霧の旅会」(1919年設立)がある。後者は困難なアルピニズム志向の登山の対極に立ち、低山において自然と語らい親しみ、筆による発表をとなえて、多くの味のある書物によって人々を山や自然へと誘った。この会には、松井のほかに、川田楨(かわだみき 「一日二日山の旅」)、高畑棟材(たかはたむねたか 雑誌「山小屋」初代編集長)、尾崎喜八ら多士済々が集い、小暮理太郎や、田部重治、武田久吉らを顧問、長老として迎えた。この日本的漂泊感にも連なるアルピニズムと肩肘はらない静観的登山の潮流は、大衆の共感を呼んで、いまなお続いている。


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水天宮山        476.6m        三等三角点         越知

 佐川町と越知町の境、亀ヶ森と尾根でむすばれた山である。スイテングウヤマ。

雪の中津明神山が見える

 亀ヶ森といい水天宮山といい、当然のこととして山頂の祠を期待したが、すくなくとも目につくところには祠や社はなかった。どこか離れたところにたぶんあるのだろう。

 亀ヶ森から平野林道をさらにすすんだが、木立で鉄塔が見えず、すこし不安になっているところに通りがかりの数台の軽四たちが、この先だよと、おしえてくれた。送電線管理道が見つかってからは頂まで時間はかからなかった。数分で尾根に出、その上の高台のようになったところに三角点はあった。なかなか良い頂で、もし若い植林やかん木のような木々もなかったとしたらグルリ見まわすこともできたかもしれない。それでも北西には土佐とは思えないほど雪を頂いた峰々が望まれ(中津明神山であった)、正面には斗賀野の町並みのむこうに例のアンテナ群を擁するいくつかの山が見えていた。ここにも「K山岳会」。私も枝に記念プレートを残した。無風で温暖。家に電話をかけたり、「山頂の憩い」を味わってから下りにかかった。

 
「おお 夏の朝、太陽に照らされた山稜の岩に立ったとき、人生がいかに美しく感じられたことか」  

シャルル・ゴス『マッターホルンの十字架』 グラディス


『マッターホルンの十字架』はシャルル・ゴス(1885-1944)によって書かれたアルプスを舞台とした短編小説集である。スイスのジュネーブに生まれたゴスは幾多の輝かしい山歴をのこしたアルピニストであるとともに、父、兄弟は山岳画家や写真家、作家などとして著名であって、幼いころよりその方面の深い薫陶をうけて彼はそだった。ほかにも多くの作品をのこしたが、『マッターホルンの十字架』におさめられた短編は、みな死をテーマとしたものであった。けだし、死こそ、アルピニズムをバックボーンとしてのロマンティシズムの極致といえるものではないだろうか。


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舟川山         302.7m         二等三角点         佐川

土佐市と須崎市境にある山。点名は深浦である。フナカワヤマ。

横浪三里のながめ。太平洋は霞んでいた

 国道の鷹ノ巣分岐から車道を歩いて1時間ほどで達することができるが、頂上まで車道が通じ、少なくとも両市の境界の峠までは車で行くことができる。そこから徒歩で20分とはかからない。
 国道56号線からも頂上にあるアンテナ施設が見えているが、下界から想像していた以上の光景がそこからは広がっていた。南側、三角点のそばからは横浪半島の付け根部分を境として、手前には横浪の入り江奥の光景が見え、その向こう側には太平洋が春霞のなかにぼんやりと広がっていた。反対側、車道の方からは蟠蛇森や虚空蔵山がアンテナの頂を並べ、西には須崎以西の山々が逆光にシルエットになって畳々と重なって見えていた。
 頂上にはNTT舟川無線中継所の施設がフェンスに囲まれてある。地形図を見ると、三角点はその東側にあることになっていた。フェンス沿いにそこまで行って見ると、施設の盛り土の外、一段低いところの茅ヤブの中に白いプラスチックの標識が見えた。下りてヤブを探るとすぐに、頭の部分がひどく損傷して哀れになった二等点を見つけ出した。
 しばらく景色を楽しんで、ヤブを払い、標石の存在を示す新たな標識をそばの木に吊るしてから三角点を後にした。

 
「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く」            

種田山頭火


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松尾山          272m         三角点はない         佐川

土佐市の山である。マツオヤマ。

国道56号線より見る松尾山

 低山でも、名のある山にはそれなりの魅力というか特徴があるものである。この山の場合、それは姿であろう。佐川には松尾城という城があったようだが、この山にはそのような話は聞かない。
 この山が松尾山であることを知る前に、国道56号線を上下するときなどに目に付いて、格好のいい山だなと考えていたものであった。南側の部落、大川内で老人に登山道を聞いたとき、「私も登ってみたいのだが、もうこの足では」と言う。どの山でも、すぐ山麓に住んでいながら、登ったことがないという人が多いのはいつもながら不思議に思う。わたしならきっとその辺りを歩きつくしていたことだろう。老人に聞いた道はすぐにヤブに閉ざされ、ひらいて登らなければならなくなった。頂上はさほどおおきくない広葉樹林。三角点もなければ祠もないので、どこが頂上であるのかまったく分からなかった。
 空は十分に開け、明るいが展望はない。この山はやはり、その姿のよさが特徴の山だと思われる。 

後に地域の人の努力により、日本有数のタチバナの群生地として知られるようになった。また2003年になって頂に四等三角点268.1mが新設されている。

 
「多人数で山を踏み荒すことは、極力避けなければならないと、痛感せざるを得ない。日本山岳協会あたりは、山岳保護の烽火美を挙げる責任のあることを、けろりと忘れ、登山体育大会などと号して、多勢で諸国の山岳をいわゆる踏破して、人数の多いほど、成功だと得意になっているとは、沙汰の限りといわなければならないことであろう。」

武田久吉『明治の山旅』 八ヶ岳


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赤波介山        367.6m        三等三角点         佐川

 土佐市の山。西側2kmほどのところに石槌森がある。アカハゲヤマ。

舟川山と高速道

「点の記」のあやふやで不正確さに翻弄され、思わぬ苦戦をしいられた山であった。できるならば迅速に登りたいものだと、林道を奥まで一本一本たしかめながら入ったが、それでも登路をつかみかねた。せまる夕刻、そのうえ雨の心配に追われる。天気予報では夕方から雨になっていた。そのけはいがすでにま わりに漂いはじめている。
 ようやく決断して、北西側の林道のヘアピンから登りはじめた。道をさがしながら出た尾根も、ゆるやかながら石灰石の岩稜。それにイバラなどのヤブがのって不愉快きわまりない。手足がキズだらけになる。しかし展望はよかった。左には日高以北の山々、右下に高速道、それにアンテナの虚空蔵山や舟川山などが見えている。ヤブをひらきながら接近してゆき、320分ごろ頂上に立った。スギやヒノキの大木に囲まれてうっそうとしている。広葉樹がのこされていたのは標石の周囲だけであった。すぐ近くまで作業道がきていたが、草木がしげって、これでは車では上がってこられないはずである。
 雨が近い。大急ぎで下山にかかった。車までかえって、汗にぬれたシャツをかえていると、夕刻と雨がとうとう追いついてきた。

 
「けふもいちにち風をあるいてきた」              

種田山頭火


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西加奈木山       300.9m        三等三角点        佐川

 土佐市と須崎市のさかいにある山である。両市境を西にすすみ、その後北上すれば、新名古屋トンネルの上をとおって、やがて虚空蔵山にたどりつく。ニシカナキヤマ。

山名板の多くのこる山頂であった

 
大きな竹が何十本もたおれていてコースの変更も考えたが、なんとか突破しようとそのまま直進にきめた。ウグイスの初音を聞く。「ケキョ」だけがときどき林中にひびいていた。急な斜面の登りやすそうなところをさがして、左右にふりながら高度を上げてゆき、ようやく出た尾根は青葉と木漏れ日のきれいな照葉樹のプロムナードだった。左側にところどころ、朝日にかがやいてまぶし い太平洋と、その手前に横浪三里もすこし見えている。右手にはちらりちらりと虚空蔵山や蟠蛇森が。
 頂上はひろびろしているが展望はない。三角点は頭の各角が欠損し、けものたちのなすりつけた泥で汚されていた。「M」と「K」の登頂記念のプラ板が見える。私たちのを含めて三枚の山名板ののこされたこの山はもう決して無名の低山とはいえない。
 帰途につく。急な斜面を下りおえて、私が大きなくしゃみをしたとき、それに競うように大声でウグイスが鳴いた。その鳴き方は登るときよりもずいぶん上手になっていた。

 
「たとえ他人が前に足を踏み入れた所でも、自分にとってそこが未知であれば、ほとんど劣らぬ満足感を得られるものである。」

クリス・ボニントン『アンナプルナ南壁』


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石槌森         395.6m         三等三角点         佐川

 日高村と佐川町のさかいにある山である。このまま町村境を南西にむかえば数kmで虚空蔵山にいたる。イシヅチモリ。
 石槌森の東側にある峠、光明峠まで車で到達することはできなかった。その手前、穴地蔵

こわれた石槌神社の祠があった

から、山のほうに向かう作業道が入っていたが、それも、間なしに荒廃のために進むことは困難になり、結局そこから歩くことにした。ススキを分けて、次々あらわれる分岐を石槌森の方向に取りながら上っていると、急に最近のタイヤ痕のある作業道に出た。

 その近くから尾根に出て、ろくに地図も見ずにすすみ、さて目的の頂に着いたと思ったら、そこには標石はない。どうも南側の町村境の尾根を来たらしい。急いでひき返し、途中の切り分けを通り北にまわった。そして、西の空がうっすらと朱色に染まる時間になって、ようやく石槌神社の祠のある岩の頂についた。ちいさな鉄の鳥居やなにか動物のかたちをした陶器のこわれたものなどが散乱している。はやく三角点を見つけなければ。
 標石はそこから西へ数十メートルの尾根上にあった。そこではなんと2枚の山名板を認めた。ひとつはすこし離れたところの木の幹に、残りの「猿ヶ岳」とぼんやり書かれたものはわきに投げすてられていた。私たちが名もないふるさとの山々を巡りはじめた最初のころには100山中、99山までこんな風景は見なかった。それが、一つの山で2枚もの登山者の残した記念プレートが見つかるようになるとは‥‥と、投げすてられた山名板を元にもどしてやりながら、感慨深く考えていた。

 
「人間が孤独だというような言葉が、よく散らばっているが、本を読む人間には、孤独などは本当はない。」               

辻まこと 『わが濫読史』


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勝森          544.8m         三等三角点          佐川

佐川町の山である。カツモリ。

採石場を見下ろす

 勝という文字が使われており、縁起がいい山ということになろうか。
 JR斗賀野トンネルの抜けている山であり、すぐ西側を新旧の国道494号線が通っている。
 また地形的には虚空蔵山と尾根続きで、同じ山系である。全山が石灰石鉱山となっており、車道は頂上まで通じているが一般車の立ち入りはゲートによって禁止されている。鳥形山のような採石場の西端に山頂部があり、祠のある広場のすぐ横の、ちいさな林のなかに三角点はあった。
 そこからは何も見えなかったが、途中の展望はすばらしく、北には、斗賀野の町並みの向こうに四国山地などの大展望が広がり、南には光を反射して輝いている須崎湾が見える。西には蟠蛇森、東には虚空蔵山の両巨人が、アンテナ群を、これでもかと天に突き立てて居座っていた。

 
「明治三十二年の春であったか、三十五年の春であったか、一人、東北線の客となって日光に赴いた時、宇都宮近くから、西方遥かに残雪に蔽われた純白の山峯を望み、傍の乗客に、何山かと問えば、あれは上州のお白根山だと答えた。昔の人は、崇高な山にはお那須山などと、尊敬して呼んだものである。今ではそれを、闘争の相手でもあるかのように、アタックしたり、征服するという、心掛けの相違は、昔と今と、こうもはなはだしいものかと思えば、むしろ空恐ろしい。」        

武田久吉『明治の山旅』 白根登山


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佐川城山        200.4m        三等三角点         佐川

 佐川町の市街南側にある牧野公園の山である。サカワジョウヤマ。

岩の上から佐川市街をながめる

 どこの部分までを牧野公園というのかどうかは知らないが、「司牡丹」の工場の壁に沿ってまがり、「青山文庫」などの前をとおって車道を登りきったところの広場の端にある大岩の上からは、佐川市街だけでなく佐川城の本丸のあった頂も手に取るようによく見わたすことができた。その本丸跡に、「茶ノヱ松」三等三角点はある。

 佐川城は南北朝以来の山城であった。「長宗我部の時代には重臣、久武内蔵助の居城だったが、藩政時代に入ると、山内家の国家老、深尾一万石の持城となるも、1616年の幕府の一国一城制度により廃城になり、高北隋一の名城もついに姿を消した」。そのようなことが、公園の佐川町教育委員会の古い看板には記されていた。
 車をおいて登りはじめると、左側の、ここも当然城の一部だったのだろうが、切りたった山の斜面の上部が平らにならされているようにみえる。まもなくその平坦に削りとられた尾根まで上ると右側の木立のなかに「佐川城本丸跡」の木柱が立ち、その先の一段高いところに、国土地理院の白い標柱と石のちいさな祠の屋根が見えた。さらに近づくと、祠のように思われたのは、石灯篭の笠のようなものを、三角点の上にただ置いてあるだけであった。たしかに標石の保護には役だっている。誰がいつここまで運び、そして上にのせたのだろう。お互いの石の種類がちがっていたし、笠をとりのぞくと頭が何ヶ所か欠けた三角点があらわれたことで、後になって上にのせられたものであることはわかった。
 中世以来の遺構があったという、その平坦な広場のまわりからは、周囲の山々や佐川市街が、木々のあいだから見えかくれし、現代の街のさまざまな騒音が聞こえてくる。

 
「またホワイトの「空にそそり立つ山々」などという表現を見ると、一八世紀人の天然に対する見方がほの見えて面白く思われる。いったいホワイトと同時代の人々は、「威圧するような高山」に対しては畏敬の念を催すような心を持っていたが、現代はかような山へピクニック・パーティが平気で登山している。スコットランドの地図に関するホワイトの見解も、アイルランドの記事同様、今日から見ると時代ばなれのした考えのようである。――グランドアレン注記。」

『セルボーンの博物誌』 トマス・ペナント氏宛ての書簡 第四二信

 
 近代、佐川町は、わが国の自然科学界に貢献したふたりの英才を輩出している。牧野富太郎と西谷退三(にしたにたいぞう 本名 竹村源兵衛 1885-1957)である。両人とも生家は裕福な商家であった。彼らはそれを実質上つぶしてしまう形となったが、それらとは比較にならないほどすばらしい遺産を私たちにのこした。人生で一番つまらないことは、金のために働き、しかもその使い道も知らずに死んでゆくことである。ふたりは資産の有効な使途を生涯かけて探し求め、見つけることができた幸運な人たちだった。
 西谷退三は、ちょうど20歳のころ、札幌農学校(現北海道大学農学部)在学中、講義でギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』に魅せられた。欧米への2年間ほどの遊学中、アメリカでは、『森の生活』のHD・ソローゆかりの地をめぐり、イギリスに渡って、ロンドン南西にある村、セルボーンを訪ね、その地の風光やウェイク荘を眺めて、ホワイトの体温を身近に感じとって帰った彼は、いよいよ博物誌の翻訳に本腰を入れて取りかかることになる。途中先行する翻訳書が複数出たが、それに惑わされることなく推敲に推敲をかさねて、72歳で亡くなる間際ようやく筆を置いた。さらにこれが初版されたのは彼の死後のことで、親友森下雨村による200部限定の自費出版からであった。いまでは自然史の古典、「ナチュラリストのバイブル」といわれるのみでなく、英文学の傑作としても読まれる同書の、最良の翻訳書はこのようにして世に出たのである。


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栗林山         328.3m         三等三角点         佐川

 佐川町の斗賀野駅の西に独立峰のように印象的な姿をみせている山。クリバヤシヤマ。

斗賀野からの栗林山

 伏尾の家並の間から鉄塔管理道まで登る、あるいは鉄塔の管理道を直接途中までたどる方法など、現地でいろいろと迷いながら考えたが、決めたのは、山の北側の峠ちかくに山道を見つけたので、それを行ってみることであった。道はもうどれくらい捨てられたままになっているのか。倒木や、小さい木が育ち、いつもながらの障害物競走である。こえたり、くぐったり、よけたりと。路面もくずれ、えぐられ、石ころや落ちた枝などが前進をおくらせる。途中さびしい山中の道端に明治時代になくなった夫婦の小さなほとんど同じ墓が二基ならんで立っていた。本人たちの意思でここに埋葬されたのだろうか。それとも近くに住家でもあったのだろうか。いまでも世話をする人がいるのだろうか。

 いつまでたってもトラバースばかりなので、植林中の急斜面を頂稜までいっきに高度を上げ、そのあと緩やかな尾根を行ったが、やがてものすごい小喬木の密集するブッシュとなった。道をつくりながら進むものの、時間だけがわきを足早に通りすぎてゆく。
 1時間30分ほどで突然目の前に木の祠があらわれた。周囲は二人や三人ではどうにもできないような大きい石がぐるりと積まれている。手前には「昭和三年八月吉日」と彫られた手水鉢。そのころには部落から多くの人が世話のためにここまで上がってきていたことだと思う。三角点はそこから100mほど東にあった。すこしヤブ化しようとしていたが、標石はちょうどいい具合に姿を出していた。片づけて写真をとる。南には虚空蔵山や蟠蛇森にかけての、例の、三点セットの山が木々のあいだから覗いていた。
 帰途、祠の下におりてみると、そこは岩屋になっていて、ふるい焚き火の跡があった。

 
「尾根の末を下りて小さなキレットを渡り、その向側の岩と取組み合つた。われわれは右の方へついて斜めに登つて行つた。ところが斜めといふのが或るところでは水平になってしまつた。さうしてむづかしく突出た岩を廻つて平らに進んで行かなければならなかつた。その難関を急がずに突破し、それから絶壁に真直ぐ立ち向つた。マキナーが第一回登攀のときに残して来たロープが上の崖から下つてゐる。此のロープの端に達した、案内人がそれが摩擦のためあまり傷んでゐないことを確かめるのに少し時間がかかつた。それを検べてみるには二重に注意が必要であつた、それは岩が悪いのと此処では其の上に氷の皮が出来てゐるからである。ロープは処々麻の心のまはりに氷の鞘がついてゐて、さういふ処は手が滑つて利かないのである。ロープの援けがあつてもこんな有様だから絶壁の頂上へ達するにはなかなかの骨折りであつた。そこで一分間ほど息をつくために休んだ。それで登攀は終つたやうなものである、そこから数分ぐんぐん登ると雷に裂けた頂きに達した。これで長い間の私とマッターホーンの争ひは終りを告げたのである。」

ジョン・チンダル『アルプス紀行』 マッターホーン―第三回すなはち最後の攻撃

 
 ウィンパーとマッターホルンの初登頂を競うことになった一人、イギリス人、ジョン・チンダルは、現在でも「チンダル現象」や「チンダルの青」「チンダルの花」など、物理、氷河学その他の世界に名を知られる科学者であった。彼がマッターホーンに登ったのは、18687月末のことで、ウィンパーの初登頂から3年後のことである。


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陣ヶ森         424.6m         三等三角点         佐川

 佐川町の中心部の真西23キロのところにある山。ジンガモリ。

尾川城址で軽食をとった

 私たちにとって県内で登る
3山目の「陣ヶ森」である。日高村のそれは残念ながら山名の由来を調べることができなかったが、この山の場合には偶然それを知ることができた。この山の南面中腹には尾川城という戦国時代までの城跡がある。この山の名はそこからきていることは明らかであった。

 尾川城の城主、近沢将監は、筆と弓を取っては当時土佐に並ぶものがないといわれたほどの文武両道の人物であったようであるが、主家長宗我部氏の滅亡後頼るところをうしない、国外に去って、城は荒れるがままになったということである。
 登山道となるべき、むかし尾川と越知の奥畑とをむすんだ峠道は、途中までは確かに辿ることができた。だが、標高にして残り100mそこそこになったところあたりで、とうとう峠道を外してしまい、あとは崖のように急な斜面をよじ登るようなかたちになった。頂上も近づくころになるとまた傾斜もゆるみ、まもなく三角点に。標石は、さし迫らない、案外ひろびろと感じられるところにあった。キズもほとんどなく、掃除の必要もなかった。北側には広葉樹林ものこされている。
 帰途、尾川城址まで行ってみた。きつい山道を登りきった城跡は、話に聞いていたように、きれいにヤブが刈りはらわれて、南側の、虚空蔵山から仁淀村までの山々や下の集落の家並も見える。新しい三角点が埋設されていたが、まだウェブ上の国地院の地形図にも記載されていなかった。植栽されている桜の木が、あと二月もしないうちに満開となることだろう。その頃のことを頭に描きながら、切り株のうえに丸太を一本かけ渡しただけの簡素なベンチで、私たちは軽食をとった。

 
その森で 思わずうけた僥倖にふれるためにも、そこで見たくさぐさのことを わたしは語ろう」                   

ダンテ・アリギエーリ


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虚空蔵山        674.9m        三等三角点         佐川

土佐市と須崎市、佐川町の交点にある山である。以前は国蔵山とも書いた。虚空蔵山と同じ名前をもつ山は地形図にのるだけでも全国にほかに25山もあるそうである。また、なぜかこの名の山の近くには金属鉱山などが目立つという。コクゾウザン、コクゾウサン。

想い出の写真の一枚です

「虚空をつかむ」という言葉がある。なにもない虚無に執着するとかいう意味で、仏教的な雰囲気をもつ言葉であることはわかっていた。しかし弘法大師がこの山に虚空蔵菩薩をまつったのが山名の由来であることは、これを書くようになるまで知らなかった。

 それにしても、ちかくの蟠蛇森と同じように響きのよい山名をつけたものである。それに同じように近隣に目だっている。国道を走っているときなどでも、すぐにその山であることがわかる。あながち秦の始皇帝が不老不死の妙薬をもとめるために使者をおくって、この山に辿りついたという蓬莱山伝説も嘘とばかりは言えないように思えてくる。
 いまは頂上まで車で登ることができる。誰もがお弁当をひろげる岩場の近くには全国を放浪してまわった大町桂月や、その桂月を師のようにしたった田中貢太郎の歌碑や句碑、桂月の胸像などがある。青森県など東北では十和田湖など山や湖、そのほかの風光を全国に紹介して恩人のように思われている桂月だが、彼の故郷である高知県ではどのような位置づけをされているのか、あるいはいたのか。それは坂本龍馬などにもいえることである。
 あちこちにアンテナの鉄塔がたち、途中にはわんぱく広場があって、そこには山崎天文台などもある。頂上からの展望は文句なくすばらしいが、あるいて登る山としてはもはや、俗化されすぎているように思えてならない。三角点は西のピークの、林のなかにある。

 
 近代登山の夜明け、その時分の主人公は、大地主や、社会で成功をおさめた富裕層の人々、いわゆる旦那衆である。彼らは猟師や山師、のちにはプロのガイドを案内人として、土地の人を人夫に雇って荷を背負わせ、新鮮な、未知にあふれる山々を悠々と旅していた。これはわが国においても、また本場であるヨーロッパ・アルプスにおいても同じで、とくにイギリスの貴族や産業革命による成功者たちの活躍がめざましかったことは当然といえた。そのうち、エリート学生や、高知識、高所得者層の人たちが精神の高揚や浄化を求めて自然に親しむようになり、この間に、文学と言えるまでに昇華されたロマンチックな文章が後の世に残されることになる。
 やがて、壁や困難な稜線の初登攀をきそう時代にはいると、すこし腹の出はじめた旦那衆には手におえなくなり、危険や困難をいとわずに突進する気風と、その中に山の真髄を求めようとする、より所得や学歴の低い層をふくめた、壁にあらずば山にあらずの、元気な若者たちに主力がうつる。谷川岳などで大量の遭難者を出したのもこの流れである。この時期の先人の文章には、どの壁をどのようにして初登攀したかなどの記録的な面が強くなり、山に対しての詩的な感慨がすくないように思える。
 平行して、登山界を席巻していたのは、ヒマラヤなどの世界の高峰への挑戦と、初登頂競争であった。これは、オーストリアなどの小規模な遠征隊のものもあったが、おもに国家レベルの競いあいで、8000m峰がすべて登りつくされるまでつづいた。そののち、ヒマラヤの壁も主だったものが初登攀されてしまうと、騒がしいオレが一番乗りの狂奔はじょじょに収まっていった。
 いまは、ヒマラヤでさえ大衆化されて、エヴェレストといえども、すでに、個人が、ある程度の出費をいとわなければ、天候という大博打はまだ残っているものの、シェルパのつけたフィックス・ロープと梯子を伝って、頂上を極めることは夢物語ではない。だがそれよりも、自分自身の山を一人一人が創造する時代に入ったといえるのではないだろうか。ささやかでもよい、自分自身の夢を山に見いだすときでは。そのために必要なものは、ただ心に、世の中の普通の人には無駄だと見える、ゆとりを持つだけでいいのである。


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震山          77.7m          三等三角点          佐川

 須崎市の横浪三里北岸にある山。高知県の質量重心点はこの山の何百メートルか北東側の入り江上にある。シンザン。

横浪三里は波も静かである

 深田久弥は「百のいただきに百のよろこびがある」と言ったが、ほんとうにそのとおり。どんなにつまらなそうにみえる山にも、いつも何らかのよいところが見出せる。この山には「花」と、春のような暖かさがあった。

 横浪三里に沿った「大島親水公園」から登った。いぜんはもっと大きかったという「大島」は、今ではそうは呼べないほどの、入り江をバックにした小さな突起になっている。
 一段高い別荘地の奥まで上がり、そこから、公園といったらいいのだろうか、サクラやウメなどの花木と、キンカンやもっと大きな柑橘類のなる果樹が、まばらに植えられた斜面を登った。花類はサクラ、ウメのみでなく、地表にはキズイセンやスミレまで花盛り。途中のテーブルとベンチで、花々や横浪三里の風景を眺めながら食事をとり、おだやかな一足早い春をたのしむ。ミカン園をへてふたたび入った山中にはツバキの高木が多く、こんどはそれらの花の出迎えを受けた。べつに花をもとめて山行脚をしているのではないが、偶然出あう花々との出合いはやはりうれしいものだ。
 三角点をたずねてから、登り口まで下り、「大島」のほうに出てみる。子供ずれが何組か、水辺の小さな景勝地で遊んだりくつろいだりしていた。人はだれでも、子供のころの、親や自然とのこのようなささやかなふれ合いの幸せを、大人になっても、いくつになってもふと思い出すものである。

 
「ぼくは究極的に、考えるのをやめることのできる地点に到達したのだ。薄ぼんやりとかすむ地平線、空に走る薄い線、こういったものすべてが言葉の彼方にあった。ぼくの知性では、このときの感情をうまく表わすことができなかった。ただそこに腰を下ろして、感情に自分を溶け込ませるだけだった。なんの疑いもなく、何もかもすぐにわかった。ぼくは地平線上に漂うあの薄明りの中に、永遠に姿を消してしまいたかったのだ。」

ラインホルト・メスナー『ナンガ・パルバート単独行』 何も言えない


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蟠蛇森         769.3m         一等三角点         佐川

須崎市、佐川町、葉山村の交点にある山である。バンダガモリ、バンダモリ。

今ではこの風景も見られないかもしれない

 蟠蛇の蟠という字の訓読みは「わだかまる」と読み、蛇などがとぐろをまくという意味もある。恐ろしげな名前だが、とぐろを巻いている蛇はほとんど円錐形で安定性がよさそうである。たしかに、遠くからのぞむ同山の姿はどっしりといすわって安定感がある。まさに蟠踞しているという言葉にふさわしい。そしてまた名を読んだときの語呂もよく、印象的で、いちど聞いたらずっと記憶のなかにありそうな名前である。山名で注目をひき、視覚的にも目だつ山である。この山の北の鞍部を「朽ち木越え」の古い街道がとおっており、古くから昭和の初期頃まで有名無名のおおくの人がその道を利用していた。
 一等三角点は公園の西の端といえるほどはずれに、ポツンとさびしげにあった。
 頂上ちかくまで車を利用できる。パラポラアンテナなどが数基と、アセビなどが目だつ公園中央には、鉄製の高い展望台が立っていた。そのうえに登ると、須崎港や、平野部に島々のように小山がもりあがっている風景など、思わず「絶景かな、絶景かな」と、声をはなちそうなほどすばらしかった。

 
「マッターホルンが「山の中の山」と呼ばれるなら、アイガー北壁は「壁の中の壁」と言えよう。」           

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』


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川山        162.4m         三等三角点        佐川

 須崎市の多郷地区と吾井郷地区の間にはさまれた山である。北側に鯛川という集落がみえる。タイノカワヤマ。

ようやく三角点にたどりついた

 鯛
川山は地形図「佐川」の下辺から2cm足らずのところに見えている。登山の日、私はその下の「須崎」を持ってきていなかった。「須崎」の上辺近くには登山口の多郷小学校が記されているはずであるが、それが手元にないのでルートを特定できず、たぶんこうだろうとエンピツで予想線を引いてから気楽に出発した。こんなに低い山である。

 主稜線に出て西にむかう。惑わすように尾根は地図どおりにカーブしていてすぐには間違いに気づかない。ようやくついたと思ったらそこはシダばかりで標石はなかった。先まで行っても同じで、とても2年前に改測が行われたばか りとは思われない。あきらめて引きかえし、尾根からの下降点までかえり、もしもとその先まで行ってみることにした。あった! 何分もたたないうちに見つかったのである。いままでの苦労がウソのようにあっさりと。三角点は土とすこしのシダの広場に頭の欠けた姿で佇んでいた。さきほどの間違いピークからは蟠蛇森がよく見えたが、ここからは虚空蔵山だった。ホッと安心する。見つからずに帰っていたら、その日一日浮かない気分がつづいたことだろう。
 山歩きはこんなことの連続である。だからおもしろい。どんなにきれいな道があって、しっかり道標のある山であっても、迷うときにはやっぱり迷ってしまうもの。自然を相手にする者の宿命ともいえる。

 
「われわれはただ自由に、根深く自然というものに奥深く食い入って自然と親しむということを生活の一必要条件にまでしたいのであります。銅のやかんは水をすぐ沸かしますが、またすぐさめてしまいます。一時の流行にかられてドッと沸騰させたくないのです。おのおのが自由に自然を観賞し、互いに語り合い、筆で発表し合って連絡をとりながら、清らかな山ぶところに抱かれたいのであります。」

松井幹雄『霧の旅』 霧の旅会創立のことども

 
松井幹雄(まついみきお 1897-1933)の「霧の旅の会」は、その当時に生きていなかった者としては想像の域をでないが、登山という人間の行う行為をポピュラーにする大きな役割を果したようである。その部分は下の斎藤氏の文章を読んでいただければよく分かると思う。彼は昭和8年、36歳で腸捻転のため急逝した。彼がさらに長く生きておれば、登山の大衆化はよりスピードを速めたのであろうか。『霧の旅』は遺稿集である。

 
「小島烏水氏はその著書の中で明治三十九年から大正六年あたりまでを「日本アルプスの探検時代」と呼んでいる。「霧の旅会」が誕生した大正八年は、日本の山岳界はその探検時代を脱し、ようやく一般的に登山が親しまれてきたときであるが、後年のように登山が大衆的になるまでにはまだ相当の期間があった(そんな時代である)。当時は登山者の数も少なく、その登山知識もはなはだ低かった。『霧の旅』は登山者からほとんど顧みられなかった低山趣味を提唱し、その普及を計るとともに登山知識の涵養に努めたのである。その感化の大きかったことは当時を知る登山者の認め得るところであろう。」(要約)

松井幹雄『霧の旅』 解説 斎藤一男


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船越山         110.5m         三等三角点         須崎

 須崎市の山。横浪半島付け根にある。動力船のない時代、浦内湾のもっとも奥の端から手漕ぎ舟で外海に出るには時間がかかったことだろう。ところが、この船越三等点西側の鞍部などの標高は、低いところでは30mそこそこ、それに内海と外海との水平距離も500mほどしかない。これとて現在田や平地になっている部分が昔は入り江であったのならもっとずっと短くなる。集落の人手も当時は惜しみなく掛けることができたであろうから、舟はおそらくこれを越して出し入れされていたことと思われる。フナコシヤマ。

岬と海。浜に下りて岬の先まで泳いでゆきたくなる

 この山にはすでに二度来ていた。どこかの山の帰り、気安く「点の記」だけ持って入山して、三角点が見つからず断念。さらにもう一度、ほかの山からの帰途、別のところから入ってまた夕刻、時間切れであきらめた。わずか標高
100mちょいの山にである。海岸の断崖上に似たような高さのコブが並んでいて、そこからそれぞれ尾根がスカイラインのほうに下りている。あたかもそれはいくつかのマトが横並びになっていて、となりのマトを撃つことはゆるされず、目前のマトに文字どおり正鵠を射たときのみ、命中の歓びが与えられるのに似ている。三度目の失敗はできない、狙いをさだめての挑戦であった。

 ちゃんと地形図を持ち、前回と前々回の間の尾根をえらんだ。ヤブもすくなく登りやすい照葉樹の森。前方の断崖の縁があかるくなり希望をもたせる。そして白い国地院の標柱の頭が見えたときには、ようやく着いたなと思った。大きなヤマモモのそばの、疵のない三角点はケモノのつけたドロで汚れている。西側の頂がたぶん前回の到達点であろうと思い、そこまで行ってみると、すこし下の木の枝にわたしの残してあった目印が見えた。

 
「桑瀬越の上で休んでいると一人の老婆が重そうな荷物を背負って道傍の弟切草を摘みながら登って来た。昨日西条まで行っていたのだと云う。その花をどうするかときくと熱さましによく効くと云う。」

『いしづち ―松高登山史―』笹瓶石槌縦走 昭和2122

 
 このことからも、すくなくとも戦後間がないころには、まだ桑瀬峠に伊予側にぬける峠道が残っていたということだろう。


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法院山          280.1m         二等三角点        須崎

須崎市の山である。法院トンネルが地下をとおっている。ホウインヤマ、ホウインザン。

野見湾のきれいな光景が最高

 野見湾は風光明媚なことでむかしから知られていた。その野見湾を俯瞰できる最高の位置に法院山はある。
 国土地理院によると、高知県の質量の重心位置は東経1332200秒、北緯332516秒にあり、そこは浦の内湾の西端あたりである。だとすれば、そこにちかいこの法院山は、いわば高知県のおへそということになるだろうか。
 期待と不安、半々の気持ちで登った。昔の峠道は途中ではっきりしなくなって、尾根に出るまでは斜面をかき上がるようなところもあったが、そこに出てからはかなり踏まれた道があり、上り下りも思っていたほどではなく歩きやすかった。その上海岸ちかくの山にありがちの密林状の森ではなく、比較的すいていてその点でも幸運だった。今回頂上からは期待どおりの眺望がえられた。湾のむこうには中島や戸島がうつくしく浮かび、須崎湾からその西の山々までのぞまれた。
 おとずれたのは3月下旬、野イチゴの花から小さなスミレの群生、山ツツジ、そしてヤブツバキの花。山道には山桜が白い花びらをはかなげに散らしていた。

 
「陽が西に傾きはじめて、山にはようやく陰影が濃くなってきた午後の景色は、とくにわたくしの好きなものだ。朝の光のもとでも、山は静かに落ち着いてあるべきだが、朝の光は登頂欲で張り切っていたから、景色さえが何となく活動的に見えたことであろう。そういえば午後の景色が静観的、瞑想的であるというのは、激しい意欲から開放され、いまは一介の漂泊者となった登山家が、なにものにもとらわれずに率直にうけ入れた、山の印象といえないだろうか。静観的、瞑想的なのが、山そのものではないだろうか。ただし早朝からの活動がもたらした快い程度の疲労感が、この印象を形づくる際に織りこまれていないとはいいがたい。
 登りと同じ道を下っても、下りは山を楽しめるものである。しかし下りの気分を充分に味わおうと思ったならば、反対側の谷に道を求めるにかぎる。その谷も長いほどよい。一流の谷が選べたらいっそうよい。」    

今西錦司『山と探検』 山を下る


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八坂峰          244.9m         四等三角点        須崎

須崎市の山である。ヤサカミネ。

テレビ局のアンテナがあらわれた

 法院山から縦走した。わるくない山道がつづいている。途中、NTTや高知県のテレビ局などの、アンテナ群の立っている261mの頂を通過した。ここまで押岡から車道がきている。各アンテナを通過するたびに方角が一瞬わからなくなるので、そのたびに確認しながら進んだ。急下降して、峠の十字路をこえていけば八坂峰の頂上はちかい。縦走路から右にはずれてひとふんばりすれば到着である。
 三角点の周辺は航空測量のため木々が切り払われていたが、残念ながら野見湾や須崎港の方角の眺望は、すこし刈りひろげればこれ以上ない展望台になると思うのだが、いまはちらちらと見える程度である。
 下降はアンテナのピーク寄りの峠道からはじめたが、これは失敗だった。途中 から非常に急なヤブをこぐことになった。
 車道をあるく帰途に見た、大谷の部落の須賀神社にある根の周囲16mという大クスノキは一見の価値があった。

 
「単独登山は山登りのうえでの最高の階段である」         

大島亮吉


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城山          228.4m          三等三角点          須崎

 須崎市押岡のセメント工場の北東側にある山である。シロヤマ。

頂上からは須崎湾や市街の一部なども見えていた

 鉄塔管理道にはいって10分もたたないうちに、はや「四国電力押岡支線No7」鉄塔についた。管理道が利用できたのはそこまでである。そこからは急な尾根を登る。板根をがっしりと大地に張り何本にも幹別れしたスダジイなどの大木の間をたどって行った。
 頂上の南東側のピークに出て、いちど下って、さらに狭い尾根を渡っていると、突然目の前が落ちこんでいる。最初は古い峠かと思ったが、それがいくつも連続して眼前にあらわれるに及んで、ようやくそれが堀切であることに気がついた。平坦な頂上広場の手前も深く切れ落ちて、崖状の仕切りになっている。左右が崖のような尾根とあいまって、はっきりとそこが戦国時代の砦であったことが納得された。頂上は案外眺望がひらけている。須崎湾や市街の一部、そ れに法院山から海蔵寺山にかけての山並みが見えていた。眼下には県道を走る車や法院山トンネルの入口などもはっきりと見える。三角点はめちゃめちゃ損傷を受けていた。曇天で肌寒い。ひととおり写真を撮ったり、家に連絡したりしてから下山にかかった。
 帰途、運転席の窓から、畑仕事をしているおばあさんに話しかけ、上の城のことを聞いてみた。城の名は「三本城(みもとじょう)」といい、落城時には城主以下多数の者が切腹して、すぐ下の川は血の色に染まって流れたという。おばあさんも三本姓であった。現在、神田地区にはその姓の家は数戸になったそうだ。明治以後、ほとんどの三本さんは北海道に開拓農家として渡って行ったということであった。

 
 日本アルプスの名付け親は、明治初年に来日し大阪造幣局に勤めた英国人ガウランドであるが、その名を高めたのはウェストンであることに誰も異論はなかろうし、北アルプスと南アルプスという二つの主な山群に分類して呼んだのも彼が最初のようである。


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河原山         178.1m         三等三角点         須崎

 須崎市の野見湾の奥、小浦漁港の東側にある山。いわば小浦山であるはずなのに、「河原」と書いて「こうら」と読ませるのは、なにか理由があるからだろうか。三角点の所在地は「鷲場山」である。北に尾根をつづけて歩けば法院山につく。コウラヤマ。

静かな野見湾にうかぶ筏、船、そして島々

 小浦の集落を抜けて、尾根に取りつくまで、その路地の抜けかたが分かるまでにすこし時間を食ってしまった。それからは手間取ることはない。尾根にはいってしまえば、こちらのものである。照葉樹林のなかでおおむね迷うこともなかった。登りつめた先がきゅうに明るくなって、その下のシダヤブが盛り上がって見える。突入すると、まもなく赤白ポールの先端がヤブのむこうに見えたが、密生したシダの圧力で、すぐにそこまで行くことはできなかった。三角点の十字の中心に赤白ポールは
4本の針金にひかえられて立っていた。平成15年末に改測されているのだ。

 ヤブで狭くなった三角点広場で昼食をとった。真冬とは思えない気候である。春のような埃っぽさにくしゃみと鼻水が出て仕方がなかった。西には野見湾の風景が見える。嫋々と重なりつらなる山々だけもいいが、海と山の、緑と青、それに空の色の取り合わせはとりわけいいと思う。湾の反対側に戸島が見えているが、あそこにも三等三角点がある。しかし、中島との間を、船で渡るか、泳ぐかしないとそこまで行くことはできない。

 
「「よくやってくれたな」
 岳彦はふかふかした靴下に包まれた両足を撫でながら言った。八ヶ岳で遭難して、茅野市の病院で手術したのは、昭和二十四年一月七日だった。その時は人並に歩くことさえ、むずかしいと言われた。その彼が、その足のない足に登山靴を履いて、次々と初登攀の記録を目ざして挑戦して行った。その執念の原点はいったいなんであったのだろう。ほんとうに山が好きだったのだろうか。終戦と同時に将来の希望を失った当時の多くの青年のように、岩壁に登ることに生き甲斐を見出そうとしたのであろうか。山以外に人生はないと考えることによって自分を誤魔化そうとしていたのであろうか。彼は考え続ける。答えは出なかったが、はっきりと彼自身に言えることは、もしあの茅野市のうら淋しい病院の手術室で、足を切断しなかったならば、おそらく彼は別な道を歩いていただろうということだった。多くの山好きな青年が結婚すると同時に山を止めた。もしあのことがなかったら、彼もまた適当な時期に山とは縁を切っていたであろう。
(自分が山と縁を切れなかったのはこの足のない足があるからなんだ)
 岳彦は昭和二十四年一月七日の記念すべき日からの年月を数えた。十六年の歳月が流れていた。」                    

 新田次郎『栄光の岩壁』

 
 新田次郎は日本人として初めてマッターホルンの北壁を完登した実在の登山家、芳野満彦氏をモデルにして、小説『栄光の岩壁』を書き上げた。それはヨーロッパアルプスの三大北壁が日本人の手にはじめて落ちた瞬間でもあった。


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水谷山          315m         三角点はない        須崎

須崎市と中土佐町の境界にある山である。ミズタニヤマ。

谷の水につかるダン

 この山には2回登った。いや正確には一度目はそこを水谷山の頂と知らずに通過していた。そのときにはもうすこし東の小さな頂をそれと思っていたのだ。何年かのち、2度目にこの山の西600mほどのところにある三角点、大峰川山に登ったときその位置との関係でようやく水谷山の頂上がこのあたりであるということを確認できたのである。
 国道56号線が須崎市の安和から焼坂にかかるころ、トンネルの上方左手に見えている。むかし、下の部落が、そこの谷から水をとっていた山かもしれない。谷のほうから何本か森林組合のつくった遊歩道(と地元の人は言うが、遊歩と言うにはすこし無理なほどのキャタピラ道である)が登っているが、尾根にいたるまでの道の急だったこと。寒い季節に汗を流しながら登らなければならなかった。
 頂上には三角点はなく、そのうえ、周囲にそこより高い地点がないというわけではないので大変わかりづらい。
 ようやくついた水谷山の頂と思われるところは植林と広葉樹林混交のすこしヤブ気味のところだった。安和の方からあがってくる尾根と市町境のまじわるところで、そのように三叉に踏み跡がわかれていた。しかし薄暗いばかりで、展望はそこからはひらけようがなかった。

 
「これが最後の氷の宿りとはならぬだろう。おそらく、もっと悪いことが、あとにつづくだろう。だが、それがどうしたというのだ 苦痛という苛責ない手から、ぼくらの魂の土壌へ、若い種が蒔かれたのだ。氷片のひとうひとつが、ぼくらの想い出の空にまかれて銀色の星となる。こうしていつかある朝、万年雪の上で、ぼくらの体は固く凍りついて横たわっているだろう。それでも、高みへゆく道のなかばで死ぬ方が、下界の街の埃にまみれて死ぬよりはましなのだ」   

オスカール・エーリヒ・マイエル 『行為と夢想』


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角谷山         329.0m         三等三角点         須崎

須崎市の山。カドヤヤマ。

道の駅「かわうその里」からの角谷山

 道の駅「かわうその里」の南西の方角に見える重量感を感じさせる山である。頂上部はそこから左上方に見えている。国道56号線沿いに角谷という部落がある。その部落名からきた山名であろう。
 頂上の三角点はヤブにかくされて、いちどは通り過ぎたほどだった。引きかえして丹念にさがすと、シダや小喬木の下から、頭部のかけたそれを見つけだした。宝物を見つけたようにうれしかった。南側は自然林、北側はヒノキの植林である。
 展望は、よく見れば木々のあいだから海岸線がかすかに見えるくらいで、ほとんどないといってもいい。送電線の管理道を登ってくる途中、鉄塔の下から蟠蛇森が見えたくらいである。
 期待していた、鳥形山から石灰石を運んでくるベルトコンベヤーを見ることは、施設が地下にもぐってしまい、残念ながらできなかった。

 
「あるものは、幾度か生死の境を出入した、そして彼等の心を理解し得ぬ人々の嘲笑に対して、無関心に、何等の弁明をしようとする気にすらならずに、一向に彼等の信念に基づいて行動した、登山の利益とか、弊害とか云うことは、彼等に対しては何等の意味をなさなかったのだ、利益を求めんが為めに、自然を相手とするには彼等は余りに正直すぎた、危険を恐るるが故に、山岳から遠かることは彼等の胸が承知しなかった。当然来るべき危険なら逃げたって仕方がないと思った。肉体上の苦痛の為めに思い切れる程度の決心ではなかった、どうせ死ぬのなら山の中で死に度いと願った、馬鹿と笑われても仕方がない、自分達でさえ利口なことと賞めて貰いたさに登山をしていたのではなかったのだ。
 彼等は人を相手に登山するのではない、従って小屋などが無くとも、決して困りはしなかった、路が無くとも、決して心配はしなかった、むしろ崖を攀じ流れを渉って苦しんで苦しんでやっと幾日の後に、志す山に近づくのを楽しみとした、云いかえれば登山に伴う苦痛すら忘れ得ぬ喜びであったのだ、登山そのものが終局の目的であった、雲もない山嶺に立てればこれに越した喜びは無い、然し雲霧の間に登ってすら言い知れぬ嬉しさに彼等の胸はふるえたのだ。
 昔これ等の人達が、夢想したが如く恰も人々が、山岳を理解し始めたかの如く、年を趁うて多数の登山者は現われて来る、然し今の登山は、一つの流行に過ぎない、山をよごすために、山草を根こぎにする為めに、運動をする為めに、登った山の数を自慢するために、そしてあるものは山で食って行くためには登山を宣伝し悪用しているかの観がある。丁度汐に引かれてゆく塵あくたを喰い物にして銀蝿がぶんぶん飛び廻るように。」

辻村伊助『ハイランド』 登山の流行


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海蔵寺山         215m        三角点はない        須崎

須崎市の山。カイゾウジヤマ。

静かな野見湾と外洋

 外洋と須崎湾をへだてて、須崎港を良港としている半島にある山である。
 登っている途中、ずっと海の音と香りにつつまれていた。主尾根にでるとカシやツバキ、ヤマザクラなどの木々をとおして海の色も見える。頂上にはNTTの電波反射板の施設があり、須崎市街や蟠蛇森などが見えるが、それよりも圧巻は野見湾の目をみはるほどの美しい光景である。対岸の水谷山や角谷山などもとてもすばらしくみえる。
 地図上の海蔵寺山と書かれた部分より500mほど西に、三角点の峰があるのだが、それにいたる尾根は岩まじりのヤセ尾根で、シブリもひどくらくではないのだが、行ってみる価値はありそうだった。せまい四等三角点のピーク(「向山」173.8m)からはなにも見えないが、途中の植生は案外雰囲気がよく、ところどころでひらける展望は流す汗をおぎなって余りあるものであった。

 
「登山隊というものは、素晴らしいものである。それは「英雄」たちによって構成されているのではなく、ほとんど不可能と思われることを成し遂げようと試みる、普通の人間からなっているからである。登山遠征隊は、人間の運命に対する人間の挑戦、ドラマチックなデモンストレーションである。」    

ニコラス・クリンチ 『ヒドンピーク初登頂』


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須崎城山         143.1m        三等三角点        須崎

須崎市の山である。スサキジョウヤマ。

海蔵寺山よりの須崎城山と須崎市街

 名のとおり、戦国時代ごろまで須崎城という城があり、のちに自決をする長宗我部元親の三男で、津野氏に養子にはいった津野親忠(ちかただ)のまもった時期もあったようである。
 旧市街地に最も近い山なので、全山公園化されているのではないかと思って登った。しかしその考えははずれた。南東側に、公園らしきものもあるにはあったが、申しわけ程度で、石鎚神社から上はあまり手入れもされてなく、登山道には朽ち木がたおれ、落ち葉があつく積もっていた。
 三角点の周辺も喬木のあいだに笹などもはえて放置され、なにも見えなかった。頂上部は平坦で木々がそだつ以前には、すばらしい眺望があったように思われる。戦時中、軍の施設があったそうで、コンクリートの建造物のあとも残っていた。

 
「自然界と人間社会という対照は、とりもなおさず、幸福と不幸といった対照と同じもののように感じられた。それで、ぼくは熱に浮かされたように夢中になって山に向かったのだった。」             

ワルテル・ボナッティ『わが山々へ』


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寺ヶ谷山        306.7m        三等三角点         須崎

 須崎市の中心市街より西北西3.5kmほどのところに三角点の埋設されている山である。テラガヤヤマ。

清楚なヤマツツジが花盛りであった

 新荘川のほとりから天神さまの石段をあがる。境内の手水鉢には明治十一年と彫られていた。これが奉納されたころにはまだ新荘川にはカワウソが元気に泳ぎまわっていたことであろう。手水鉢の左手から山に入る。そこから頂上まで、最初のうちには山道が、上の方では踏み跡をなんとか辿ることができたが、それなりのアルバイトを強いられるものだった。なにごとも楽しいだけとはいかない。

 2月というのに、はやいっぱいに花を咲かせたツツジがあった。いや、あったどころではなく、日当りのいい尾根はさながら花の回廊になっていた。うす紫の、地味といってもよい小さな花びらの樹種であったが、それらとの遭遇は心をうれしくさせた。わざわざ花の満開を求めて山に登るようなことはしない。誰もいない山道で偶然、露をかぶって楚々と咲く、楽しいだけではない人生や不可思議な宇宙のことなどを一瞬ちらりと連想させる可憐な花に出あったときこそ、そのときこそ、求めて行って眺めた花とくらべて何万倍もうつくしくなつかしく感じられる。
 雑木林の頂上はひろく平坦で、ゆっくりできるところだった。欠けまくった三角点のまわりには何年か前のGPS測量のなごりの木杭の頭が見えている。記念写真をとってから、そばで昼食。南東側のヒノキのあいだから、須崎港や野見湾などがその先にあることはわかるのだが、それがはっきりした風景にならないことがもどかしかった。

 
「「深田さん。その日もこんなに美しい富士があなたを見まもっていたのでしょうか」
 ふと、深田さんが、自分の前にいるように、語りかけた。深田さんの死の瞬間のまぶたにどんな山の姿があったろうか。深田さんの、その場所からは、深田さんが、『日本百名山』にあげた山の幾つかが見える。金峰山、両神山、甲武信岳、大菩薩嶺、雲取山、瑞牆山、富士山、丹沢山、天城山など。深田さんはやっぱりもっとも仕合わせな死に場所を得たのかもしれないと思った。」 

田中澄江『沈黙の山』 甲斐

 
 深田久弥は昭和46321日、茅岳に登山中急死する。その地に立った田中さんが、感慨深く述べた部分である。私もこの茅岳に今年登ってきた。登山道の急坂の途中にちいさな墓標のような石碑があって、お賽銭のつもりであろうか小銭が小山になっていた。


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大峰川山         355.2m        二等三角点        須崎

中土佐町の山である。オオミネガワヤマ。

須崎湾の沖には貨物船が何隻か停泊していた

 以前、水谷山に登った際この山の近くまで歩を進めたことがある。多分そのすぐ先に三角点の峰があるとわかっていれば、そこまで行ってみた事であろう。そうしなかった理由は私の持っている昭和48年修正測量の地形図「須崎」に、遅くとも大正時代頃までには埋設されているはずのこの大峰川山の二等三角点が示されていなかったからである。現在市販されている平成2年修正測量版にはちゃんと載っている。そういえばどこの山だったか、途中思わぬところで地形図にない三等点に出あったものだった。四等三角点は毎年毎年増加しているのだから別の話である。
 南地区奥の林道から登った。どうも三角点のない水谷山の位置を実際より東にみていたようで、大峰川山までの距離がやたら遠く感じられた。頂上は照葉樹林のゆったりした広場だった。最近、航空測量をしたようで青空が大きくのぞいている。木々の間からは周りの景色が見えるようで見えない。南側には海のブルーは見えているのである。はっきりと大きく見えないのがもどかしい。
 帰路は水谷山からさらに尾根を進み、「安和」四等点88.9mをへて、安和海岸に出ることにした。快適な尾根道を下る。照葉樹や竹林の道である。四等三角点に近づく頃になってようやく胸のすく光景を見た。須崎湾から野見湾、さらに外海に浮かぶ島々にかけての、まさしく一級の展望であった。静かな海面に、貨物船が数杯浮かんでいた。

 
「道のありがたみを知る者は、道のないところを歩いたことがある者だけだ」

大島亮吉


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伊吹山         1502.8m        三等三角点        瓶ヶ森

愛媛県西条市と本川村の境にある石鎚山系の山である。イブキヤマ。

低い笹原のむこうに筒上山、それに向かう一本の縦走路

 林道からすぐのところにあり、縦走中などであれば思わず通り過ぎてしまいそうな山である。山荘しらさから20分ほどで頂上の三角点まで行くことができる。
 展望はすばらしく、石鎚山は言うに及ばず、その周辺の同山系の山をことごとく望むことができるのではないかと思われるほどである。
 滋賀と岐阜の県境に、日本百名山の一つに数えられている同名の伊吹山がある。標高も20mほどの違いでほとんど同じ、そのうえ山容も似ているところがあるのだ。両山とも山頂付近がフラットな台地状になっており、三角点がどこか、少し探さなければならなかったところもまた同じである。四国の伊吹山が、かの山ほど薬草などの植物が豊富かどうかなどまでは知らないが、低い笹原など似ているところが確かにあると思うのである。
 はたして命名者はどういう気持ちだったのであろうか。

 
「ウヰムパー自身は『マッターホーンの征服』の文中に書いてゐる。
 ――想ひ起せ。その時七人の伊太利人は、既に七月十一日ブルイユを出發してゐた。しかもそれは四日も前のことである。そして吾々は彼等がより先きに頂上に達するであらうと懸念して悩み苦しんだ。登る途すがらも堪えず彼の一行について語つた。そして幾度となく『頂上に人あり』といふ恐怖の疑念に襲はれた。高く攀ぢるにつけて昂奮の度も加はつた。最後の瞬間においてそれが敗北であつたら何とすべきか。スロープが緩くなつて來た。遂に吾々は離れ離れに行動することが出來た。クロッツと私は突進した。そして二人は殆んど肩を並べ、同時にゴールに入つた。午後一時四十分、世界は脚下に在つた。マッターホーンは征服された。萬歳!そこには全然、人の足痕のけはいもなかつた…………と。
 斯くしてマッターホーンの頂(四五〇五メートル)は極められたのであつた。そして『征服の歡び』に轟く胸の高鳴りが未だ醒めない裡に、勝利は忽ち大なる悲劇と變じ、ハドーが足を滑らしたため七人の一行中四人が墜落して命を失つた。」

藤木九三 『雪・岩・アルプス』 MATTERHORN


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自念子       1701.5m       三等三角点        瓶ヶ森

愛媛県西条市と本川村の境の山、と言うか小ピークである。本川郷風土記に、昔笹に実がなったので、それより自然子高森と呼んだとある(「此所之笹ニ昔実なしたる時代御座候由、夫乃じねんご高森と申伝候由」)。俗名中黒森とも言う。ジネンゴノカシラ。

子持権現山のむこうに石鎚山が…

 以前、家族で石鎚山系の縦走をしたときには、この山は悪天候のため登らずに通り過ぎてしまっていた。しばらくして、高知県県境の山をできるだけ多く登るという、当時の目標の1ターゲットとしてこの山に向かったのだった。
 それにしても自念子の頭とはどういう意味だろう。自然薯ならばヤマイモだが、自念子とは。自然秔と書いて「じねんご」と読み、こちらは笹の実などの意味があるそうだが、これだとある程度雰囲気が出ている。意味ははっきりしないものの少し滑稽味を帯びていて味わい深い。縦走路から登ればすぐに三角点に着く。あまりここまで登って来る人もいないのか周囲はほとんど踏み広げられていなかった。
 低い笹が茂り、木製の標識がなければ、三角点をすぐには見つけられなかったかもしれない。そこからは文句なしの大展望が広がっている。訪れた人はまさに四国アルプスの真っ只中にいるのだということをすぐに認識することだろう。


 自念子越えの耳塚=藩政時代(1640年頃)、この辺り一帯は藩直轄の「お留山」であり、良林であったので、伊予側から国境を越えてやってくる森林盗伐組が跡を絶たず、よって盗人を捕えると耳をそぎ、墓をつくって埋めたといわれる。その跡を耳塚又は、耳墓と呼んでいる。

「本川郷の山々」 自念子ノ頭1,701

「耳墓壱ヶ所、此所ハ在所乃壱里余北ニ当予州境也。則予州ヘ往来仕候道端ニ右之耳墓有、先年予州乃木盗人大勢入来御山を伐荒申ニ付一々搦捕耳をそき墓ニ築埋め置申也。夫乃耳墓と申伝候、時代は野中伝右衛門殿御仕置之時代ニ而御座候由申伝候。」

『土佐郡本川郷風土記』 寺川村


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東黒森        1735m        三角点はない         瓶ヶ森

愛媛県西条市と本川村の境界にある山である。ヒガシクロモリ。

前後の写真であるが、どこからどの方向を撮ったものか

 県境の伊予富士の西側に位置する。
 下の子のアルバムに一枚の写真がある。東黒森の頂上での家族写真だが、この山に関してどうも詳細な記憶がない。瓶ヶ森から伊予富士まで縦走した際の写真なのだが、数あるピークのうちの一つとして、どうも軽々とした気持ちで頂上に立ち、軽々と通り過ぎてしまったようなのだ。写真には瓶ヶ森から石鎚山の方向の山々がバックに写っている。西の方角の展望は申し分ないようである。もっともこの辺りの県境の山は、どの山でも眺望に文句は付けようもないのだが。


「私、いつでも、土小屋へ着くと、小屋の前の広場にリユツクを投げ出しておいて、いつさんに、水場に駈つて行つて、戸樋に口をあてゝ思う存分この四国一の水を貪り飲むのである。
 私、また、この土小屋へ来ると、こゝの小屋など何にも無くて、自然の熊笹原だけであれば良いのに。そして、こゝえ私だちだけでキヤンプをして、この水を汲んですいさんしたら、どんなにいゝだろうと、いつも思う。勝手な話で、ここに小屋がなかつたら大変だが、私の心の中に描く想像だから、描くだけはゆるしていたゞきたい。」

北川淳一郎箸 『愛媛の山岳』 愛媛の山水


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上瀬戸山        1538.1m       四等三角点        瓶ヶ森

本川村の県境近くの山である。この山から尾根を北に向かえば東黒森に至り、東に伝えば長沢山に達することができる。点名は「鎌藪」である。カミセトヤマ。

5月の山は感動的に美しかった

 とにかく淡い新緑の緑と、各種のツツジやシャクナゲなどの花々の色にあふれていた。喜びに満ちた、山も青春の季節。登り始めて頂上に着くまで、日頃山行の途中必ずといっていいほど見る桧や杉の植林をまったく見ない。ヒノキが見えても、それは造林したものではなく自然に生じて今はもう相当の大きさに生育したものだった。その他、ブナをはじめモミ、ヒメシャラ、ミズナラ、リョウブなどの大きな木が、低い笹原の、ときには大岩もまじえる尾根上に数多く育ち、若葉や花々の色、小鳥の声などもあいまって、そこを行く私たちの琴線に触れてきた。
 頂上の三角点は狭くて急な頂に窮屈そうに埋設されていた。周りは背の低い喬木。そこもツツジが満開で色を添えている。もし晴天であれば、石鎚山系の山々もそれらの間から望まれたことだろう。よく山頂で見かける白いプラスチックの記念プレートがここでも無造作にわきに投げ捨てられており、いつものよう に小喬木の枝に掛けなおしてやった。しかし何故、人がささやかな喜びとともに残したものを理不尽に破棄したりができるのだろう。気に入らなければ無視すればいいだけではないか。自然保護というのであれば、その人はもう山へなど行かない方がいい。究極的に考えれば、人間が人山すること自体がもっとも自然にダメージを与えている行為であることに気がつかないのであろうか。
 曇天の空の下、雨を気にかけながらの昼食をとり、下山にかかった。そこから2kmほど東にある三等点の「鎌谷」1435.2mに寄ってから下山した。周囲は伐採跡の二次林で、小喬木や笹のヤブに包まれようとしていた。

 
「初登頂の山頂に置かれたイワシの缶詰などは別として、先蹤者の痕跡を見つけ出すことは、いつも楽しいことだった。しかし、現在のように登山隊の数が多いと、そのような趣味は受け入れられないだろう。古い遺物と現在のゴミとの違いは、その量である。」

ニコラス・クリンチ 『ヒドンピーク初登頂』


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岩茸山         1255.1m         三等三角点        瓶ヶ森

本川村寺川集落の上の山で、吉野川最奥の源流の一つとされている白猪谷はこの山の西側にある。イワタケヤマ。

県道40号線より見る岩茸山

 土佐藩の最重要な財源であるヒノキやスギなどの山岳資源は、しばしば隣藩(ここ本川村の場合は伊予藩の松山領や西条領)からの盗伐の被害にさらされた。夜な夜な灯りをともして、日中に目星をつけた木を伐り倒し、朝までにそれを厚板に挽いて運び出すのだという。盗伐者たちも命がけである。捕らえられれば耳をそがれるか、悪くすれば鉄砲で撃ち殺されてしまう。藩はそれら資源を守るための役人を現地に送り、随所に番所を置いて取り締まろうとしたのである。そのような山廻り役の一人として藩政時代中頃、寺川に赴任した春木次郎八繁則は、一年間ここに駐在する間に見聞した山村での暮らしや風習のことなどを書簡形式で書きのこした。手箱山の氷室やさきに述べた盗伐のことなども、この書によって現在に伝えられている。『寺川郷談』と呼ばれるものである。「四国第一の深山幽谷なり、昔は土佐にあらず、伊予へもつかず、川水はことごとく阿州に流るといえども、阿波えも属せず」とこの寺川周辺の山深さを巧みに表現している。
 存外に急坂である。いやそれは地形図を見てもわかるところだ。ころげ落ちそうな斜面に、帰途が気にかかるところもあった。途中の分岐を見おとしてしまい、危ないトラバース道を奥へと進んでしまった。適当と思える尾根を辿りはじめたのだが、それが山名通りの岩茸でも生えていそうな岩尾根。ゆっくりと安全を確認しながら登って行く。やがてスズタケのまじる広い植林帯になって、そのうち集約されてはっきりした尾根になり、さらに急なヤセ尾根に変わっていった。ここと思って登ってみれば、頂上はもっと先だったということが何回かつづき、登りはじめて1時間30分ちかくになって、ようやく植林の中の頂に、おおきな三等三角点の石柱を見つけた。
 南側は照葉樹の新緑が逆光であかるく美しい。標石の周りにまばらに生えているスズタケを刈りひろげ、近くで昼食をとった。帰るころになって北側の木々の間に子持権現山と瓶ヶ森を見つけた。まん丸い頂と、それよりも尖がった頂ですぐにそれと判断できた。


「「四国三郎」の名で知られる四国第一の吉野川(長さ一九四キロ)の源流は、本川村の瓶ヶ森に発し白猪谷となり(この地域では「大川」または本川村の名の由来である「本川」といった)手箱山、筒上山から名野川が合流して東に向い、大森川が長沢で、また桑瀬川、中野川を合わせた葛原川は日ノ浦で本流と合し、高藪から大川村へ入る。」

本川村史」 自然 第一章 位置、地質、地形


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伊留谷山        1132.0m        三等三角点       筒上山

 本川村の長沢貯水池と大森川貯水池にはさまれた位置にある山である。点名は「入谷」。イルダニヤマ。

三角点に到着

 峠について準備をすまし、最初は痩せてせまい尾根をたどる。そのうちだんだんと広くなっていったが、上り下りはあいかわらずある。隙間に、相当おおきな木の生じた大岩の横などを伝った。踏み跡はしっかりしているが、一種類どころではないイバラの草木が足に痛い。いったい実はどのくらいの大きさなのだろうと思わせるほど、ほんとうに小さい、直径が、ほんの
34センチほどのクリのイガや、ハカマばかり大きくて小さな実のおさまったドングリなどが落ちているかと思えば、大きなツガや、ブナ、ヒメシャラなどもあって、森もにぎやかである。途中、一九四九、一八八八、と彫刻された、苔むす小さな自然石が立っていた。南側斜面に育つ、ヒノキを植えた年であるようであった。

 地形図で、想像していたとおり、最後の坂は急だった。上の方に、明るい空をバックに疎林が見える。頂上だった。両側は急な崖で、置いたカメラなどをころがしたら大変だと思わせる、そんな頂。三角点にはまったくキズはなくきれいなままである。測量をした際などに一度切られていた植物が、枝を張りなおして伸び、完全なる展望はとざされていたが、それでももし、この植生をのぞけば、すぐれた山の展望台になる可能性を秘めていることはよくわかる。西には奈辺良谷山がひときわ高く、雲に頂上部を埋もれさせていた。ダムが見え、ダムサイトも見えたが、方角からして、長沢ダムではなく大森川ダムであるようであった。せまい頂上で今日も昼食。寒いには寒かったが、ときどき日も射して、上着を着たり、マフラーをまいたりする必要まではなかった。

 
「賢明なアルピニストにして、馬車を通じる路のあるところで馬車を利用せぬものはあり得ぬ」                         

ギド・レイ


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東黒滝山        1171.6m       二等三角点        筒上山

本川村と吾北村の境界にある山である。ヒガシクロタキヤマ。

清冽な空気の気持ちいい日だった

 山を歩くとき、霧の日など風情があっていいものである。晴れた日も勿論いいが、豪雨でもなければ雨の中を黙々と歩みをすすめるのも、インナー・スペースにこもることができてすばらしい。山の鳴る風の日もいいし、雲の速く流れるのを見るのもいい。雪の舞う風景はこれもまた捨てがたい。今回のように、うっすらと積雪が地表を覆い、雑多なものを消し去って、遠くには県境などの、より標高の高い山々がまったくの雪山になっているのを見るのもまた楽しい。
 すぐ下を林道が走っている場合、その稜線はヤブ化していることが多い。そんな尾根を押し開きながら歩く。自然林が残され、なかにはブナなどの大木も見える。切り立った崖の上からは南に向けて眺望が広がって、アンテナの山が三 つ見えた。手前右側に望まれるのは黒森山か。奥に見えているのは蟠蛇森と虚空蔵山だろう。その左の方には海が見えていた。
 頂上は切り立ったヤセ尾根の上。雪で足を滑らせないように注意しながら一歩一歩すすんだ。ヒノキやモミ、マキなどの自然木に囲まれて感じはいい。風はないがいささか寒くて、弁当を包んでいた黒いタオルをマフラーがわりにして昼食をとった。

 
「西海勇次郎は、二日間の研究結果を、三日目の行軍に直ちに役立てようとする徳島大尉の指導力に敬意を払った。この指揮官はただの指揮官ではないなと思った。この指揮官ならば、部下は心配せずに従いて行けるだろうと思った。」

新田次郎『八甲田山死の彷徨』

 
 明治35年、対ロシア戦を想定した陸軍は寒中訓練を1月下旬の八甲田山中に求め、折からの記録的寒波により、199名の死者を出すという凄惨な結果におわった。この時、青森五連隊は210名のうち上記の死者以外の生存者もほとんどが不具者になるという壊滅状態になったのに対して、弘前三十一連隊側の39名の隊員はほとんど無傷で生還している。
「パーティー山行で起り得る遭難は、そのパーティーを組んだ瞬間に約束されている」と新田次郎氏は『孤高の人』のなかでも述べているが、この八甲田山の大遭難における、青森第五連隊、弘前第三十一連隊の二つの部隊においても、そのパーティを組んだ瞬間に、すでに遭難の可能性のパーセンテージはすでに青森側に圧倒的に高かったと思われる。総員の本格的な雪氷にたいする知識の多寡、指揮系統の統一と不統一、少数精鋭であったか否か、また構成が志願によるものだったかどうか、などである。もし、八甲田山において彼らを襲った暴風雪が未曽有のものでなかったとしても、青森隊の編制では無事にはすまなかったような気がするのである。

 
「神田大尉は空を見上げた。なんと白く濁った空だろうと思った。彼はその白い空の中の濁ったものを全部吸いこんで、それを一気に出発の号令に変えようとした。号令が神田大尉の口から発せられようとしたとき背後から山田少佐の号令が聞えた。
「出発用意
山田少佐の声が大きいのは五聯隊では有名だった。出発用意の一声は、雪中行軍隊の隅々にまで聞えた。叉銃をして休んでいた兵は銃を取って隊列を整え、橇隊員は橇曳航用の綱を持った。彼等は、山田少佐の号令を聞いた一瞬、辻褄の合わないものを感じた。雪中行軍隊は中隊の編成であり指揮官は中隊長神田大尉であった。大隊本部は随行してはいるけれど、直接に大隊長から号令が発せられるとは思いもよらぬことであった。多くの下士卒は、後部から発せられた号令を聞いたとき、隊の先頭のほうへちらっと眼をやった。指揮官の神田大尉はなにをしているのだろうかと思ったのである。
「前へ進め」
の号令が山田少佐の口から発せられると、下士卒等は、なにかの理由で指揮は山田少佐が直接取ることになったのだなと思った。下士卒にして見れば、最高指揮官が誰であっても、彼等にはかかわりのないことであった。
第一小隊長の伊東中尉は、山田少佐の号令を聞いたとき、前にいる神田大尉が息を飲みこんだような顔をしたのを見た。立ちすくんでいるようにも見えた。山田少佐の号令をどう解釈していいか分からないようでもあった。神田大尉がふり返って、伊東中尉に眼で合図した。少しばかり顎を引いたように見えた。伊藤中尉には、神田大尉がいいのだ、やれと言っているように思われた。
「第一小隊前へ進め」
の号令を伊藤中尉は口にした。なにかおかしな気持がした。不安であった。小隊が動き出した。次々と各小隊長が号令を掛け、雪中行軍隊はなにごともなかったように雪の道を進んで行った。」                    

新田次郎『八甲田山死の彷徨』


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越裏門山        1359.1m       三等三角点        筒上山

 本川村の越裏門集落の北にそびえている山である。越裏門は平家、安徳天皇伝説でつとに知られるが、その落人がくる250年ほど前、弥生時代中期にはすでに、狩猟をする山の民が住みついていたという「鷹ノ巣山遺跡」が、この山の山稜で見つかっている。標高1150メートルの場所にあるが、これは弥生時代の遺跡のある場所としては、西日本第一の高さにあり、まわりに人骨などが見つかっていないことから、高知女子大の岡本教授は、これを〝狩人のキャンプ地〟とみなしたそうである。エリモンヤマ、タカノスヤマ。

寒い風がふきぬけていた

 自念子林道の「から瀧トンネル」は、当年最初の寒波による、冷たい強風が吹きぬけていた。あまりにそこが寒いので、車ですこし先まで行き、靴など履いて準備をすませてから登山口のトンネル東口までひきかえす。暖かい季節からの急激な冷え込みは、体も気持も馴れてないので余計にきびしく感じられるのだ。

 登山口からすぐに右に折れ、急な斜面をのぼってようやくルートに乗ったが、2.5万地形図で、アップダウンもすくなくほとんど同じように見える尾根も、10m未満の起伏の振幅周期が長ければ平坦で抑揚のない稜線となり、周期が短ければコブ状の突起となって険しい縦走路となる。それを回避するためのトラバース道なのだが、荒れて狭くなっているうえ、落葉で路面がかくされていることもあり、神経を使い、足元もつかれた。しばらくして斜面の笹のあいだを尾根まで出て、すこし行ってひと登りしたところが三角点の頂だった。南西側の奈辺良谷山がもっともよく見え、その右のほうに手箱や筒上山が、そして反対側には、林道自念子線のうえに上瀬戸山や鎌谷山などがのぞまれる。風が強く、山がうなり、木々は幹ともども根もとまで揺れ動いている感じだった。
 頬がしびれるように冷たく、体が寒さでかたくなってきていた。風よ吹くがいい。山よ、思うざま荒れるがいい。私たちは甘んじてそれを受けよう。冬の厳しさも、夏の汗と同じく、われわれの歓びのひとつである。

 
「旅の修行は、歩行すること、健脚なること、又は健脚を以て許されない人でも、忍耐して牛歩すること等で、程度の相差こそあれ、心身を労して行くところに「楽在其中」である。」            

小島烏水「心を鍛へる草鞋の旅」


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奈辺良谷山       1433.2m       三等三角点       筒上山

本川村の山である。国土地理院の地形図には名前は記されていないが、私の持っている古い昭文社の「山と高原地図」には山名が見える。点名は「巻尾山」である。この山から西に尾根を伝うと手箱山から筒上山に至る。ナベラダニヤマ。

三角点は笹のなかにあった

 手箱林道。昭和63年から平成3年頃にかけて森林管理署の手によって作られたものだが、10年を経ずしてすでに草木が路面上に茂りはじめ、上の方ではところどころ崩壊して早くも車の通行できる道ではなくなっている。歩いていると雌雄のヤマドリが羽根音高く飛び立った。そういえば半月ほど前に猟期もはじまったばかりである。
 その林道の奥詰から頂上は距離的には遠くはない。1km強といったところだろうか。しかし山道としてはないに等しい。点線の道が主稜線上の峠を越えて地形図に描かれているが、その端緒すら簡単に見つけるのは難しいだろう。急な斜面を、笹を手でつかみながら登り、尾根に出てからはスズタケを分けながら徐々に高度を上げていった。背後には手箱山が、そして左手には瓶ヶ森や西黒森などの県境の山が落葉した木々の間から見えている。
 頂上も広葉樹林の中の笹原。しかしそれらの丈は低く、昼食時、座っていても歩いているときと同じように、こずえ越しに周りの山々が望まれた。それにしてもコンパス250度に見えていたのは本当に椿山だったのだろうか。あの山がこれほどはっきりした頂を持つように見える方角があることは驚きであった。以前、椿山の頂上で過ごした数十分間のことが思い出された。

 
「ここに述べる物語は、一九五三年五月二十九日に、ともに豊かな精力と卓越した技能とに恵まれ、ひるまない決意に燃えた二人の男が、如何にしてエヴェレストの頂上を極め、無事にその仲間のなかへ戻って来たかを物語るものである。
 しかし、ここに述べるものだけが全部の物語ではない。何故というに、エヴェレスト登頂は、一日になるものではなく、またわれわれが準備を整え、そしてついに登つたあの心労の多かった、忘れられない数週間だけの所産でもないからである。これは、誠に、数多い人々の長い年月にわたつての一貫した粘り強さを物語るものである。」

 

 このようにジョン・ハントは『エヴェレスト登頂』を書き始めている。事実、1921年にはじめてこの山に遠征隊が送られて以来(そのほとんどはイギリスの首唱する遠征隊だった)初登頂までに30年以上の年月を要している。この間に人類はこのヒマラヤの筆頭峰に登るためのノウハウを、一歩一歩階段を登るように築き上げていった。そして最後にバトンをうけたニュージーランドの養蜂家エドムンド・ヒラリーとネパールのソラ・クーンプを家郷とするシェルパ、テンジン・ノルゲイとによって、1953529日エヴェレストはようやくきわめられたのである。最終章でハントはこう締めくくった。

 

「そして、われわれは、なお多くの巨峰が戦を挑んでいることを無視するわけにはいかない。マロリーの言葉を借りていえば、エヴェレストにほとんど匹敵するような山々が、まだ『そこに』ある。その山々がわれわれを招くのだ。そしてわれわれは、それらの挑戦をうけてたつまでは、休むことはできない。
 さらに、われわれの周囲には、なお数多くのアドヴェンチュアが求められるであろう。山でも、空でも、海上でも、地球の内部や大洋の海底でも、はたまた月の世界へ達することでも、それは到るところにあるであろう。そしてどんな高さでも、どんな深さでも、より高き聖霊にみちびかれた人間の精神ならば、きっと到達することが出来るに違いない。」

 
かつて世界に冠し、その勢いをかって、ヨーロッパ・アルプスのほとんどの頂に最初に足跡をしるした勇敢なるジョン・ブルたちの、たびかさなる面目躍如といったところであろうか。


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北浦山         1148.7m        三等三角点        筒上山

 本川村と池川町の境界にある山。北には大森川、南には安井渓谷、そして3kmほど南には宝来山がある。キタウラヤマ。

三角点は笹と落ち葉にかくされようとしていた

 昭和
26年ごろに、この山の頂に達するには、長沢から森林トロッコで3時間ほどゆられ、殿小屋事業所というところから、西南に山道を4kmほど歩くと、若山集落への峠につき、そこから尾根を150m北西に辿るとようやく三角点に着くことができる、と現行の「点の記」に見える。これでいくと、旅程は5時間近くかかっていたようである。

 現在ではどうだろう。トロッコは昭和54年ごろに廃止されてすでにないから、車を利用することになる。国道194号線から、旧大森トンネルの方にはいり、悪路の奥南川林道に乗って、大森川ダムのそばを通り、さらに10km。合計20kmほどノロノロと走って1時間ほどか。地形図で見ると、山の北東側に橋があり、その橋をわたると歩道が若山への峠まであがり、さらに安井渓谷の樫山までくだっている。だが行ってみると、その吊り橋は、ワイヤーだけ両岸をむすび、橋の木の部分は朽ちてほとんどなくなって、あるものは川面にむかって垂れさがっていた。
 さらに林道をいった先にある「暁橋」、結局そこから登ることにした。できたばかりの作業道で200mばかり高度を稼ぎ、吊り橋があればここへ来ただろうという歩道に出る。さらに若山への峠まで行こうとしたが、トラバース歩道はヤブ化しているところもあれば、崩れて道の消えた部分もあった。そこですこし引きかえし、途中の植林中の斜面を直登して町村境の尾根に出た。そこは冷たい風がすこしは吹きぬけていたが、それまでの薄暗さがウソのように明るい、落葉した1000m超の植生の自然林がひろがっていた。大きな木も見える。いつもながらヒメシャラの木肌はきれいで見惚れる。狭くて急な尾根を、小喬木の枝をはらいながら登ったところの、しぶりの陰に三角点は見つかった。西面は崖になって切れおち、かすんだむこうに、雨ヶ森が、特徴的で只者でない姿をそびえさせていた。
 登り口をさがし出すまでに2時間、橋から頂上まで迷った分をいれて1時間半ほど。トータル3時間から、3時間半、国道から頂上までかかったことになる。

 
「「あれへ登るのかと思うと怖くなる」と、一行中の誰かが独り言をつぶやいた。それだ、ほんとうにそれだ。自然征服などと口幅ったいことがいえるものか、ただ抱かれたさに行くのだ。生命さえさし出すつもりで、身を投げかける苦行の徒に対してのみ、自然は恍惚変幻の境を展開して授けてくれるのだ。」

            小島烏水『氷河と万年雪の山』 べエカア山の氷河登攀

 
 小島烏水(こじまうすい 1873-1948 本名 久太)は、言わずと知れた日本近代登山のパイオニアのひとりである。明治612月、讃岐高松に生れ、横浜にうつって横浜生金銀行に入社。多くの人と同じように彼も、志賀重昂の「日本風景論」を熟読傾倒して山にはまりこんでゆく。浅間山を皮切りに、乗鞍岳、槍ヶ岳に登るが、そんななか、ウォルター・ウェストンと出あって、日本山岳会創立の機運が生れるのだが、その頃から烏水の登山は、ますますはげしさを加えて、日本アルプスを中心にひたむきに歩くことになる。大正47月、横浜生金銀行のロス支店長として渡米。後にサンフランシスコに移って、昭和63月に帰ってくるまで、シェラ・ネバダ山脈のレーニアやシャスタ、そして、マウント・フッド、ベーカーなどの、4000mクラスのアメリカの山々に足跡をしるした。昭和612月、日本山岳会に会長制度ができて最初の会長におされ、同811月までつとめた。


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手箱山         1806.2m        三等三角点        筒上山

本川村の山である。テバコヤマ。別名、「ゼンジガ森」。頂上部は方向によって上辺が水平な台形の箱のように見えるところから、古文書には、「本川の内、越裏門と南川の間にあり、四方切立たる如くにて、形箱に似たり」とある。また東の長沢ダム付近からながめると、富士山のように鋭角的にも見え、「本川富士」とも呼ばれる。

手箱山から帰る

 高知県の最高峰はとたずねられれば、瓶ヶ森、三角点がすこし愛媛県寄りであるから難があるとすれば、三嶺ということになる。しかし、これはどちらも他県との境界にある。はっきりと高知県内にある山では、この手箱山がそれである。
 石鎚山から土小屋をへて、岩黒山、筒上山へとつづいてきた県境の尾根は、そのさきで枝わかれして一つは県境をはなれ、東にむかう。その先に手箱山がある。藩政時代初期、山内の殿様に盛夏に献上する氷を、冬の間にとりこんで、暑くなる頃まで大切に保存をしたという氷室があったことでよく知られている。「手箱山と云御留山大山也。此山に雪屋と云所あり。いわゆる氷室也。むかしハ毎年雪を詰し所也。忠義君の御代迄、毎年六月朔日に此雪屋の雪を取て壷に納め、夜送の早飛脚にて雪を献しけるとかや。領家郷より直に行近道を今も雪道と云。此故也。」と『寺川郷談』にある。当書の著者直筆のものは未だ発見されておらず、私の目にすることができたものは「松岡本」と呼ばれる高知県立図書館蔵の写本であった。
 手箱越からアップダウンのすくない尾根道がだらだらとつづく。ここかと思えば頂上はまだ先という具合である。やっと着いた手箱山の頂上は、低木にまわりをかこまれた平坦な原っぱであった。芝のような下草がはえていた。風景は木々の頭ごしや、すいていて完全にのぞまれる方向もあった。風に飛ばされたのか、小さな祠がそばのしげりのなかに倒れてあった。あまり印象的でなかったことが印象にのこるような頂だった。
 剣山から三嶺へのテント縦走の訓練をかねて土小屋から歩いてきた、小一の長男を含む私たち家族4人は、ここで焼肉パーティをしたりして、ゆっくり昼食をとった。そして午後5時ごろ、9時間ぶりに土小屋に帰りついた。

 
 日本人とヒマラヤのかかわりはどうであろうか。1936年に立教大学がナンダコット6867mに登山隊を送りだして成功してはいるが、なんといっても戦後1952年から56年にかけての、はじめての8000m峰、マナスル(別名 クータンⅠ、カンブンゲン、インド測量局記号Peakⅹⅹⅹ)への挑戦がその白眉であり、またそのことが、後にわが国の山岳界が本格的にヒマラヤにむかうことになるその嚆矢となったといえるであろう。雪崩、セラック、氷河のクレパスの恐怖、平地の三分の一にもなろうという酸素量、そして晴天時テントの中は50Cをこえ、おなじ環境で夜間にはマイナス30Cにもおよぶという、まるで地上というよりも宇宙に近いような世界での活動は、経験がなかっただけに、想像をこえるものであったであろう。
 日本山岳会は、今西錦司を隊長とする踏査隊を出したその翌年、1953年に第一次登山隊をマナスルに送っている。おなじ年にイギリスはエヴェレストに成功したのだが、日本人にとっては初めてといえるヒマラヤ大遠征はいろいろな場面で齟齬をきたし、マナスル頂上を目前にして敗退。ラマ教徒に扇動されたサマの郷民の頑強な登山阻止の運動にあった1954年の第二次登山隊は、マナスルの雪を踏むこともなく帰途についた。  
 こうしてさらに二年後の1956年、より万全を期した第三次登山隊が400名のポーターやシェルパ、12トンにおよぶ物資とともに311日にカトマンズを出発したのである。途中でクーリーの交代をおこないながら、ブリガンダキの難所もこえ、サマの住民との軋轢も金を支払うことでなんとか解決をして、マナスル氷河の下部、標高3850mのベースキャンプ予定地に着いたのは329日のことであった。
 その年は何もかもうまくことが運んで、天も彼らに文字どおり味方したのであろう。雪の状態もよかった。第一次登山隊が雪崩を心配して登れなかった、スノーエプロンと彼らが呼ぶ、7000m付近の雪の壁もこんかいは十分に登ることができた。荷揚げも順調にいった。第一キャンプに6トン、第二に4.6トン。アドヴァンスドベースである6550mの第四キャンプには3トンの荷をあげた。スノーエプロン途中の第五、プラトー上7800m地点に第六キャンプ地を見つけ出し、さらに7900mまで達して頂上までを間近にしたのは大塚隊員とシェルパたちの功績である。あと残るは200mとすこし。これによって、例外的につづく好天もあって、頂上アタックのチャンスが思ったよりも早くにおとずれた。59日には今西寿雄隊員とサーダーのガルツェンがいっきに頂上に立ち、二日後には加藤、日下田隊員が頂を踏んだ。こうしてマナスル8163mは落ち、ヒマラヤ8000mの巨峰が初めて日本人の足下になったのである。

  1952年 マナスル踏査隊    今西錦司以下隊員7名  ポーター70余名

1953年 第一次マナスル登山隊 三田幸夫以下隊員14名 ポーター285

1954年 第二次マナスル登山隊 堀田彌一以下隊員13名 ポーター473

   1956年 第三次マナスル登山隊 槇 有恒以下隊員12名 ポーター400名


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椿山          1584.7m         二等三角点        筒上山

愛媛県面河村と池川町の境界にある山である。ツバヤマ。

妻も上ってきた

 国土地理院の地形図には山名はないが、昭文社の山地図には記載されている。だれかが「四国のチベット」と呼んだ焼畑と平家伝説で知られる椿山集落の北の県境尾根上に位置している。
 私たちが登ったのは7月初旬の暑い日だった。登路は南側の林道から、ほとんど北上するルートを取ったが、若い植林の中のカヤやイバラ、また密集した小喬木群、そして最後のスズタケと、高知県の山で遭遇するあらゆる種類のヤブを経験できた。
 頂上の三角点はひくい笹とかん木の間にあった。目前には雨ヶ森、北の方角には石鎚山から二ノ森、堂ヶ森にかけてが木々の間から望まれた。間近に筒上山と手箱山が見えたはずなのだが、なぜか写真を撮っていない。繁茂したヤブに遮られていたのかもしれない。
 下山時、急下降しながら、対岸の山を眺めると、椿山部落や雨ヶ森中腹の五色の滝などが森林の緑の間に見えていた。
 道はほとんどないといっていい。とにかく北へ北へと向かえばいいので迷うことはないと思うが、やはり最小限の読図力は必要かもしれない(ガイドブックなどで紹介されて、現在では踏み跡がはっきりした道になっているのだろうか)。


 焼畑とは、かん木や小喬木、シブリなどのはえた山斜面を、十年以上放置しておき、秋から冬にかけて刈り、それを春先に焼いて、土地の肥料とする。アワやヒエ、アズキ、ダイズ、ソバなどを蒔いて、数年間収穫し、あとはまた十年以上放置して、播種収穫をくりかえすという原始的な農耕法である。大陸伝来のもので、それらの民の住みついたところに多いという。たとえば、火と田を合わせて使った日本製漢字「畑」はこの場合「ハタ」と読むが、朝鮮語では焼畑は「パッタ」であるところからもそうしたことがわかる。


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草原山        1546.9m        四等三角点        筒上山

 愛媛県面河村と池川町の境の山である。二等三角点の椿山の西側、同じく県境上にある。クサハラヤマ。

笹の底にちいさな四等点はあった

 子山から草原山まで道はない。ケモノ道らしい踏み跡があっても長くそれを辿ることはできない。コンパスで確認して歩きはじめる。笹を分け喬木の枝を払いながら鞍部にむけて下っていく。それからいくつ頂をこえたかかぞえていなかったが、すくなくみても五回くらいは上り下りをくり返したように思う。最後の笹の急斜面はつらかった。まだ新雪のラッセルのほうが涼しくてましだと思えたものだ。川子山から2時間ほどで草原山の三角点に達した。笹の底に埋まっていたが、色の剥げ落ちた赤白ポールがそばに立っていたので離れたところからわかった。
 そこからは南の笹原越しに惜しみない展望が得られた。とくに目前の雨ヶ森がすばらしかった。やってきた川子山の頂も見える。そこにいる妻にケイタイ電話で連絡を入れてから杖を頭上でふって合図を送ったのだが、望遠鏡はわたし が持っていたので見えなかったそうだ。時間がないので急いで標石のまわりだけ刈りひろげて、ひざを折った姿で記念写真をとり、330分ごろ帰途に着き、5時前に川子山で妻と合流した。最初から水や食料など余分に用意してビバークの覚悟と準備はしてきていたが、急ぎに急いで夜のとばりが下りる前になんとか車まで帰りつくことができた。

 
「山はすべて三つの段階を通りぬける運命にあるらしく、それはしばしばだれもがみとめているところである。ある近寄りにくい峯──アルプスでのいちばんむずかしい登攀──女性にとって容易に登れる日、の三段階である。」        

AF・マンメリー『アルプス・コーカサス登攀記』


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筒上山         1859.3m        三等三角点        筒上山

愛媛県面河村と高知県の池川町、本川村の交点に位置する山。「矢筈の森」と昔は呼ばれていたそうである。ツツジョウザン、ツツジョウサン。

山上の憩い

 岩黒山を越えるか、巻くかをして尾根の東側をトラバースしていくと、神社や宿坊などのある広場にでる。手箱越と呼ばれるところである。両県から登ってくる登山道はここで交叉する。水場などもある。そこから鎖場をひと登りしてさらに進めば、祠のある筒上山の頂上に達する。修験道の祠の周りには、鋒な どがいかめしげに立っていた。展望は十分に得られるが、岩黒山山頂のような絶頂感はすこし無理である。
 私たちは家族4人で土小屋から縦走した。子供たちは初めて経験する鎖場に少々緊張したようであるが、無事に通過して、その後手箱山の方に向かった。岩黒山からの途中、年配の方から、四国ではこの辺りにだけに自然群生しているというキレンゲショウマを教えてもらったのも、この山行の収穫であった。


「箭筈の森壱ヶ所、此森矢筈のごとくに森の峯切れ居申也。依之先年より矢はずの森と申伝候由、此節予州境也在所乃弐里斗西ニ当ル高森也」

『土佐郡本川郷風土記』 寺川村


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宝来山         1051.0m        三等三角点        上土居

池川町北部の山。馬路村魚梁瀬の宝蔵山や大月町の宝田山と同じようにめでたい宝という文字が頭につく山の一つである。ホウライサン。

林道を歩いて宝来山にむかう。正面は雨ヶ森である

 紅葉で有名な安居渓谷の東側にそびえており、その西には雨ヶ森がその大きくて目に映える体を横たえている。
 廃れて無人になった若山部落に入る林道から登ったのだが、道は荒れていて車では無理で、少なくとも数十分、山の北側から登るとすれば1時間は林道歩きを強いられる。その途中から雨ヶ森とともに同山の姿を望見できた。入山してから、頂上近くの尾根には幹まわり2m前後のブナや樅の大木が多くのこるが、三角点周辺はスズタケが非常に多くなった。三角点のそばからの展望は南にのみひらけ、正面に黒森山が望め、安居土居や上成などの集落も見えた。
 登ったのは10月某日。その日は私の誕生日。めでたい山の頂上近く、木漏れ日の森の斜面で昼食をとりながら、妻と愛犬に祝ってもらうことになった。ちなみにこの山の三角点名は「若山」である。

 
「ぼくは、なんとしてもエヴェレストを登るつもりでここへやってきたのではない。ぼくの願いはエヴェレストを知ることであり、この山の偉大さ、困難さ、厳しさのすべてを知ることだった。だからぼくは、もし酸素マスクなしでエヴェレストに登れないのだったら、潔く頂上をあきらめる決心をしていたのだ。(中略)エヴェレストの偉大さを身をもって味わい、これをじかに感じ取るためには、どうしても技術的な方法なしで登らなければならない。そうやって登ったときに、ぼくには人間がそこでなにを感じるか、人間にとってどのような新しい次元が開かれるか、そして、果たして人間は、宇宙と新しい関係を結ぶことができるか、それがわかると思うのだ。」

ラインホルト・メスナー『エヴェレスト 極点への遠征』

 
 北緯275916秒、東経865540秒にその頂があり、1749年にインド陸地測量部に発見されたときには「ピーク15」と呼ばれ、あるときにはチベット人に「チョモ・カンカール(永遠の雪の王)」、「チョモ・ウリ(トルコ玉の峰の女神)」、ネパール語で「サガルマータ(大空の女神)」、そして中国では「チョモ・ルンマ(国の母なる女神)」などと称えられたヒマラヤのもっとも顕著な山は最後にはイギリス人たちに「マウント・エヴェレスト(イギリスインド陸地測量局長官の名前)」と名付けられることになる。
 その山の頂に、1953年イギリスのジョン・ハント隊のエドムンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが初登頂したおりには高高度の空気の薄さに対応するため酸素吸入器が使用され、その後に登る各国の登山隊も量の多寡にかかわらず同じ状態がつづく。ときは流れ、1979年になって、はっきりしている遠征隊の数にして、初登頂から14番目のオーストリア隊の構成員、ラインホルト・メスナー及びペーター・ハーベラーによって人類初めて酸素吸入器なしの「フェアな方法で」地球上の最高峰は登られた。彼らは登頂者の順位にして62番目と63番目の幸運なサミッターであった。


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高樽山         1033.8m        三等三角点        上土居

 池川町と吾北村の境にある山。2.5kmほど西には宝来山、さらに西に雨ヶ森、また南西側には高樽の滝がある。点名は「給田」。タカダルヤマ。

二回目に到達できた三角点

 町村境のN産業の私道入口にはチェーンが張られていて、登山道のように急な道を汗をにじませながら歩いた。山並みのなかに中津明神や鳥形山はすぐにわかる。ところが、この林道は地形図には記されておらず、あとの苦戦はここからはじまったと言ってもよい。現在位置がわかりづらく迷いやすいのである。おかげで随分余分にアルバイトをしいられた。作業道があればそれに入ってみて、山から遠ざかるのを感じてはひき返した。昼食をとるために、広沢分教場あとに建った林業小屋の屋根下を使わせてもらった。いろんなものが置かれていたが、いちばん目をひいたのは何組かのスキーの板やストックである。どこでこれを使うのだろうと思った。どちらにしても若い人たちがいることだけはわかる。そのどちらも帰る途中、N産業の車に出あったことで了解された。スキーは林道で滑るのだといい、乗っていたのは都会のアウトドアマン風の若い夫婦だった。

 三角点には、けっきょくその日は行きつけなかった。その直前まで迫っていたことは二人との話でわかったが、標高がちがうと思われたうえ、はたしてそこが頂だろうかという疑問符が頭をはなれず、それが私たちの足の勢いをにぶらせたのである。だが、おおくの花々と小鳥のさえずり、晴嵐のかかった春の山々を十分満喫することができ楽しかった。たしかに人が言うように山は頂だけではない。

 次の週、この山を訪れたのは、池川町の林道弘沢線からであった。N産業の人に聞いていた作業道入口に車をとめ、チェーンをまたいで歩く。分岐もすくなく、今回はほとんど迷うことなく頂上西の稜線まで至り、スズタケなどの急な斜面をよじのぼって三角点に達した。2年たらず前に再測量されたばかりで、すっきりした頂である。すこし風がさむかったが、昼食をすまして下山。その後、安居渓谷を再訪し、「昇龍の滝」まで行ってみる。落差もおおきく見ごたえのある滝であった。となりの「降龍の滝」の上部にある「縄文かつら」は、私たちの二番目の孫の名が「桂」であるところから見残すわけにはいかない。雨のあとで濡れ水量も多かったためか、滝の上の滑滝部分をわたるのが、ワイヤーなどがあるにしても恐かった。なにしろスリップしたら何十メートルか下の滝つぼまで一直線であるのだから。そのかつらの木は、たいそう年老いた「おじいちゃんの木」であった。

 
「頂を踏まぬ山行は、何だか忘れものをしたようだ。」   

加藤泰三『霧の山稜』


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上久保山       756.4m        三等三角点        上土居

 池川町南東部の山。南に鈴ヶ峠があり、そのすぐ東には黒森山がある。ウワクボヤマ。

なんのための石積みだろう?祠のあとだろうか

 上成の集落にはいって二軒目にたずねた家が(最初の家は玄関が開いているのに応答がなかった)Yさんのお宅だった。もっともこの苗字はこの辺には多いようだ。そこに車を預けて荒れた林道を一度は登りはじめたのだが、コンパスを忘れていることに気がついて引きかえし、ついでに車をもうすこし上まで上げておくことにした。行き止まりの水道タンクのそばから
940分頃再出発。Yさんに聴いていた山道にはいり、すこし行った三叉路を右にとりやがて林道に出たがそれ以後のルートがはっきりしない。結局もとの道までかえって、遠回りにはなるのだが、しっかりした道を行って、三角点から直線距離にして1.5kmほど東にある峠に出ることに決めた。

 峠には石を築いた上に祠があったがなぜか屋根だけだった。そこから先の道が見つからず、高低差もすくないことから尾根の倒木やブッシュを跨ぎ避けながら西にむかう。おおきな猿(?)が二匹慌てて走りさった。そこを越えるとまた道もあらわれ、まもなく地形図にある次の峠についた。そこにあった4mほどの高さに積まれた小さなピラミッド様の石積みは何だったのか。これほど高く積まれたものはほかの山ではあまり見たことがない。つぎの頂は北側をトラバースして行く。とちゅう平坦なところで2ヶ所ほど放棄されてまだ崩れきっていない炭窯をみた。周囲はほれぼれするような森林。この辺りが今回いちばん雰囲気のいいところだった。風もなく小鳥の声だけ聞こえていた。再び尾根に出て、軽く登った道の傍らに三角点の偏心点の標柱が立ち、そこから南へ斜面を登ったところに三角点が見つかった。
 コンパスだけでなく、Yさんと話しているうちにナタまで忘れてきていた。しかたなく折りたたみノコを出して切ったり手で引き抜いたりしてまわりを簡単に片づけ昼食をとった。偏心点そばの岩の上からは、正面には筒上手箱が心憎いほどみごとな姿を見せ、その手前右には宝来山が、そして左には雨ヶ森が巨体を覗かせていたが頂上部は残念ながら望めなかった。9月末のこと。さあこれからいよいよ最高の山の季節がはじまる。

 
「なんとなく今日は気がおとろえた。ゆうべおそく着いたせいもあるが、山の懐に抱かれた安心――そんな気分が、ポーッと五体を取り巻いている。こうして今年の夏も私は帰省した、そうだ、この人気(ひとけ)のない山の中へ。それはつい後へ残してきた大都会、どうかするとまだ汽笛の悲鳴でも聞こえそうな、あのひっくり返るような喧鬧(けんとう)の街なかに生まれた自分だけれど、それが何の故郷だろう。どうしてもここだ、山だ、山こそ私の心の故郷だ、真の故郷なのだ。
 そしてその門口まで私は今帰って来た、帰らないではいられなかったのだ。是も非もない、命がけで、しかもはかり知れない幸福に身をふるわせながら、すべてこれからだ。」

中村清太郎『山岳渇仰』 大井川奥山の旅

 

 江戸時代頃から山に親しむことに先鞭をつけた文人墨客の登山者たちではあったが、初期にはまだ、月山や立山など行者たちによって十分にひらかれていた山がその対象であった。明治もすすんで、山が近代登山の対象として登られるようになってくると、彼らの中からも厳しい探検登山をこころざす者が出はじめる。山岳画家として売り出すことになる中村清太郎(なかむらせいたろう1888-1967)もその一人であった。彼は同時代の開拓登山の有志らとともに、あるいは単独で、南北日本アルプスなどに山の民を案内者として初期の足跡を印したのである。


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余能山         824.0m        三等三角点        上土居

 池川町中央やや南東よりの山。北には雨ヶ森がある。ヨノヤマ。

まだ生まれたばかりのようだ

 山の南東面の余能集落についたとき相当数の民家が車道の上下の斜面に認められたが、あきらかに廃屋と思われるものは当然として、いまだ人が住んでいる様子の家々にしても、どこにも住人の姿はかいま見えず、どこからも声や物音がしない。人間のかもし出す騒々しさや熱っぽさといったものが感じられない、そんな自然の一部になってしまったような静かな山の家の扉をあえて開けて道を尋ねる気はその時はおこらなかった。
 集会所の前に日陰になりそうな広場があったので駐車させてもらって、北側のコンクリートの階段をあがって登りはじめたのはもう10時近く。民家やお墓の横をとおり、やがて本来の山道になったが、それは意外に手入れの行き届いたもので、上方の尾根上にあるお宮の参道であることがここからもしのばれた。その神社は考えていたよりも大きな建物であった。昭和356年頃にたてられた立派なコンクリート製の鳥居。狛犬が左右の台座の高いところで睨みをきかせている。鳥居には「三所神社」の額がかかっていた。
 社の雨戸の前で手を合わせてから、左手の篠竹の道にはいった。道といっても笹にかくされて土の部分は見えないので見当をつけて辿る。それが過ぎると岩まじりのすこしヤセた尾根を進み、つぎに倒木群をクリヤし、最後にころがるような急斜面を杖や立木を頼りながら登り切ったところが頂上だった。大きなモミの木などが育つ平坦な森をぬけた先の、ちょっと高くなったところに三角点がみつかった。まわりには、近くの大きなユズリハの木の子供たちが育っている。それらの木のみ選択して残して小奇麗にし、マットをひろげてそこで昼食をとった。いきいきと輝くユズリハの幼木たちに囲まれていい気持ちだった。ツクツクボウシが一匹、去ってゆく夏を惜しむように懸命に鳴いている。

 
「万年の雪と高嶺の花とは、実に高山の標徴(シンボル)なり。もしかの高山より、晧々たる万年の雪を融解し去らばその景象はすこぶる平凡化すべし。千紫万紅絢爛たるお花畑の百花凋萎せば、その眺望はすこぶる殺風景たるを免れざるべし。高山頂上に於ける日の出の光景もまた雲海の偉観も、脚下に万年の雪なく、眼前に百花の開くなくんば、その壮麗その偉観大半その価値を失すべし。」

志村烏嶺 『千山万岳』日本アルプスの特色 万年の雪

 
 志村烏嶺(しむらうれい 1874-1963)、栃木県生まれ。高山植物研究家にして、また山岳写真のわが国におけるパイオニアとしてもよく知られる。ウォルター・ウェストンにより、彼の写真は英国の山岳ジャーナル誌に掲載され、日本アルプスの様子が紹介された。『千山万岳』は大正2年に発行。ウェストンにより序文が寄せられている。


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影森          586.7m         三等三角点         上土居

 池川町の中心地、上土居の北東側すぐにある山である。カゲモリ。

急坂の上に道は定かでなくなっていた

 地形図を見ると、この山の頂から三方に歩道がくだり、南西側の岩丸、南東の川内へ、そして北の余能へとむかっている。川沿いの車道などが発達する以前、人々が往来していた道であろう。私たちは今回この岩丸からの道を辿ることにした。

 農道から茶畑をぬけると山道があらわれた。ややもするとヤブに消えかかる山道をひろいひろいしながら高度をあげる。全体に急坂だったが、下の方では道は曲折して、歩行距離は長くなるが登高角度はゆるやかに押さえられていた。ところが頂上が近づいてくると、峠道からはずれたのか急坂を直登するようになり、自ら斜面をこころもち電光を切りながら登って行くようになった。そんな途中炭焼きの窯跡がある。こんな急なところでと思うが、昔の人は日常的にこんな峠道を通っていたのだから、それほど無茶なことではなかったのかもし れない。
 頂上はちょっと広めの尾根になっていた。そのうえヒノキの林のなか。三角点にも接して一本育っている。そのそばでシートを広げて昼食をとった。暑さもだいぶん収まり、座っていると肌寒くさえなる。ただ惜しまれるのはこれらの林がなかったらと思われたことだ。木々の間から池川市街はもちろん、そのほかの方向の光景がちらちらと見えていたようだったからである。

 
「山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ」 

種田山頭火(池川町行乞中の詩)


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中象山         1051.2m        三等三角点        上土居

池川町の山である。点名は「三ツ滝」という。ナカゾウヤマ。

緑が迫って、三角点のまわりは狭くなっていた

 しばらく県内の低山ばかり登っていたが、梅雨末期の晴天に、7ヶ月ぶりに1000mを超える山に登ることになった。あらためて高山の空気、植生のすがすがしさを知る。
 南西側の山をトラバースして中象山の尾根にでた。途中、ヤマアジサイが薄青色の花弁をひろげて迎えてくれる。尾根には笹はあるけれども、背よりも低くて、歩行に支障をきたすということもなかった。標高1070mほどの頂付近からはまわりは何も見えない。そこから尾根を南東2300mのところにある三角点にむかう。くだって、もういちど登りなおした三角点のピークは、アセビなど小喬木のヤブ。南と北西側にひらけ、山々が見える。東には雨ヶ森の頂上あたりを木々の間からのぞむことができた。
 山頂は狭くて、ほんとうに立錐の余地もないという感じであったが、まわりの緑がほれぼれするほど美しく、そこのところいい雰囲気であった。三角点のそばの標柱には、なぜか四等三角点と書かれてあった。

 
「あのころは山好きの仲間が集まって、いい気持ちで暮らした。自分達だけ特別の世界にいて得意になり、元気だったが、世間から木葉天狗が何をぬかす、全くつきあいにくいやつらだよと白眼視されたこともあった。いつか過去になり今日ではりっぱに登山家とまつられる、」

日本山岳名著全集11  茨城猪之吉『山旅の素描』 岳人のあくび

 
 中村清太郎と同い年生れの、茨木猪之吉(いばらきいのきち 1888-1944)は職業も同じ、画業それも山岳画で世に出た。また二人とも第二次大戦前に、『山岳渇仰』、『山旅の素描』という趣きぶかい二人の代表的画文集を、遅ればせながら前後して上梓したことも似かよっていた。だが、中村がほぼ天寿をまっとうしたのに対し、茨木は、奇しくも中村が「山岳渇仰」を出した同じ年・同じ月に、北アルプス、穂高の山中で行方不明になり、その遺体は今もって見つかっていない。


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雨ヶ森         1390.0m        三等三角点        上土居

池川町中央部の山である。アメガモリ。

草原山からの雨ヶ森のすがた

 11月末、その冬初めての降雪のあと、足元に注意しながら登った。椿山林道を1時間ほど車で走り、林班堺から入山したのだが、思っていたよりもきつく、雪と霜柱のため、登るときから下りは苦労しそうだと考えていた。
 1時間30分ほどで頂上に着いた。山名からして五穀豊穣を祈願する雨乞いの神さまの山だとは思っていたが、案の定、低い祠があった。「雨ヶ森さま」と呼ばれているらしい。本宮は下界に移されて、山頂にあるのは奥の院というところだろうか。
 展望はほとんどないと聞かされていたが、なんのなんの視界360度だった。小笹と主だった喬木のみ残して、すっかり刈り広げられていた。こうでなくては。その上、雲ひとつなく無風快晴。
 目の前に筒上、手箱、石鎚、寒風、笹ヶ峰などが雪の衣を着て広がり、明神山や大川嶺、鶴松森、黒森山など、なんでもござれの大盤振る舞いだった。2時間近く頂上で快適な時を過ごしたあと、なごりを惜しみながらの下山となった。

 
「人は理想を持たなければならない。人はこれによって生きるのであって現実によってではないのだ。」           

ジョン・コスト 『アルピニストの心』


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奥畑山        972.4m         三等三角点        上土居

 池川町の大規模林道の東端からのぼる山である。オクハタヤマ。

三角点のまわりの笹が刈られていた

 台風の影響が心配だったが、大規模林道は大丈夫なようであった。未舗装の作業道を
800mほど入ったところが登山点である。途中、草が茂って路面が見えず幅員がはっきりしないところや、山側から道に木が倒れかかっていたりしたが、おおきなハチがうろうろしていたので、誰も降りずにそのままフロントガードや車体前面で押しきって通過した。塗装表面のキズがまた増えたが、ピカピカの車体で、それを気にしながら走るより何倍か愉快な気分である。やっぱり4WDの世界はこれでなくては面白くはない。

 駐車点の鞍部からは左右の山々がよく見えた。下界では猛暑で喘いでいるだろうが、ここはすこし空に雲もあったせいか、風が抜けてむしろ涼しいくらい。そこから笹のなかに切り分けられた直線の急な道を、ひと汗流しながら登りつ めたところに三角点はあった。標石のまわりのヤブははらわれ、木々の上部の枝は切り落とされていて晴れ晴れしていて、南側の山々や下方の人間世界の一部がのぞまれる。左の方に黒森が見えたが、中方はるかに、須崎市の蟠蛇森や虚空蔵山などが彩度をおとして見えているのが印象的であった。
 車まで下りると、草むらには、マツヨイグサの仲間が花を咲かせていた。「ここだったらお月様もよく見えるだろうね」と妻が言う。月だけでなく、美しい夜の星もよく見えるだろうが、強い風や激しい雨に体を激しく揺さぶられ涙を流すことだってまたあるであろう、彼女が枯れて土にかえるまでには。

 
「釈尊等の古聖哲をはじめ、兼好も西行も芭蕉も、みんな一度は世捨て人でした。東洋の人たちの、世を捨てて捨てきれぬ気持ちをなつかしく思いました。

世を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

西行がそう言ったと思います。理想を求め生命を求めてやまぬ心を、いつも変わらず尊く思います。」      

村井米子『山の明け暮れ』 上高地の天幕生活から


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竜ヶ水山        911.7m        三等三角点        上土居

 越知町吾川村境の、黒森山の西3kmほどのところに三角点はあるが、竜ヶ水山は吾川村と池川町の間にある。リュウガスイヤマ。

祠の主は竜神様だったのであろうか

 黒森山に向かって登る途中から、台風4号による崩壊の現場を迂回して、急な上、切り直しをしなければ四駆車では曲りきれないカーブが連続する。黒森山の手前で、桜集落のほうに向かい、途中から鈴ヶ峠に出ようとしたが、路面が水でえぐられて進めなくなり引きかえした。桜のほうに更にむかい、地形図にある点線の歩道をさがす。運よく見つかって、10時まえに、その道を登りはじめた。
 峠道は、荒れて倒木も数多くあり、道は斜めになり巾も狭くなっている部分もあったが十分にトレースに耐える、勾配もゆるやかな、それはまだ我々にとっては理想的な歩道であった。20分ほどで町村さかいの尾根に出たが、位置は地形図のそれよりも数百メートル東だったようである。そこまで何年か、十何年か前まで、車で通うことが出来ていたようであるが、いまは草木と倒木によって閉ざされていた。作業道はそこからさらに荒れていて、なにげなくそれに入ったものの、ナタを常にふるい続けていなければならないような棘まじりのヤブで、すぐに後悔することになる。あきらめて、迷いそうなほど広々した尾根に上り、鬱蒼とした森で小さな祠を見てから、さらに、広い尾根を、目印を付けながら西にたどった。風倒木の群をよけて尾根を外したり、ブッシュを拓いたりしながら進んだが、夏の暑さは消耗をはげしくし、距離をよけいに長く感じさせ、汗が胸前のカメラのケースをぬらした。
 スズタケを押し分けながら前進していると、突然ぽっかりと高い笹のない広場にでた。そこに三角点はあった。北東に池川の高い山が見える。
 帰途、祠に寄った。もう一度、無事に山旅を終えることのできることの礼を、心で申し述べて、ふと祠の後方の大岩の上を見ると、そこに窪みがあり、結構大きな水たまりがあることに気がついた。スギなどの枝や葉などでほとんど埋まっていたが、サンショウウオのような小動物が動くのが見える。きっと祠の主は竜神様だったにちがいないと思った。

 
「展望のきかない山上から四叉路までもどり、西側の日だまりで横になる。透明な空に巨大な白銀の翼を光らせながら、ジェット機が轟音とともに飛行機雲を長く引き、西の空へ消えていく。世界の緊張をよそに山に登る幸せ。平和とは、こんなにありがたいものだろうか。」         

酒井昭一『飛騨の山山』恵那山周辺の山山

 
 岐阜の山々をこれほどに愛し親しんだものを彼よりほかに知るよしもないと、岳友にいわしめた酒井昭一(さかいしょういち 1991)氏は、中学校の教職のかたわら、またその退職後、高山岳から低標高のヤブ山まで、岐阜の山々の多くを訪ね、『ぎふ百山』、『続ぎふ百山』ほかの著書をのこした。


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水船山        638.9m        三等三角点         上土居

 池川町と吾川村のさかい、その池川町のほとんど最南部にある山である。ミズフナヤマ。

雨ヶ森がよく見えた

 水船とは、浸水して沈没寸前の舟のことであるが、なぜ、このような山名になったのか。水船という地名がどこかにあるか、あるいは宗津(津とは港も意味する)という集落名になにか関係しているのであろうか。

 最初、宗津の人におしえられて、町村境の尾根近くまで林道をのぼっていったが、どうも見当違いのようで、それに尾根伝いをするにしても、等高線の詰んでいる部分もあって、結構時間を食いそうであった。もういちど宗津までひきかえし、民家の横からなんとか昼頃に登りはじめた。傾斜は急だが、はっきりした地形図にある点線の道がそこにはつづいていた。20分ほどで尾根にでる。峠では、高いところからパイプを伝って運ばれてきた水が、金属の容器にそそがれ、すこしずつ溢れ出している。尾根を東にすすむと、まもなく、人が時々上ってきて住んでいるような小屋があり、そこで木彫りをしているのか、造りかけの人物の顔が、軒下にいくつか置かれていた。奥にちいさな畑があり、そのすぐ上に、立っている赤白ポールの先端が見える。三角点はその真下にあった。
 北におおきく展望がひろがり、正面奥の方にはときどき雲に頂を見えかくれさせながら、雨ヶ森が。そして、奥畑山が、山体のみでなく、車をとめたところまではっきり見えた。数時間前にあの頂に我々がいたことが思われて感動的でもある。アキアカネが乱れるように舞い、寝ころんで空を見上げると、ブルーをバックに白雲がむくむくと流れ動いているのがわかる。同時に赤白ポールの先端を見つめていると、動いているのは雲ではなくてそちらであるように思えた。それはあたかも流れる川面に浮かぶ船の上に寝て、頭上の雲や、川面にかかる木の枝や梢を眺めているような感覚に似ていた。

 
「しかし、僕は甘えて自分の山好きを少し吹聴しすぎはしないだろうか。真の愛着心は秘めることによってのみその純潔を保つものだ。」

深田久弥『わが山山』 山の文章


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黒森山         1017.3m        三等三角点        上土居

越知町と吾川村の境の山である。クロモリヤマ。

管理道途中より見る黒森山

 国道33号線の赤土トンネルを抜けて、越知町の市街に向けて坂を下りおりている時などに、険しそうなその山頂部を正面に見せている。ところが池川町の大規模林道上あたりから見ると、同じ山かと思われるほど横に長く平凡な山容になる。
 頂上にはアンテナやその付帯建物などの大きな建造物がある。町村境のトンネルの元から車道が通じているが、その途中の道は悪路の上、幅員も狭く、頂にそのような大きな建造物があるとは思えないほどである。私たちが訪れたとき には、その建物の屋上が開放されており、展望台として利用することができた。他の山からもアンテナと特徴のあるピラミダルな山容から黒森山はそれほど時間をかけずに同定できるが、その屋上の展望台からも四国山地の山々の多くを望むことができた。
 この山の北西側kmほどのところを昔、松山街道(黒森越え、または鈴ヶ峠越え)が抜けていて、浜田辰弥(のちの田中光顕)ら、多くの勤皇の志士たちが脱藩して行き、明治維新前には松山征伐の兵たちが、そしてまた嘉永五年(1852)に、アメリカから帰国した中浜万次郎もこの道を通ったのだそうである。明治初期頃の、場違いに感じるほど大きな二基の石の灯ろうが立っている。
 私たちは頂上の展望台で、バーナーでいろいろ料理を作って昼食を取ったあと、まわりのヤブでキイチゴをたくさん採って帰り、家で野性味あふれるイチゴジャムをつくった。

 
「私にとって冬季のグランド・ジョラスの北壁登攀は、これまでの私の登山経験とはいささか異なっていた。アコンカグアやマッキンリー、キリマンジャロなどと違って、この北壁は一日の行動を終えても疲れた体を休め、横になって寝るべき場所もないのだ。まる十一日間というもの、太陽の光を受けず、冷蔵庫に閉じこめられたような地獄の生活であった。体は常に岩に確保し、伸ばすことのできない足は、いつも宙に浮いていた。
 寒くてもあたたかいシュラフを持っていくことはできない。垂直登攀には、重量が制限されるからだ。二本の足で一歩一歩と登る登山とはだいぶ違う。十二本ツメのアイゼンの、その一本のツメに体のすべてをかけているのだ。もし、アイゼンの一本のツメを滑らせれば、重力の法則にしたがって真っさかさまに落ちていくよりほかはないのだ。
 このような垂直の岩壁登攀は、山ぜんたいの危険というより、その場、その場の瞬間、一刻一秒にすべてがかかっているのだ。いくら私が冒険が好きだからといっても、経験と技術もなくて、また生還の可能性もない冒険に挑むことは、それは冒険でも、勇敢でもないのだ。無謀というべきものなのだ。
 それがどんなに素晴らしい挑戦であったにしても、生命を犠牲にしては意味がない。」

植村直己『青春を山に賭けて』 地獄の壁グランド・ジョラス

 
 植村直己(うえむらなおみ 19411984)の人生は、ほかの多くの山で死んだ登山家と同じく、生き急いだ感がある。すばらしい山や、極地、アマゾン川などの大自然に魅せられ、休む間もなく突進し、御存知のように、マッキンリー冬季単独登攀成功後、行方を絶ってしまったのも哀れであるが、なるべくしてなった結果とも思える。ひょいと得た成功が名声を呼び、その名声をうしなうのが惜しさについつい無理に走ってしまう。人の世にありがちなことである。もともと縦走タイプの登山家であるのに、岩壁登攀のスペシャリストが、なお一流のレッテルを求めて挑戦するグランド・ジョラス、ウォーカー稜の冬期登攀などに手を染めたのもそのゆえであったろう。彼は彼らしく世俗に流されない冒険をつづけてほしかった。わたしの好きな登山家冒険家であっただけに残念である。


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尾茂内山        993.0m       二等三角点        上土居

 越知町と吾北村の境にある山である。オモウチヤマ。

木の下も華やかな絨たんが敷かれていた

 黒森山への道は、ハウスから上は相変わらず悪路のままだった。頂上のアンテナの数はふえている。長男たちとイチゴ狩りをしたのはどのあたりだっただろう。尾茂内山へは黒森山より、町村境の尾根を縦走する。

 最初の下りが大下りだったが、その後はたいした上り下りもなく、比較的快適なハイランドウークといえた。初めのうち、右後方に黒森山のアンテナのある頂が木々の間から見え隠れしていたが、そのうち尾茂内山のかなりはっきりとした頂が入れ替わるように見えてきた。遅れて来た台風後の冷え込みのせいか、山では落葉した木々と、残った紅葉の綾が美しい。途中に、そんな大きなカエデの木が1本あって、下も赤い絨毯が敷かれたようになっている。行きにも帰りにも立ちどまってカメラを向けた。
 ころあいを見て、トラバース道から斜面を登った。それから10分もへずに尾茂内山の三角点に到着。下草もなく、東側の中央がすこし欠けているほかはきれいな二等点である。傾きもなく露出の具合もちょうどいいようだった。表面が苔むしている。南側はスギの、そして北側は葉を落とした広葉樹林。寒い。フードをかぶって昼食。木々の間から正面に宝来山、その右の方には雨ヶ森が雲を伴って見えた。天気がもっとよければ、石鎚山も見えるのだろうか。幸い雪にあうこともなく車まで戻り、鈴ヶ峠を訪れてから帰途についた。

 
「僕らの前面、北方には、カンチェンジャンガ東尾根の一支脈の岩山が疾風のごとく早き雲にまとわれて見上ぐる高さに、そのまばらに氷を帯びた肌を見せている。その氷の兜を雪雲をとおして照る鈍き夕陽の光に照らす崇高なる額に、いっさい人間の努力をあざけるがごとき誇りと、また近寄りがたき尊厳を示している。しかもこのヒマラヤの誇りと、その尊厳は、終にこれを感ずるわが心の誇りとその尊厳にほかならぬ。実にこの故に、われはこれを望んで飽かず、これを眺めて涙こぼるるを禁じ得ないのである。」      

鹿子木員信『ヒマラヤ行』 グイチャ・ラおよびタルンの氷河

 
 明治期に萌芽したわが国の近代登山の芽は、徐々に育って、やがて若者たちをヨーロッパ・アルプスや、ヒマラヤに送りだすことになる。19世紀末、チベットに向かい、高いヒマラヤの峠を越えたものはあった。だが、それは河口慧海とか青木文教、多田等観とかいった、宗門の徒、僧侶たちで、純粋な登山者ではなかった。1918年秋、鹿子木員信(かのこぎかずのぶ 1884-1948)は、インド、ダージリンからシッキムにはいり、カンチェンジャンガの大峠、チンセップ19300フィートを目ざしたが、残念ながら、その手前、ダイチャ・ラ峠16500フィートを越えたヤンポックあたりで撤退した。こうして彼が、ヒマラヤと対面した最初の日本人登山家だといわれている。

 
「このまま、雪が止めば、好いが、もし万一降りつづくとすればどうだ。前にはタルンの深い氷の谷が、前途を扼している。後には比高二千フィートのダイチャ・ラの険が退路を擁している。進むに進まれず、退くに退くあたわず、絶対絶命とは真にこのことである。それでもまだ、食糧に余裕があれば、まだしもであるが、余裕とては殆んどない。かくして結論はきわめて明白である。……ヤンポックの平に十人の凍死か、しからずんば餓死の屍体を横たうるのみである。……僕は残念ながら苦力らの言にきいて、前進を思い止まらざるを得なかった。」            

鹿子木員信『ヒマラヤ行』 吹雪、退却

 
 彼はヒマラヤから下山後すぐ、イギリスのスパイの密告により捕えられ、シンガポールの獄舎に送られることになる。パイオニアの悲劇はどの世界にもあることではあるが、その後も、彼は劇的な生涯を歩んでいる。徳富蘆花の、山とは関係のない小説のモデルとなったり、慶応大や、九州大学などで教鞭をとるが、第二次世界大戦後、思想戦を指導したとして、戦犯としてまたまた捕えられたりするといったことである。そんな人生のなかで、彼の胸にいつも去来していたのは、アルプスやヒマラヤでの、白皚々の、目も眩むようなあの青春の時間ではなかっただろうか。


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遅越山         993.2m         三等三角点         大崎

 吾川村中央部の山である。国道33号線の引地橋や名野川から車道や山道を北に向かえば、周辺の最高点である遅越三等点にいたる。オソゴエヤマ。

頂上の石の祠…

 遅越林道にはいって間もなく、道ばたに「遅越口関所跡」の石碑を見る。ここから遅越山の山頂をこえ、水の峠、雑誌山をへて、池川町の境野峠(ここは黒滝峠が正解であろう)から伊予入り、あるいは土佐に入る街道があったのだと、遅越集落の庄屋の末裔という方がおしえてくれた。この峠にかぎらず、遠い空の下、網の目のように山中を手入れされた山道が通り抜け、どこへ行くにも、尾根や谷の樹陰を黙々と旅人は歩いていたはずである。現在では、車道のない世の中は考えられないが、なんとなく地球全体ですら狭く感じられるようになっている。以前はおそらく日本一国でさえ、宇宙のようにひろびろと思われていたにちがいない。

 もう道がないから登れないと、集落の年配の方は口々に言った。たしかに道といえるものは踏み跡も含め、ほとんど見あたらなかったが、けわしい崖やふかいヤブなどの大きな障害もなく、登れないということは全くなかった。主稜線には笹が密生する。しかしそれも高くてヘソ下ほどである。頂上の三角点もすこし笹にかくれようとしていた。プラの白標柱の奥には、参拝する人も久しくなく、寂しげに笹のなかに距座した石の祠。北側は断崖になっていて、山々が木々の間からのぞいていた。ほとんど淡い緑の自然林であったが、南東にのみヒノキの植林が迫る。三角点に腰をかけて、家に電話をし、昼食をとった。

下山して、林道を出るまでに「大平」三等点513.8mに寄った。こちらの三角点は欠けて痛んでいる。祠は見あたらなかったが、周囲は、それがあっても不思議ではないほどの大木の森であった。南側一段下に携帯電話の高いタワーが立っていた。

 
「山へ行き 何をしてくる 山へ行き みしみし歩き 水飲んでくる」 

高村光太郎


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浅尾山         362.1m         三等三角点         大崎

 越知町の山である。吾川村のほうから流れてきた仁淀川は、越知町にはいって大きくうねる。右におおきくうねって横畠山の部分をつくり、反対側にうねりかえしてこの浅尾山の、くびれた半島のような部分を形づくっている。もし浅尾トンネルの線で、巨人が斧で断ち切ったならば、簡単に中島になってしまいそうである。この山から尾根を南東に伝ってゆくと亀ヶ森につく。アサオヤマ。

三角点の横がヌタ場になっていた

 県道
18号線の浅尾トンネルと鎌井田大橋のあいだを北西に、仁淀川にそって浅尾集落まで入る。1kmほど農道を上り、そこから歩きはじめた。歩道などは見あたらない。ブンタンやサンショの畠からうえは、植林の中を、登りやすいところを右へ左へさがしながら、そして途中、岩の集中して急になったところからはトラバー
スして尾根に出た。踏み跡を何とか辿ることができる。出発してほぼ1時間後、頂上についてみておどろいた。なんと三角点のすぐ横にケモノたちがヌタ場をつくって濁った水をたたえているではないか。標石は半分以上露出して、このままではいつか水の中に倒れてしまうだろう。まわりの木々の根もとは泥で汚れているので、ここでは昼食はとれない。
 途中まで引きかえし、トラバース地点の平たい石に腰をかけてオニギリなどで昼食にした。森を風がぬける。ヒノキの梢をゆらす。寒くなってきた。冬はもう間近まできている。

 
「エヴェレストを酸素吸入器なしで征服するという夢が実現されたというのに、心にはなにか空虚なものが感じられた。この空虚、いつまでも心にぽっかり開いているこの穴は、新しい夢、新しい目標でまだ埋められてはいない。ぼくの心は早くもまた、文明社会の持つもろもろの不安にもしばしば襲われる。」

ラインホルト・メスナー『エヴェレスト 極点への遠征』


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          528.5m         三等三角点         大崎

 越知町のヘソの部分、栂の森集落上部の山である。越知中央市街から見ると、集落は北西側に見えている。点名は「横畠」。ツガノモリ。

仁淀川と越知市街がよく見える

 栂は、ヒノキやスギのように人に媚びるところのない、渋くて、土佐で言えば「いごっそう」とでもいうような落ちついた雰囲気のある樹種である。その木を集落名につかった「栂の森」とはなんともいい感じで、最初、ペンションか何かがそこにあるのではないかと思ったほどであった。標高が
350mちかくにあるが、はるかに山々、そして仁淀川の清流や越知市街が眼下にのぞめ、風光は明媚なうえ日当りもよい。

 そんなところに住む人は自然と善良になるということであろうか、農道そばで農作業をしていたオジサンとオバサンは、うげるように親しげに話し、地図を描いて、三角点へのアプローチの仕方をおしえてくれた。せまい農道を、切りかえしたり、スイッチバックで方向を変換したりしながら上ってゆく。こんなところにと思うほど急な斜面の、森の中の狭々した畠に、シシトウやショウガが植えられている。サンショの畠もおおい。さきほどの夫婦に聞いていたように、行き止まりはマサノスケとかいう薬草の畠だった。大手のT製薬と契約して作っているのだという。
 ヤブの様相は、人間がいじった末にそうなったものほど性悪で手がつけられない。天然のものには法則のようなものが感じられるが、人の手のはいったものほど混沌とした感がある。そんなヤブをひらきながら進んでいくと、やがて、おおきな松の木のまじる整った植林の尾根にかわった。さらにひとのぼりで頂上であった。損傷した三角点かたわらの木の幹には山名板が一枚かかっていた。「柚の木森山」と書かれている。(下山時、通りがかりの親子に尋ねたら、横畠ならわかるがそんな山名は知らないということだった)
 風が強い。森がさわいでいる。ぽとりと音がして、ドングリが三角点のそばに落ちてきた。見あげるとその木が頭上にあったが、青々とした葉が見えるばかりで、落ちる直前のドングリの実はわからなかった。

 
「登山とは文化的な行為であり、近代西欧型の発想を身につけた文明人のみが行なう作業である。」                         

桑原武夫


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野老山         378.8m         三等三角点         大崎

 越知町中央部、国道33号線ちかくの野老山にある三等三角点の頂である。トコロヤマ。

1時間30分ほど見つけるまでにかかってしまった三角点

 黒森の西の「竜ヶ水三等点」に行こうとしたら、その前々日土佐沖を通過した、7月では戦後最大だという台風4号の大雨で、途中の道が復旧に2年はかかるだろうというほど崩れていた。迂回路もあるにはあったのだが、工事の人に、上のほうもひどい状態になっているとさんざんおどかされて、600ミリという大雨の無残な爪あとの残っているだろう池川町の山もあきらめざるを得なくなって、気持をおさめるために近くの野老山にむかう。
 畑にいた女性や、通りかかった車の男性が自信をもって教えてくれたのは、これぞ野老山のてっぺんといってもいい、おおきなNHKの野老山テレビ中継放送所のある頂であった。あとで地形図を見ると、南西側にある三角点よりも40mちかく高い地点。やはり自分自身でナビゲーションすべきであったと、いつも後悔することになるのだが、ときにはピタリとまちがいのない指示をしてくれる地元の人もいるので、ついつい同じことをくりかえすことになる。
 GPSで自車位置をだし、こんどこそ本当の登山点まで移動した。三角点間近まで近づいたのだが、それからも簡単ではなかった。「点の記」には所要時間1分と記されているが、これにある時間どおりに到着できたことはまずない。今回も30分ちかくかかってしまった。頂上が倒木や大小の草木の生い茂った荒地状態になっていて、標石をなかなか見つけることができなかったからである。何度もその辺りをさがしまわり、ほかを捜してみようかということになりかけたが、やはりここしかないと尚も足で探っていると、ようやく露出具合もちょうどよい文句のつけようのない三等点が見つかった。最初の電波中継所のピークに登りはじめたときからいうと、所要時間1分の三角点を見つけるまでに、1時間30分ちかくかかっていた。
 車のそばで黒森を望みながら昼食をとり、黄土色に緑をまぜたような色に濁った仁淀川のまだ収まらない奔流を眼下に眺めながら国道までくだった。

 
「果無山脈は私にとって、すこぶる好ましいところに思われた。山々は広大で、そこには自然の荒々しさと、ふところの深さが感じられた。人里からは遠く、伐採されているとはいえ、まだ深山の霊気のようなものが残っていた。鳥や獣も多く棲み、林の下を行くと首筋にヒルが吸いついてくることもあった。便利で快適な場所に住みたい、家族とともに文化的な生活を楽しんで暮らしたい、というのは、ふつう一般の人びとの願うことだろうが、私はその反対のことを欲していた。私は人家が軒を連ねている里よりも、自然のふところにくるまって生きることのほうが性に合っていた。これから何年間かは、この果無を自分の棲家とすることができるのだ。それは私にとって爽やかな喜びであった。」

宇江敏勝 『山びとの記』果無山脈の主

 
 ヒマラヤなどの未踏の高峰に挑んで登りきるのも山とのかかわりであるが、宇江敏勝(うえとしかつ 1937-)氏のように、炭焼きを生業とし、木を植え、木を刈るために、奥山に日常として住むのも、山と向かいあっているということである。いやむしろ、こちらのほうが、前者の何倍、何十倍も、山は、より真剣に私と語り合おうとしていると信じたことであろう。彼は紀伊半島の最奥部、和歌山、奈良、そして三重県境付近の果無山脈、十津川峡周辺の山々を中心として長く住み、そして山や木、そこに住む動物たちとともに、ときには一人で暮らした。現在では、熊野古道などの語り部として活躍されたり、自然を主題にした文筆活動をつづけたりしておられるようである。


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三方ヶ辻      1009.3m        二等三角点         大崎

越知町の山である。横倉山と三嶽西山のあいだに位置し、越知町と仁淀村、吾川村の交点にちかい。三嶽三山の一つである。地元の人には、地吉とか地吉山とも呼ばれている。サンボウガツジ。

岩根こごしいとはこんな山のことであろうか

 大平から峠道を登った。数十年前まで、仁淀川とその支流の大桐川水系の生活をむすんでいた山道である。荒れてはいるが昔の往来の頻繁さをしのばせる広い道幅。悲喜こもごもの気持ちでこの道を登り、また下った人々も多かったことだろう。峠道はいつもそんな感慨をいだかせる。この山地、思ったより広大である。それにけわしい。平家伝説が生まれるのもうなずける。登りきった主稜線の峠は、安徳天皇一行のみでなく、幕末期、城下で執政吉田東洋を斬ったあと伊予にむかった那須信吾らもここをぬけたという「三嶽越え」である。彼らと同じ道をたどる。そこから東にすすめば横倉山をへて越知市街、西にいけば仁淀村の森などまで。そして北にたどれば仁淀川ぞいのいくつもの集落にとどくことができた。
 また大平部落の上方に「木地ヶ奈路」という地名が残っているそうである。いまは植林のなかだが、たぶん木地師たちが一時たりとも住みついたところであったのであろう。
 それにしても沢には水量がおおい。まとまった雨はしばらくふってはいないのに、尾根まぢかになっても音を立ててしぶきを上げて流れている。よく見ると水は方々からわいているようで、なかには木の根の部分からも伏流水がこんこんとわき出していた。周辺に裸になっている山は見えないし、自然広葉樹まじりの、植林の木と木の間隔も適当で下草も生えているもよう。歩道から森のなかに一歩踏みこめば、クッションのような靴底の感覚。豊かな森とはこのような森のことをいうのかと思った。
 三方ヶ辻の頂上はこの「三嶽越え」からそれほど遠くない。植林の斜面を登り、スズタケが出はじめた、なんでもない植林の中ののっぺりした頂に三角点は見つかった。それは南面のたけだけしい岩稜の姿からは想像もできないほどの安逸な様子であった。

 
 漂泊の山の民。ナラやブナなどの木を切り、ロクロと利器を駆使して食器などの什器を作り、それを下界で売ることによって生活の糧を得ていた日本のジプシーのような人々、木地師たちのことである。
 何処の山でいかように住まおうともお構いなしの免状を持った彼ら木地師たちは、諸国の山々を移動してそこを生活の場とした。そのおり、視界の遮られた険しい谷筋を行くより、ときには四囲の展望の広がる山筋を開きながら辿るほうが、良い材料を得るためには得策だったであろう。その結果、主要な山系の尾根尾根には自然と道ができ、そこを山師たちや猟師たち、修行僧、その他の移動する薬売りのような商人や鍛冶屋などの職人たち、そしてときにはいくさに敗れた落人たちも通った。あるいはその順番は前後したかもしれない。こうして山々を巡らす尾根道は着々と充実していったのである。
 それらの道は平坦な谷筋の道が切りひらかれるようになるまでは長く里の人々にとっても主要な移動手段となった。


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洗場山         939.3m         三等三角点         大崎

 越知町と仁淀村境、仁淀川水系と大桐川、長者川水系にはさまれた、いわゆる平家ゆかりの地、三嶽三山のすぐ北にある山である。アライバヤマ。

三角点のすぐ近くからは大いなる展望が

 
最初、林道越知長者線から三嶽越えを峠まで登り、そこから西に町村境の尾根に出、三角点まで北上しようとしたが、すさまじい高低の木々の枝やスズタケのヤブ、倒木、それと重複する急坂などにさえぎられて断念せざるをえなかった。復路にはすでに、峠から林道までの途中から北西に斜上する危うげな道を頂上まで辿ってみる元気や、時間もなくなっていた。
 つぎの週末、吾川村大崎の方から逆に越知長者線にはいり、加枝谷ぞいの作業道からアプローチした。途中からはゲートのため、歩きである。急な植林の斜面を、右へ左へと曲がりくねりながら町境の尾根に近づいていったが、決して尾根と交わることはなく、100ないし200m下をトラバースするように作業道は南につづいていた。水源涵養林(かんようりん)とかで、植林されたばかりのひらけたところに出て、ナビをして位置を確認する。三角点の頂の東側にいるようだった。見晴らしはそこからは上にも下にもきいた。
 引き返して、傾斜の比較的ゆるやかなところから町境の尾根に出たが、そこからは三角点まで15分足らず。大きな石で垣のように囲まれた中央に標石は凛と立っていた。それに腰かけて昼食をとる。その後、下の作業道から見えていた南側のひらけたところに行ってみたが、どうしてここで食事をしなかったのかと後悔するほどいい景色だった。
 南側に、標高1000mをわずかにこえる頂が聳えるように見える。どうしてあそこまで行かずに帰れよう。左に風景を眺めながら辿る稜線はアップダウンがきつくて、喘ぎながら登る。思っていたとおり、その山巓(さんてん)からは圧倒されるほどすばらしい秋の風景があった。すとんと一段下には、石灰石の大岩や白骨樹がススキの原のところどころに点在し、正面には黒森、さらに先には手箱や筒上山が、そして雲を頂く県境の山嶺も見えている。東に霞んで見えた市街地は高知市だったのだろうか。遠くで聞こえるモズの声で空気の清涼さがさらに増した。

 
 誰もいない頂にたたずむ三角点は 蒼然と古ぼけているのがいい あやうげに倒れかかっているのもいい 苔むして笹や落葉に埋もれかけていたらなおいい


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川渡山         598.8m         三等三角点         大崎

 仁淀村の長者川ぞい、川渡の仁淀中学校の上方の山である。カワドヤマ。

段々になって下の方まで集落がつづいている

 詳細に県内の山地をめぐっていていつも驚くことだが、急な山腹をくねくねと何キロも登ったさきに立派な集落が現われるのである。今回は、戸立がそれで、さらに奥にもまだあるようであったが、どのような過程で人々が、このような場所で生活をはじめたのであろうかといつも思う。谷のほうに斜面が切れ落ちて、段々に下のほうの集落が見えて谷の底のほうに風景がつながっている。傾斜につくられた茶畑で何人もの人が働いていた。
 そのころから天気予報どおり小雨が降りはじめたが、ここまできたら雨具を着てでも、歩くつもりであった。分岐した林道に登山点を決めかねる。さらに、地形図の境目ちかくの山で、となりの「柳井川」を持ってきていなかったのも迷う原因のひとつだった。車をたびたび下りては、山側に山道はないかたしかめる。はっきりしないまま数年前に開通したばかりの林道へ入ったところで、ようやく登山点と確信できる尾根上のソマ道を見つけることができた。雨はさいわいやみ、ふたたび降る空模様でもないようだ。
 三角点には予想外にはやく着いた。まだまだと思って通りすぎようとしたら、林のなかにチラッと白い国地院のポールが見えたのだ。落ち葉にあまり露出度のない標石は埋まりかけていた。長者川べりの集落が林のあいだから見える。車に帰る途中の斜面に高い送電鉄塔が立っていた。そうとう高い。50m以上ありそうであった。見ると、それは葉山村に最近できた風力発電機群からの送電のためのものであった。

 
「「何らの名誉も功名も求めず、氷や雪の近くをさまよい、あるいはモミの森の中に入ってそこで焚き火をして煙の臭いをかぎ、あるいは終日草や花の上に静かに寝そべり、風の声を聞き、青空を仰ぎ、聳え立つ巨大な峰々の姿を眺めつつ、時をすごす」、そんな山登りがあってもいいはずである。」

小泉武栄『登山の誕生』 日本近代登山の発展


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尾川山         583.3m         三等三角点         長者

 佐川町西部の山。南に古畑、北西に峰、西側には長谷渓谷がある。オガワヤマ。

さびしそうだった三角点

 古畑山に登った帰りに下見していた、林道小奥川
内線分線を700mほど走ったところから入山した。すぐのところに幹が5本に分れた大杉があったが、下山時にゆっくりすることにして通過。右に舞いこむ形でしっかりした山道が上っていたので、それについて登ってみたが、いつまでもトラバースするばかりで一向に主尾根に向かおうとしないので、20分ほどの後、大杉まで引きかえして、そこから再び主稜線をめざした。

 最初、二つほど北側の尾根を登る予定であったのだが、谷沿いに踏み跡がみつかったので、それを行ってみることにする。それが道であるかと言えば、あるかなきかの原始の道である。そのうち、それもはっきりしなくなると、谷を左右下に見下ろしながら斜面をトラバースして登高していった。主稜線に出る手前の斜面はとくに急で、そこは、足場をさがしながら、ツエでつっぱり、あるいは小喬木の幹を身の支えにしながら登攀しなければならない部分だった。尾根には茂っているものの道もある。その上高低差ができるだけすくなくなるように均されたものである。
 頂上の300mほど手前に、新しい三角点(四等?)と書かれたものが新設されていて、プラスチックの標柱の上に立てられた赤白ポールには測量旗が2枚結わいつけられていた。そこからは虚空蔵山など東側がよく見える。しかし霞んでぼやけ、クリヤーでないことが残念であった。尾川山の三角点は植林のなかだが、東側は自然林のままである。どちらの国道からも遠く人工的な音は聞こえてこないが、夏の終わりが惜しまれるのか、忙しげなツクツクボウシの鳴き声だけが林間にみちていた。

 
「一体私の山岳趣味は、生活の単調――誰でも生活は単調なものであるが――と、味のない境遇とに倦(う)み疲れた頭を、高大な、フレッシュな、そうして変化の多いもので、強烈に刺撃したいといふところから来てゐるから、何でも極端が好きだ、極端に愛し、極端に憎む、――随つて年々夏は荒寥と 恠奇(くわいき)とを、きはめた、日本アルプスに入つて行く、こゝの土には肥料(こやし)の匂ひがなく、草木は人情化(ヒューマナイズド)されてゐない、こゝは私に取つては、暗くて華やかな、原始的風景画を、無数量に陳列された廻廊で、殆ど人の入らないところであるから、まあ私一人が、 放縦(ほうじゅう)に貪り見る特権を附与させられたのか、と思ふと、一種の矜誇(プライド)を感ずると、同時に、年に一回、海抜一万尺の牢獄に入つて、初めてホツと息を吐き得るほどの、生の圧迫と、凡べての人類から投げ出されてしまつたやうな、 たより(、、、)のない哀切をも、感ぜずにはゐられない。」  

小島烏水『日本アルプス』第一巻   白峰山脈に入る記


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天狗石山         811.4m        三等三角点        長者

 仁淀村と越知町の境界にある山。長者地区の上方、「星ヶ窪」の北東1.5kmに位置している。テングイシヤマ。

「星ヶ窪」に立ち寄った

 左足首をいためて
3回目の山行。いままでの自由自在に、風のように心身ともに颯爽と健康な足で活動できていたことがいかにすばらしいことであったかということがよくわかる。とくに精神面がこれほど大きいダメージを受けるとは以前には考えてもみないことだった。羽根をもがれた小鳥のような悲しい心境にわたしはまだ落ちこんだままである。

 山に近づいたころ、霜や氷でゆるんで崖が崩れていた。崩壊は昨日から今朝にかけておきたものだと、近くで彼岸用のサカキを採っていたおばさんらは言う。越知側の田代に廻れば同じ地点まで行けるそうであったが、時間のロスになるのでそこから歩くことにした。林道は、そこからほぼ等高線沿いにではあるが、じょじょに高度を下げはじめ山から遠ざかろうとしていた。引きかえし、切り返すように上っている山道があったのでそこから登ることにする。痛くて力がかけられないので、崩れてすこし危険な斜面を手をつきながらトラバースして山道にでた。すぐに使いこまれた峠。そこから尾根を北につたう。予想どおり急坂になり、ときには立木にぶらさがるようにつかまりながら体を上方に運んだ。やがて尾根は北から東にふると同時に、傾斜はゆるやかになって、風景を楽しむ余裕もできた。頂上の仁淀側は植林であったが、そこはまだ周囲が自然林で木々の間からながらよく見える。右には葉山の風力発電機群の山。左には雪の県境の山々や鳥形山。中津明神山の雪はかなり融けて、2週間前には白山であったものが今日は富士山のようだった。
 頂上の三角点にはおだやかな木漏れ日が落ちていた。北東には三嶽西山。記念撮影などをすまし、そこで昼食。このような足でよくここまで来られたものだと、ある意味満足し、しあわせだった。陽光にも、ひさしぶりに黄砂もない澄んだ風や空気にも、もちろん緑と大地の環境にも、そのどれにも「ありがとう」と声をかけたい気持ちであった。

 下山後、「星ヶ窪」を散策し、林道を移って、「長者」三等点
702.4mにまわった。林道からすぐ上に葉山からの「風力発電線No.10」鉄塔があり、標石はその上の尾根の若いヒノキの植林のへりにあった。イノシシのせいか、植林のなかは掘りかえされて歩きづらかった。

 
「死出の旅は辛く、その路は険しい。目的地は遠く肩の荷は重い。なんじ、ただちに旅の支度にかかれ。いたずらに時を過ごすなかれ。なんじの仮寝の家に執着するなかれ。」

オスマーン・イーザーニ(十七世紀のウルド語詩人)

ラインホルト・メスナー、レッサンドロ・ゴーニャ『K2 七人の闘い』


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姫野々城山         193m       三角点はない       長者

 葉山村の山である。葉山とは端山、羽山などとおなじ意味で、里に近い山を意味し、日本各地に同様の地名がある。戦国大名がその地を治めるのにも山岳を背にしたそのような地形がよかったのだろう。ヒメノノジョウヤマ。

土佐戦国時代の雄津野氏の居城であった

 1500年代の戦国時代途中まで、土佐七守護と呼ばれる七大豪族がいた。安芸氏、本山氏、山田氏、長宗我部氏、吉良氏、大平氏、津野氏。そして、この姫野々城山はその津野氏の居城のあった山である。
 13世紀(10世紀の説もある)土佐に入り、「津野五千貫」と言われる名家となった津野氏は、室町時代には義堂、絶海の名僧も輩出して文化面でもさかえたが、1571年津野勝興が長宗我部元親と和睦し、元親の三男親忠を養子にむかえて実質的にその軍門に下った。
 平成6年から8年にかけて葉山村などにより発掘調査がされ、遺構や埋没物が日の目を見た。その後遺構は埋めもどされ、現在公園状に整備されて案内板や看板が方々に立っている。中腹の白雲神社裏の登り口には大きなトイレなどもあったが、あまり訪れる人もすくないのか階段や手すりなど、整った遊歩道も、はや草が茂りはじめていた。
 葉山村へはシドニーオリンピックの女子マラソンを聞きながら行った。それは高橋尚子が金メダルを取った歴史的瞬間だった。そして向かう先も確かに歴史の瞬間を占める遺跡の山だった。

 
「分け入っても分け入っても青い山」             

種田山頭火


 種田山頭火(たねださんとうか 1882-1940)も、芭蕉のように半生を放浪にあけくれた俳人である。44歳で、山頭火は山口県から家や家族、彼をとりまくすべてのものをすてさって旅にでた。自由律の俳句を伴として、急かれるように追われるように彼自身の旅を歩んでいったのである、愛媛県松山市御幸町の草庵での臨終の時まで
 


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内山         544.1m         二等三角点        長者

葉山村の山。点名は川内である。カワノウチヤマ。

登り口辺りから山頂を見たもののようである

 2000ヶ所以上にある高知県内の三角点をすべて登りつくすことは一人の力では無理だが、二等三角点あたりまでは、かぎりある時間の間にもできそうに思う。その県下100ヶ所ほどの二等点のうち、二つは宿毛市の島にある。鵜来島と姫島で、後者は無人島。わたるのは船を雇えばいいとして、おそらく山道は亜熱帯のヤブの中に消えていようから標高差二百数十メートルをその日のうちに登りきることが可能かどうか。先のことなのにもうそんな心配をしている。
 内山もそんな二等点の山の一つであった。何年か前までは伐採あとから南側にすばらしい展望がひろがっていたにちがいないのだが、いまでは小喬木からイバラ、背の高いシダ、それにカヤまでが、うるさいほど繁茂して行動をさまたげる。登るのに2時間、下山に要したのはわずか30分と言えば、どんな状態であったかは、すこしでもヤブ漕ぎの経験のある人になら想像していただけると思う。
 頂上の北側はヒノキの植林、南側は今までのべたようなシブリになっている。南東の方角だったか、そちらの方にすこしだけ開け、山が見えていた。日の光のさし込む三角点広場のほぼ中央に、頭の何ヶ所もかけた二等点の標石があった。
 そんなわけで入山中にはほとんど景色をたのしむ余裕はなかったが、登り口の林道「床鍋川内線」の峠からは北にも南にも開放的な展望がひろがっていた。午後には登ることになる葉山の北山と、その山腹をジグザグとあがる車道の線がとくに目についた。

 
「ヒマラヤに「東方への誘惑」が在るように、この「壁の中の壁」には終わることない魅惑と吸引力が潜んでいる。」    

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』


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黒森          984.0m          四等三角点         長者

仁淀村と越知町、そして葉山村の交点にある山。三角点はすこし葉山村から外れているがそれもわずかである。正確には標石から50mほど南で3町村は交わっている。クロモリ。

南ノ川山方向より黒森を望む

 葉山村の町の北側に壁のようにそびえ立つ山並み。地元の人はそれを「北山」と呼んでいる。高知にも「北山」はあるが、葉山村の方がさらに険しくそれに高度差もある。なにしろ街区のすぐそばに1000m前後の峰々が連なっているのだからすごい。車で、電光を切りながら、斜面をじわじわと登っていくその途中に見える下界の、あまりに急角度で落ちている様子に恐怖感さえ覚えるほどであった。
 登った日の午前中、新荘川をはさんだ対岸の川内山の方から、黒森の姿をそれほど遠望でもなく見ていた。凡庸ではあるがはっきりしたそのふくらみに、これから行くぞ待っていてくれの期待をこめた気持ちでながめたものであった。
 尾根に出てからも文字どおりスカイラインが通じていて、この山も頂上までそれほど時間はかからない。途中には岩の多い山腹に自然林ものこり、ますます期待感はふくらんだが、三角点周辺はうっとうしげに育つヒノキの植林の、なおヤブ気味のところで、ちいさくてピカピカの四等点の標柱は見つかった。

 
 紀伊半島の、伯母子岳に向かう縦走路の途中に、「口千丈岳」という三等三角点の頂があって、そこにも他のささやかなピークと同じく、いくつかの山岳会や個人によって、意匠を凝らした山名板とか記念の札が、そばに立てられたり、枝にぶら下げられたりしていた。そのなかに、大阪府の人によって残された、「人体部分名シリーズの山」という金属製の記念プレートがすこし奥のほうに遠慮がちにあるではないか。たしかに口であるから人体の部分名である。何十分も行かないうちに今度は、「牛首山」、さらには「牛首の峰」があらわれて、関連する名がつづいた。そしてつぎに行った護摩壇山につらなる山は和歌山県の最高峰で、山名は「耳取山(丸山)」といった。
 わが高知県には、人体部分名の山がいくつあるだろうかと思い、ひろい出してみる。何山か見つけることができた。疑問符のつく山もあるが、そこはご愛嬌ということで、巻末の「人体部分名の山」をどうぞ。


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萱ヶ成         1003.5m         二等三角点         長者

葉山村と仁淀村の境界の尾根にある山である。カヤガナロ。点名に同じ。黒川あたりの集落で黒川森と呼ばれているのはこの山のことをさしているのだろうか。また名前からして昔はカヤ(萱、茅)の生産場であったはずである。

北山縦走路。現在は風車公園になっている

 夏も冬も毎日登って、谷川岳に2000回登頂をめざす人がいる。また元南極越冬隊隊長の故西堀栄三郎氏は生涯2000の山々の頂をふんだという。どちらにしても私たち凡人にはできないことである。もっとも縦走した際の、一つ一つの峰の名を重箱のすみを突っつくように拾いだしなどすれば数もずいぶんふえるだろうがそんなことはしたくもない。数ではかなわないが、どちらかといえば私は西堀さんのような登り方のほうをこのむ。三嶺に100回登ったと自慢する人もいたが、私としてはそれよりも、もっと色々な未知の頂をたずねてみたい。そこに何があるだろうか、どんな雰囲気なのだろうかと。
 萱ヶ成の頂上はまばらな広葉樹林の中のいたってのんびりしたところだった。崖もなく急な段差もなくヤブもない。女性的な曲線のそのイメージは悠揚せまらざるといったところか。曇天のやわらかな光線の中でその光景を見たせいもあるかもしれない。

 
「いかなる山もひとりの人間の命には価しない」    

ヴァルテル・ボナッティ


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中野峰        1015.9m         四等三角点         長者

葉山村と仁淀村の境にある山の一つである。葉山側の中野集落の持ち山ででもあったのだろうか。それはともかく、この辺りの山はみんな葉山村のほうを向いている感じがする。ナカノミネ。

雨が近づいていた。今はここも風車公園の一部である

 私の持っている平成2年修正測量の地形図には、葉山村北山の尾根まで上がり、さらにそこを縦貫するスカイラインが描かれていない。最初、萱ヶ成をはじめ、これら尾根上の山々にアプローチするために、歩いてそこに出るコースを真剣に検討したものであった。車道ができていることがわかったいま、そこから黒森や萱ヶ成、それに中野峰、あるいは他の道路沿いの三角点、どれにしても、車を使ってただおとずれるだけなら時間もかからず呆気なさすぎる感がある。私の場合も(川内山からの帰途に寄ったのだが)2時間足らずの間に黒森、萱ヶ成、中野峰をすべて登りおえてしまった。歩きたりない。一つにまとめて歩くぐらいがちょうどよかった気もする。次回は高知の北山を歩いたようにそうしようと思う。
 頂上の北側の植林が伐採されたばかりだった。文句のつけようもない展望がひろがっているはずであったが、あいにく天気は落ち気味。幡多のほうから雨が降りはじめたことをラジオが先ほどから告げていた。ベールのかかったような状態ながら、隣の、もう山とは呼べないほど、印象的だがあわれな鳥形山は確認できたが、さきほどまで見えていた、雪をかぶった県境の山などはすでに雲にかくされていた。天候と時間にせかされて、あわてて車までもどると、それを待っていたように雨がポツポツ落ちはじめた。

 
「八ヶ岳の縦走といえば、以前は夏沢峠が稜線上の起点あるいは終点だったのだが、いまはふもとの交通事情が便利になったのと、山小屋ができたおかげで、北から南に縦走する場合は黒百合平から始める登山者が増えるようになった。こうすれば、同じ日程でも天狗岳を一つ余計にかせげるわけだから、たしかにこのほうが効率的な歩き方だとはいえる。そのかわり、心に残る深い山歩きの味わいは、こういう忙しい縦走登山では得られない。」

山口耀久『八ヶ岳挽歌』 八ヶ岳八景


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川山       842.4m        三等三角点        萩中

須崎市、中土佐町、それに大野見村の交点にある山である。派手な蟠蛇森が、須崎市でもっとも高い山だと考えていたが、よく調べてみると西の端にさらに高い山があることに気がついた。それが朴川山だった。ホオノカワヤマ。

久礼市街より見る朴ノ川山

 荒れた林道を四駆に切り換えて乗りきり、その奥詰から登りはじめる。山道は枝葉が茂りはじめていたが、それでも頂上までずっと切り分け道が確認でき、迷ったり、ひらいたりする必要はなかった。町境をぐるり歩いてまわったという中土佐町の職員さんが1時間50分かかったという行程を1時間ジャストほどで登った。三角点周辺は植林の外れで、大きくない広葉樹の林に囲まれ、空から陽光が降り注いでいる。景色は見えないといっても、鬱蒼としているということもなく、十分に明るかった。すこし手前に下ったところに、山々や海、すこし遠めながら久礼の市街などがのぞめるスペースが、道の左手にあった。
 川山は須崎市と中土佐町の最高峰である。久礼の市街からも、その近くの国道からも格好よく見えた。それは名実ともにこの山が、中土佐町を代表するそれであると認識するにたる光景であった。

 
「われわれは明け方に、夕べの栄光が判らぬような一日を持ちたい」

オスカール・エーリッヒ・マイエル


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土ノ森         641.3m         三等三角点         萩中

 大野見村の北東部、葉山村寄りの山である。ツチノモリ。

木々の間から周囲の山々が見えていた

 大野見村は窪川町の七子峠が表玄関のように思われて、今回使った「萩中須崎線(県道
317号線)」などはなんだか裏口からこそこそと村に入っていくような感じがする。道幅はやっぱり狭くてダンプカーなどとのすれ違いに苦労をした。目的地にちかづき、地形図にある東側から土森のほうに伸びている作業道に入る。道には、路面を保護するために流水を遮断するように掘られて下側に土盛りされた排水溝が間なしに設けられているのだが、その段差があまりに大きいので、越えるたびにさすがの四駆車も底をガリガリこすれる音がして神経にこたえる。なんとか奥までたどりつき、結局そこから登ることにした。

 さらに上方にキャタピラ車の道が見える。コンパスとGPSで確かめながら山に接近してゆき尾根に近づいたところで斜面をよじ登った。その後も、頂上まで急坂つづきで木につかまりながらである。三角点のまわりもやはり四方急傾斜で、いかにも山頂という感じ。木々の間から周囲の山や谷がのぞいていた。とくに北面は落葉していて、葉山村の風車群、それに続いていることから鶴松森や駄場峰などはすぐにわかった。
 慎重に作業道をくだって県道に出、大野見村役場のほうを回って「窪川中土佐線(県道41号線)」の夏枯峠をへて、つぎの峠から「大川谷」三等点373.8mに登る。最初トラバース道を行こうとしたが歩きづらいうえ、どこに出るかはっきりしないので、引きかえして峠の崖にそって尾根に出、主稜まで詰めることにした。ところが上るにつれてシダのヤブがひどくなり、冬のさなかに汗を流しクシャミを連発しながらそれを押し分け刈り分け、1km足らずの距離を1時間かけて三角点までたどった。「点の記」は平成元年記であったが、形跡から最近再測量が行われている。その国土調査のピンクのテープは私たちが来た方からではなく反対側の北からの尾根に見えていた。

 
   ああ、もう目が見えぬ 耳も聞こえぬ、まもなく死の静寂がおとずれよう
  だが 余は、信の置けぬ人間どもを治めることよりも 
  名も知らぬ草や木、虫けら、それに たとえ人を喰らう獣であろうとも
  それらを密かに構った この世での時を だんじて悔いはせぬ


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上ヶ倉山         586.0m        三等三角点        萩中

 大野見村の中央やや南寄りの山である。この山から西に尾根を伝えば、じょじょに標高を上げながら鈴ヶ森にいたる。カミガクラヤマ。

木漏れ日に浮かび上がる三角点

 登路にえらんだ奈路からの谷は防城谷(ぼうじょうだに)と呼ばれていたそうである。上ヶ倉山の南のほうの頂には中世、城があり、葉山の津野氏に攻めたてられたおり、この谷が敵を防ぐ手立てとなったと地元の男性は話してくれた。その谷を西の峠まで上り、そこから北上して登頂する計画である。峠道はむかし川口と槇野々を結んでいた。四万十川がここで大きく蛇行していて、それをショートカットするための道である。入り口近くの民家の女性は「もう 60年、峠まで登ったことがない」と話していたとおり、道はわれわれを峠まで何事もなく届けてくれはしなかった。小さな滝の上であやうく迷いかけたし、峠に近づいてからは道は消え、木の間越しに透けてみえる空を目がけて登らなければならなかった。

 尾根は全体的に空けていてナタを使うことはあまりなかった。東側には数か月前に登った横山などの山が見えている。頂上につく最後の登りのところから三角点が木漏れ日で白く浮き上がっていたのが印象的だった。カラスが何羽も頭上でけんか腰に鳴き合っていた。本当にけんかしていたのか、それとも、近くに巣でもあったのか、はたまた合コンでもしていたのか。
 下りは50分もかからずに車までおりた。そのまま車に乗り、早朝のチリでの地震による津波がくるので早く帰ろうという妻をなだめて、下見をしてあった久礼坂の途中の避難所まで移動をした。「高畑山」三等点219.6mに登るためである。それから急な斜面をよじのぼった。道のある名の売れた山にはこんな山登りはない。ジグザグに道を切ってあるか、ステップがあるか、それともクサリやロープを付けてあるかである。それらのことをすべてわれわれは自らでやらなければならない。日光の入るところではシダが茂っていたが長くはなかった。左に回りこむように登っていって40分ほどで三角点につく。想像していたよりゆったりした照葉樹のなかの広場だった。すこし露出気味の三角点のまわりには、ヤブツバキが花を落とし、それが木漏れ日であざやかに赤く浮かびあがり林中に目だっていた。

 
「羅馬(ローマ)はシーザーに与えよ、そして私には山を――」         

小島烏水


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川山         552.3m        三等三角点        萩中

 大野見村の中央やや北東寄りの山。3.5Kmほど東に朴川山がある。クダルカワヤマ。

小学校跡から見る下ル川山

 最近廃校になったばかりの大野見北小学校に駐車させてもらい、奥の石段をあがって神社の左手から登りはじめる。最初のうちはごく急坂であったが、上るにつれて傾斜は緩やかになっていった。頂上近くまで道はあったものの枝や小喬木を払いっぱなしだった。空気は冷たいくらいで気分がいい。トラバース道から尾根道に移ると、新芽や若葉、ツツジやスミレなど、森は春の装いをはじめていた。南や西側に案外山が見える。それらをカメラにおさめるために妻がゆっくりなので、所要時間も計ることができないと急かした。
 頂上の三角点はシダや小さなマツの木など小喬木のブッシュにうずまっていた。南はいっぱいにひらけて、正面に横山などの山々が見えている。それらを眺めているうちに妻が標石を見つけた。きれいに刈りひろげて記念撮影をし、その後、すこし離れたところにPCMレコーダーを仕掛けてきてから、ヤブの外で昼食にする。するとそれまで近くで鳴いていたウグイスなどの声が遠のいていた。ヤブを刈るまえにレコーダーをセットするのが正解だったようだ。これも学習をくりかえさなければうまくいかないだろう。
 50分ほどで下って、学校の校庭から今日登った下ル川の頂を撮った。登山口と頂上が一枚の写真におさまる。そこでは頂上以上におおきなウグイスの声が響いていた。

 
 十二支の動物名の付いた山は、現在のところ、全国に365山あるそうである。多い順に辰(龍、竜)の81山(瀬戸内に竜王山が多い)、牛(馬)の71山、酉(鳥)の70山、丑(牛)の35山、申(猿)の25山、戌(犬)の21山、巳(蛇)の17山、卯(兎)の14山、亥(猪)の13山、寅(寅)の9山、子(鼠)の5山、未(羊)の4山である。

石井光造『山を楽しむ山名辞典』より

高知県の十二支の山は巻末の「十二支の山」を見てほしい。


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子山        1463.5m        三等三角点        面河渓

愛媛県面河村と池川町の境界にある山である。コウノコヤマ。

草原山より見る川ノ子山

 椿山集落から伊予の河子を結んだ峠、高台越までトレースできる山道が今でも残っていた。途中の林業作業小屋から先はすこしあやしくなったが、それでも迷うことなく峠まで達することができた。愛媛大のワンゲル部の残した峠名を記した木板が草むらに見えた。
 そこから「高台」四等三角点1280.4mをへて県境の尾根を北に伝ってゆく。荒れてはいるがひらく必要のない道が続いていた。しかしそれもいつしか消えやがて腰ほどまでの笹を踏み分けながら辿るようになった。いくつかの頂を越え登りきった先に川子山の頂はあった。畳半分ほどの平坦地に、欠けのない三等点が俗塵をはなれて気高く立っていた。
 ピークらしいことと周囲の木々がそれほど高くないこともあって、かなり展望がきく。北東の方角には椿山やこれから向かう草原山がよく見える。北には石鎚山や二森、堂ヶ森にかけての稜線が曇天の午後の光線でシルエットになって浮かびあがり、左側に振りむけば明神山とそれにつながる山波が望まれる。小鳥がすぐ近くまで寄ってくる。コガラとかヤマガラ。ありふれた鳥だがかわいい。このあと妻を残してひとり草原山に向かった。

 
「偉大な絶壁や広漠とした沈黙の雪原が生みだしてくれる独立と自己信頼の感は、なにかそれ自体が心たのしいものである。一歩一歩が健康であり、たのしむ心であり、浮々した気分である。人生のなやみや心配は、拝金主義社会の根本的な俗悪と一しょに、はるか下方に取りのこされる。───それは低い底にこびりつく邪悪な瘴気である。谷間の上では、清らかな大気とあまねく照りかがやく陽光の中で、私たちは物しずかな神々と共に歩み、人間はお互いに、またひとりでに、なんのために存在しているのかを知ることができる。」

                AF・マンメリー『アルプス・コーカサス登攀記』


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雑誌山          1327.6m        三等三角点        東川

池川町と吾川村の境界上の山。点名は「赤滝」である。ゾウシヤマ。

頂上は笹でいっぱいだった

 どうしてもザッシヤマと読んでしまう。教えられなければゾウシヤマとはわからない。『日本百名山』でも、武尊山の中で深田久弥は「武尊をホタカと読める人は、山好き以外にはあまりいないだろう」と言っている。雑誌山もおそらくそうだろう。
 頂上は広葉樹と笹の混生だが、ほとんど展望はひらけない。水の峠から縦走するにしても、すぐ下の大規模林道から登るにしてもそれほどむずかしいことではない。わたしたちは後者をとった。むかし、水の峠をとおって愛媛県にぬける往還、高山道があった。この山の北側斜面をよこぎって県境の黒滝峠を通過する往来である。
 江戸時代末期、勤皇の志士、中島与市郎が脱藩しようとして追っ手をかけられ、ここ水の峠で捕らえられ強いられて切腹してはてたという。その殉難の碑のそばには祠があった。またミニ八十八ヶ所などもあり、歴史を感じさせる。
 西の方、県境近くには湿潤地の「からいけ」があり、初夏などには特有の花々に恵まれるようである。私たちがこの山を訪れたとき、林道を牛が三頭、列になって悠々と歩いており、行きすぎるまで、しばらく停車をして待たねばならなかった。ほのぼのとした思い出である。

 
「テントの外では、ゼム・ギャップの遠くに稲妻が光った。カンチの絶頂が、霧のとばりの上に――名も知らずに――まばたいている星空に向って、高々と、そして近づきがたく聳えていた。
 短かい期間ではあったが、達することを許された最高地点から別れ去るのはなんといやなことだろう
 人間の到達を許さなかった大きな目標を放棄することはなんとつらいことなのか
 人生に、永遠に人間の到着をこばんだままでいる目標以上に高い理想がありえようか
 一つの生命に唯一無二の生甲斐を与えてくれる目標こそ、真に偉大な理想ではないだろうか
 カンチ、どんなふうにいったらお前のことをうまくいい表すことができるだろう僕たちはお前を決して忘れはしまい――」

ハンス・ハルトマン『カンチ日記』 九月二十二日


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雑誌西山        1341m        三角点はない        東川

 愛媛県美川村それに高知県池川町と吾川村の交点にある山である。雑誌山と尾根続き、西隣に位置する。ゾウシニシヤマ。

頂上の近くで眺望を楽しむ

 黒滝峠から県境に沿って登った。いつの頃つくられたものか歩道がある。いや歩道の遺跡というべきか。倒木や路面にはえた木々により進行をさまたげられるが、しっかりと溝状に形がのこっている。御留め山時代の用材切り出しの道であったのか。それとも木地師たちのつくったものなのか。いまはもうそんな大きな木は山中に見えず、知るためのよすがも今はすでにない。

 頂上とされているらしい、「第一番」の山の石柱がたつ小広場のまわりは広葉樹林で、木漏れ日がうつくしかった。そこからはなにも見えないが、その前後の尾根上に、切りひらかれたところがあって、南向きに展望がひらけている。正面に鳥形山が見え、左端には雑誌山の頂、右のほうにはパラセールをいくつか浮かべた中津明神山、そしてその手前には、「空池」三角点の山が、盛夏前の明るい光線の下におおきく望まれていた。眼下の樹林のあいだに笹原のような窪地が見える。カラ池の一部だろう。これから空池山に登り、下山後そのカラ池をたずねるのである。
 県境線にそって下るつもりであったが、時間のこともあり、途中にあった間断なく赤テープのつけられた林間の切り分けをおりて、カラ池との分岐までかえった。

 
「僕は自分の両足のことを何度もくり返して書かなければならなくなったのがつらい。この日記にはすべてこれらの肉体的な事柄は黙って省いた方がよくはないかとも再三考えたが、今やっとわかった。僕の思索と体験が、この高所では自分の身体上の欠陥によって、こんなにまでも深く影響されるということが。僕はこのために自分と山との戦いが、はじめのころよりも一層困難になり、ゆるがせにできなくなったのを感じる。そしてとどのつまり、自分の小さな足をどのように扱わねばならないかに気づいたとき、以前にはとびはねて過ぎたような多くの場所でも、自分の全エネルギーを足の裏に投入しなければならないこともまた知るにいたった。それだから、僕にとっては山との戦いは、とりもなおさず自分の足との戦いである。――そしてこの足はしばしばたえがたいほど僕を悩ますことがはっきりわかった。僕に世話をやかせたもの、それをしっかり心にとめておくようにしよう。このことについては後でもう一度考え直してみたい。――
 それにしてもこのくだりはどうだおそらく僕自身一度はあとになって、これを笑うことだろう――」      

ハンス・ハルトマン『カンチ日記』 九月二十日


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小松峰         1235.2m        三等三角点         東川

 愛媛県面河村と池川町の境界にある山である。高台越えの峠から県境の尾根を西にたどるとき最初に出あう三等三角点の峰である。コマツミネ。

三角点からの眺望

 林道舟形線に入る。集落を過ぎ、舗装が切れ、さらに悪路を車で走る。さてどこから歩きはじめるか。林道の奥まで行ってみたり、引きかえして支線にはいってみたりして登山点を決定する。その良し悪しはあとに響いてくる。これがきっちりと決まれば登山は半分終わったようなものである。
 県境の尾根まで、非常に急だが、なんとか辿ることのできる山道が残っていた。稜線には、想像通り笹はあったが、高さはせいぜい腰まで。そのうえ、たいして濃くもないので歩行の妨げになるほどのことはない。さらに高低差も少なく、考えていたよりずっと速く三角点に到着することができた。標石は低い笹などに埋まっていたが、その上に赤白ポールが針金で支えられて立ち、そばに白い国地院の標柱も立っていたのですぐに見つかった。
 北側はヤブ気味で、小喬木の迷路と言ってよかったが、南には目のさめるような展望がひろがっていた。目前には、雑誌山や高森山、黒森山など。右端には明神山が、左の端には雨ヶ森。谷間にはどこかの集落が。かすみの先には太平洋も見えているように思われ、左右のみでなく、上下にもまさにさえぎるものはなかった。ウグイスやホトトギス、カッコウなどの声が遠くや近くで聞こえ、涼風がふいて、登行でほてった身体を心地よくさましていた。

 
「道なき道を鉈で切り開きながら進むことは野生動物に戻れたようで開放された気分になる。」                 

山野井泰史『垂直の記憶』 死の恐怖


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折尾山         1111.7m        四等三角点         東川

愛媛県面河町と池川町の境にある山である。三光辻山から県境を東に伝うか、あるいは中野峰から西進しても達することができる。オリオヤマ。

小さくて新しい四等三角点である

 高知県の山も、標高が千メートルをこえると笹類の心配をしなければならなくなるが、この山に登ってくる途中で、背の高いスズタケの密生には幸いなことに出あわなかった。それどころか頂上には低い笹すらほとんど見えない。空が開けて陽光が届き、遠くから、ああ三角点はあそこにあるのだなと判断できたが、その標石をかくしていたのは笹ではなく、やわらかい葉と茎を持った草たち。そこに来るまで県境の尾根には広葉樹の林しか見えなかったのだが、そこは植林の中で展望はまったくなく、頂とは言えないような平坦で、なんでもない平凡なところである。
 だがそうはいっても、人里離れた県境の稜線上である。小鳥の声は絶え間なく聞こえ、梅雨時であるにもかかわらず、ふく風はさすがにすがすがしい。三角点近くの下草のない植林のはずれで昼食をとった。まだ新しい標石のうしろ側には「037 890」と確かにきざみこまれている。まちがいなくそれは「折尾」四等点であった。

 
「人間の体は一度高度馴化をを身につけると二度目には前よりもいっそう容易に馴化する。」               

フランシス・スマイス 『カメット登頂』


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三光辻山       1215.3m        三等三角点        東川

愛媛県美川町、面河村と高知県池川町の交わるところにある山である。サンコウノツジヤマ。

目が覚めるほどの展望というわけにはいかなかった

 ある地方では、辻とは山稜とくに主稜の高みのことをいい、山と同じ意味につかわれた。三町村(三郷)が交わるのでついた山名であろうが、なぜ三郷の辻が三光に変わったのだろうか。四国にも棲む野鳥に、三光鳥という尾の長い鳥がいる。その鳥は「チーチョホイ(月日星つきひほし)ホイホイホイ」と鳴くことからこの名がついたのだという。だとすれば三光は太陽と月、星の光ということになり、三光辻山は趣あふれるロマンチックな山名に変貌したということになる。こちらの山名のほうが現代の山らしくてやはりいい。余談だが、土佐の葉山村あたりでは三光鳥のことを、梅雨の頃、「ハヨイケ ホイホイホイ」と田を耕す馬を催促することから、「馬追鳥」と呼ばれていたそうである。
 境野トンネルの上部450mくらい北に、昔、愛媛県側の西谷と高知県側の瓜生野を結んでいた峠があり、そこには蒼然とした地蔵が祭られている。この峠が旧「松山街道」の境野峠であったのだろうか。そばにある石に文久元年酉年四月と彫られていた。文久元年といえば1861年であるから江戸時代末期である。そのころにはおそらく、現在車が行き交うように、人々がこの峠をいそしげに往来していたのであろう。
 三光の辻山へは、その峠から北上した。すこし迂回するところもあったが、ほぼ県境の尾根に沿った山道を行く。ようやくついた頂上は広葉樹林のそばで、測量のためか、二方向の木々が切り倒され、石鎚山や雨ヶ森、椿山などの山々が見えた。またその途中には中津明神山が遠望できるところもあった。

 
「二年間の闘病生活でどうにか生命の危機を脱して、あきらめていた山登りもすこしずつできるようになり、それもいつのまにかまた以前のように岩登りに熱をあげることになって、ぼくは広河原沢には何度か足を運んだ。行くときは、いつも富士見で汽車を降りて、長い裾野の道を山に向った。ルックザックをかついでサナトリウムのわきを通るときに、ときどき裏庭の丘に寄った。裾野のむこうの阿弥陀岳はやはり大きく、広河原沢の岩壁をこちらに向けて魅惑的だったが、しかしそれはもう、憧れとあきらめの目にせつなく映った阿弥陀岳ではなかった。
 おそらく、あんなにひたむきな思いつめた気持で山を眺めることは、ぼくの生涯にもう二度とないだろう。」        

山口耀久『八ヶ岳挽歌』 八ヶ岳八景




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