薬師堂山     362.8m      四等三角点     大崎

 越知町中央部近くの山である。尾根を南に伝えば「栂森(「横畠」三等点)」に至る。ヤクシドウヤマ。地形図

雲が流れて山々はすぐにかき消された

 天気予報がよくないので、予定していた幡多行きはやめ、仁淀川の沈下橋を巡ることにした。最初はすでに何回も写真に撮ったことのある名越屋沈下橋。国道
194
号線に入って間もないところである。仁淀川本流は全体に梅雨の雨で薄く濁り、仁淀ブルーは影をひそめていた。小雨の朝の光の中で撮影をすませる。川面や近くの山を半分隠そうとしているガスも写真にどんな影響を与えるだろうか。
 さらに出来地まで走り、194号線から県道18号線に移って、片岡小学校(休校)の校庭で屋上を指さして、「片岡小」四等点61.4mを確認し、そこからも見えていた「片岡沈下橋」に移動した。ここでも車から降りて歩き、撮影。その後、対岸の狭い道を走って、「ふるさと公園 ユスノセ」内で「梼瀬」四等点42.6mを見る。ブロンズタイプの標石であった。川原に出てみると沈下橋も雨にかすんで見えた。水がきれいな時なら泳いでみたい誘惑にかられたことだろう。
 さらに県道18号線を西に進み、「浅尾沈下橋」へ。写真を撮っていると、散歩に出てきたおじさんと、昔は川がきれいだったこと、これ以上汚れてほしくないことなどを話した。
 横畠橋を渡ったところで北の山側に入り、高度を上げて薬師堂まで走って、一段高いKDDIのアンテナのそばで、「薬師堂」四等点362.8mを見つけた。景色のいいところだったが、雲が動いて北の山はあっという間に見えなくなってしまう。ここは御影石、守り石つきの三角点であった。薬師堂は昔日、土佐と伊予とを結ぶ「松山街道」の道筋の村で、文化の通り道であった。観音堂で「自由は土佐の山間よりいづ」の自由民権の大集会が開かれたり、ジョン万次郎や維新の志士、それに東北征伐の土佐の兵士たちも通ったりした。山深いところであるが、歴史上から見ると、それほど隠されただけの場所ではなかったのである。

下りは筏津ダムの方に下りた。33号線に出、県境の方に走って、道標に従って仁淀川そばまで下り、昭和10年に造られたユニークな形の、「久喜沈下橋」を見た。濁流で釣りをする人や、その車が邪魔になったが、雨の中、傘をさしながら一通り撮影をすます。国道33号線にもどり、大渡ダムの手前で、長者川と合流した地点にある二つの沈下橋、「大森沈下橋」と「森(継合)沈下橋」を見学。どちらも古く、そばに新しい橋が頭上を通って、沈下橋はほとんど現役でない感じである。森沈下橋のかかる長者川は見事な清流のままで、本流の濁った水と合流地点で混じり合って流れていた。大渡ダムの下まで行き、アユを掛け釣りする人たちを見てから昼食をとり、越知市街までもどった。

まず、仁淀川から分れた桐見川をすこし遡ったところにある「越知沈下橋」を訪れる。古くて小さな橋で、ここでも釣り人の車がすこし邪魔になった。以前、子供たちを連れて泳ぎに来たところでもある。
 その後、越知町役場の屋上にある、「越知町」四等点79.0mを確認してから、すぐにその北の仁淀川にかかっている「中仁淀沈下橋」を見に廻った。こちらは大きな沈下橋である。バスがゆうゆうと通り、歩行者部分が完全に分離されている。長さもあるので、横から全体像を撮るのには川原の岩の上を相当遠くまで渡らなければならなかった。雨も降りやまず、早めに帰途に着き、2時半過ぎに家に帰りついた。帰ってからが写真や記録の整理でいろいろ大変である。

 
「人は昔も今も、さまざまな思いで山に登る。本来それは個人的な営為であるはずだ。だがそれが許されない時代があった。「行軍練成(れんせい)登山」や「山岳道(どう)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。戦争遂行すなわち国家=天皇のための登山、日本精神=武道としての登山が強要された時代があったのだ。山頂では皇居遥拝をせねばならず、登山に段位制すらあったのである。ちなみに加納一郎の年譜には「一九四〇年六月一〇日、登山参段(日本山岳会関西支部)の位を贈られる」とある。
(加納一郎年譜『自然の中で 加納一郎著作集4』 一九八六年 教育社)」                

河村正之 『山書散策』



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