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山と森の記憶4

県西部の山々です

山と森の記憶最近の山

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 境野山

 輪戸内山

 空池山

 中津明神山

 蕗ヶ谷山

 三方山

 鳥頚

 一ノ窪山

 町ノ木山

 鳥形山

 新倉山

 正木の森

 駄場峰

 黒滝山

 鶴松森

 不入山

 亀ヶ畑山

 矢筈峠山

 大森山

 鈴ヶ森

 角点山

 五藤寺山

 奈路山

 芹川山

 灘山

 久礼城山

 大小権現山

 火打ヶ森

 五在所の峰

 見付森

 志和峰

 六川山

 本堂山

 瀧山

 大谷山

 轟山

 天日

 茶臼ヶ森

 坂東山

 小元山

 三崎山

 扇山

 枝折山

 城戸木森

 東峰山

 藪ヶ尾山

 水持山

 宮内山

 さこ山

 大迫山

 熊ノ浦山

 大本山

 仏ヶ森

 鳥打場

 石鎚山

 白浜山

 御児谷山

 高山

 白尾山

 

 五段城

 生之越

 地芳峠山

 小牛城

 牛城

 万灯山

 三島山

 石神峠山

 高野山

 後藤山

 赤兀山

 丸野山

 日梼山

 遠見ヶ城山

 坊主山

 烏帽子山

 河野士山

 宇戸木山

 八ヶ森

 上天山

 一夜ヶ森

 源氏ヶ駄場

 韮ヶ峠山

 長曽山

 雨包山

 龍泉山

 桜峠山

 長崎山

 皿ヶ森

 上角ヶ岩

 松谷峠山

 高研山

 霧立山

 竹平山

 西峰山

 地蔵山

 笹平山

 重利山

 

 唐谷山

 崎山

 大又山

 大中尾山

 白石

 不動山

 堂ヶ森

 百塔

 

 

 古尾峰

 

 片魚山

 黒塔

 高畑

 浦田峰

 

 小川境

 

 佐田山

 飯積山

 香山寺山

 金山

 伊屋山

 深木山

 葛篭山

 森山

 譲葉山

 南平山

 長笹山

 横山

 ヒノタニ山

 白滝山

 鷹取山

 宮ヶ谷山

 三崎山

 石槌山

 巣山

 奥野川山

 大内又山

 笠松山

 大防山

 蔵王山

 半家山

 扇山

 白石(稗持山)





境野山      787.4m      四等三角点      東川

愛媛県美川村と池川町の境界上の山である。近世まで伊予と土佐を結ぶ要路、「松山街道」が境野峠を通っていた。サカイノヤマ。地形図

地味な場所に四等点はある



 県境の境野随道を抜けたのは、以前、三光辻山に登った折が最初だった。あれからどのくらい時がたったのか。歳月は留まることなく流れていく。四等三角点「境野」はそのトンネルの上の県境尾根を南に500mほど行ったところにある。もともと「(県)境の」というような意味であったのであろう。境野随道は「(国)境のトンネル」である。
 この山に登ったのは午後4時ごろからのことであった。もう太陽はごく斜めから射し、森の中の木々を明暗濃く見せていた。時間のこともあり県境の稜線まで直登のルートを取ったせいで、非常な急坂をよじ登るかたちになった。上部にはかなりはっきりした道があり、それを南に辿る。
 いつもながら四等点との邂逅は劇的でないことが多い。なんでもないところにあるからだ。この三角点も尾根道の西側のほんの小さなコブの上に無造作にあった。そばにプラスチックの標柱が立っている。急いで写真撮影までをすませ、下山にかかった。先ほどから風は冷気をおび、寒さを感じはじめていた。

 
「エベレストの標高は一八五二年にインド測量局の役人によって二九〇〇二呎、あるいは八八四〇米と確認された。それまでは、地形測量官はこの山にただ簡単な一五号という記号をつけていたのである。一八五二年まで、世界の最高峰と目されていたのは標高八四七九米のカンチェンジュンガだったが、この一五号の山によって大きく引きはなされてしまった。インド測量局の長官を勤めたサー・ジョージ・エベレストに敬意を表して、この新しく発見された世界最高峯はマウント・エベレストと命名された。しかしチベット人たちのあいだではチョモ・ルンマとして知られ、これは《国の母なる女神》といったような意味の名称である。」     

アルバート・エグラー『雲表に聳ゆる峯々』 ガラスの采

 
『雲表に聳ゆる峯々』は1956年にスイス遠征隊がエヴェレストと、その兄弟峰ともいえる当時残り少なくなっていた未踏の8000m峰のひとつローチェ(南峰を意味する。インド測量局記号E1)を登攀した記録である。
 ベース・キャンプからアイス・フォール(氷河の氷塊が崩れて乱れ立つ、このコース最大の難所。エヴェレストでの遭難死は最も多くここで起っている)を越えてウェスタン・クウムと呼ばれる巨大な氷河をさかのぼり、さらにローチェ・フェース(ローチェの山腹)の雪壁をのぼり、ジェノバ・スパー(サウス・コルから突き出した小バットレス=ジュネーブ人の尾根。サドル・リブ)をクリアすれば、サウス・コル(エヴェレストの南側の鞍部、反対側にはマロリーで有名なノース・コルがある)と呼ばれる広い平坦な雪原につく。そこを北に、前峰をへてヒラリー・ステップをこえればエヴェレスト、そのすこし手前から南にむかえば日をへずにローチェの頂なのである。
 1949年になって、ネパールの鎖国がとけ、エヴェレストなどに、そちら側からの接近ができるようになった。これにより1951年に探検に入ったイギリス、シプトン隊が、エヴェレストへの南側からの攻撃の可能性を世に提案した。翌1952年スイス隊は春秋二度にわたって遠征隊を送り、シプトンによるルートをたどったのだが、ランベールとシェルパ、テンジンが頂上直前にまで迫ったものの撃退されてしまう。そして1953年、とうとうイギリス、ハント隊によって世界最高峰の秘密は解かれたのだった。このときにも、ヒラリーとテンジンが初登頂する前に一次隊であるエヴァンスとボーディロンがやはり頂上に達せず引きかえしている。
 それから3年後、スイス隊は、当書のアルバート・エグラーを隊長とする遠征部隊を送って前回の雪辱を果したのであるが、この時にはまずローチェにおいて1パーティ2人が初登頂をし、そののちエヴェレストに2パーティ4人が頂上に達した。
 何が言いたいかというと、いかに登山というものは、先蹤者たちの肩の上に乗って階段をじょじょに上るように高みへと到り、また先行者の一度たどった道というものは次につづく人々の精神的負担をどれほど少なくしているかということである。初登頂から50年たった現在では、エヴェレストの登頂者の数はすでに延べ1000人をこえている(2005年までにのべ2557人)。



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輪戸内山     1258.7m    三等三角点     東川

 愛媛県美川村と池川町の境界にある山である。ワトウチヤマ。地形図 山岳幻想

黒滝峠の二体の地蔵さん



 高知県の県境をいったい幾つの峠が抜けていたのだろう。きっと現在では考えられないほど多くの峠道が要所要所のコルを通っていたに違いない。昔日、伊豆、安房、常陸、そして佐渡、隠岐などと並び遠流の地であった土佐。その地を格子のない牢獄にしていたのは四国山地、とくに県境の高い標高の山々で
ある。その険しい天然の牢獄の格子間をぬって、細々と他国との連絡をつないでいたのが、海路とともに、これらの峠道であった。
 それらのうち、国境越えの重要な峠がこの山の500mほど南にあった。「黒滝峠」またの名を「地蔵峠」と呼ばれ、「この道は昔の予土往還で、通称〝雑誌越え予州高山通り〟と言われており、用居川に沿って境野峠を越える「松山街道」とともに、予土国境越えの重要な街道であった。」と山崎清憲さんの『土佐の峠風土記』にも書かれている。
 何十年か前まで旅人の往来で賑わっていただろう峠もいまは静かで、小鳥やセミの声と風の吹きぬける音のみ。四方からまじわる峠道は現在でも確認できたが、路面には笹が生じ、倒木が通行をさまたげていた。馬頭観音と地蔵様の、江戸時代に置かれた二体の石仏が、往時の、主要道としての栄華をものがたっていた。
 輪戸内山の頂へは、ときには急になる県境の尾根をひと登りで達する。そこは〝ササミネ〟という地名どおり、深い笹に覆われていた。伊予側はヒノキ、土佐側はカラマツのような樹種の造林地で、県境のみ広葉樹などが育っている。「峠風土記」には三光辻山などが望まれたとあったが、現在ではそこからの展望は皆無といってよくなっていた。

 
   新緑に 忘れられたか 古地蔵

ぽつねんと ひぐらし聞くか 石地蔵



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空池山     1352.0m     四等三角点      東川

 愛媛県の美川村と吾川村の接するところにある山。空池山と雑誌山との間に山間の湿地「カラ池」がある。カライケヤマ。地形図

空池山に登る。右に「から池」、後方に雑誌山が見える



 登っているとき振りかえるといつもカラ池とその後ろに雑誌山が見えていた。雑誌山からもカラ池の一部は見えるが、この山からはほとんど全貌が望まれる。ちょうど至仏山から見る尾瀬ヶ原と燧ヶ岳の関係に、もちろんスケールこそ圧倒的に違うが、どことなく似ている。あれらの山のときも、今回と同じように頂上や登下降の途中、湿原や沼が下方に見えていた。

 足かせのような笹原にあえぎながら登りついた頂上も、低い木や笹と草で少々シブリになっていた。1時間近く探してようやく図根点は見つけたものの、とうとう四等点の姿は見ずじまい。頂の外れからは、土佐や、石鎚山系などの数多くの山々が、麗しい山容で、心を残して去る私たちを慰めてくれた。
 カラ池まで下って、山の上から確かめておいた場所まで行ってみた。湿原の低いところに雨水がたまり水をたたえた池になっている。普通キンポウゲと呼ばれるウマノアシガタが黄色い小さな花をまわり一面に咲かせ、かたわらにはアヤメであろうか、紫がかった花がしとやかな姿を見せていた。
 このあと、黒滝峠から輪戸内山、雑誌西山、そして空池山をめぐる9時間におよぶ静かな山旅を終え、車まで帰り着いた。

 
「もし、雪の山にきて、もう少しの安らぎを、憩いを、と願う人があったら、私は、尾瀬の冬をすすめる。人生行路の荒波に揉まれて、辛うじて打ちひしがれずに生きてきた人の心が、もし、この世の中で魂のそこからしずめられたい、深い静けさに、しばしなりと浸りたい、とねがうとき、私は、尾瀬の雪の天地をすすめる。」

村井米子『山恋いの記』 雪の尾瀬の静けさ


 大正12年、ズボン姿にわらじをはいて、穂高-槍ヶ岳間を女性としてはじめて縦走したというエピソードをもつ。村井米子(1901-1986)、わが国の女性登山家のパイオニアである。彼女にかぎらず、近代の登山界の草分けたちは、高知識の文化人たちや有産階級の出であることが多かった。案内人や人夫をやとい、多日数を要する旅には、ロマンを解するこころと、経済力が必要だったのである。かくして初期の山々は高級遊び人といわれる人々や、一流といわれるような旧制高等学校などの学生たちによって開かれていったのである。イギリスの旦那衆などによってヨーロッパ・アルプスが初登頂されていったのと同じように。



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中津明神山    1540.6m    一等三角点    柳井川

愛媛県美川村、柳谷村と高知県吾川村との交点の山である。「土佐州郡志」や「南路志」にこの山における平家の落人伝説の記述が見える。その頃にはまだ山頂近くに彼らの造ったものと伝えられる空掘や井戸の跡があったそうである。ナカツミョウジンサン、ナカツミョウジンザン。地形図

猿越山よりの中津明神山



 この山に家族5人で最初に登った時には雪がまだ大量に残っていた。春の雪で歩きやすいことは歩きやすかったが、登るにつれ雪崩の痕が出はじめ、おまけにガスも出て、10m先が見えなくなってしまい、結局その日は引き返すことにした。
 雪解けのころを見計らって出かけた日は快晴で、すばらしい展望が出迎えてくれた。周囲のいろいろな山からこの山が見えるように、この山からも四方遮るもののない眺望が広がっている。ただし、レーダードームや祠などの建造物があるので移動しながらであるが。
 頂上まで車道が通じており、その日も数台車が上がってきていた。ある人はラジコングライダーを楽しみ、また別の人は車外にアンテナを出してアマチュア無線を楽しんでいた。
 そして私たちもザックからバーナーを取り出して昼食を作り、ゆっくり流れる春の時を楽しんだ。

 
「「あっ、ジャヌーだ
 紛れもなくそれはジャヌーの北壁だった。すばらしい褐色の大岩壁に僕らは興奮し、圧倒される。夢み、あこがれ続けたジャヌーの北面は、三〇〇〇メートルの巨大な岩柱を天空に突き刺し、確かにすさまじい迫力があった。この驚異的な光景をみる限り、どんなアルピニストでも、絶望を口にし、不可能を信じるだろう。僕も予備知識なく、いきなりこの北壁を見たら不可能だと思うにちがいあるまい。」

小西正継『ジャヌー北壁』 キャラバン

 
 ネパール・ヒマラヤの北東端、世界第三位の峰カンチェンジュンガの南西側に、その山、ジャヌー(Jannu 7710m)はある。F・スマイスに「今まで見た内で、この北壁のすさまじい断崖ほど、登攀の絶望的なものはない」と言わしめたほど、高く尚けわしい壁を持ち、《眠れる獅子》、《スフィンクス》、《恐怖の峰》などと呼ばれていた。南西稜からはテレイらフランス隊に初登頂されたのち、日本人隊も登頂しているが、北壁はヒマラヤの大課題としてその後も残されていた。この壁は前年秋頂稜直下にまで達したニュージーランド隊のあとに挑戦した小西正継ひきいる山学同志会隊によって1976511日陥落した。
 小西正継(こにしまさつぐ 19281996)と山学同志会との関係は、鉄の掟でむすばれた新撰組と近藤勇の関係を髣髴とさせるほど強いつながりを感じさせる。アルプスの三大北壁の冬季登攀をなしとげた小西にとって、ジャヌーの北壁はアルプスでの冒険の延長のように思われたのかもしれない。その困難な壁に、延々ベースから頂上にいたるフィックス・ロープの一本ルートを作って、案外らくらくと隊長の小西を含むほとんどの隊員を登頂させてしまう。手並みは見事であるが、一度ロープがつながったルートというものは、どのように困難なコースであっても、二番手以後の登頂者にとって現在日本の有名山の一般ルートとそれほど変わらないものになってしまうようにも思われる。
 小西は、1996年、マナスルに登頂して下山の途中、氷雪、彼の言う白魔の中に消えた。



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蕗ヶ谷山    1234.7m     四等三角点    柳井川

愛媛県柳谷村と吾川村の境にある山。中津明神山の南東約2kmのところにある。フキガダニヤマ。地形図

トチノキの大木である



 歩きはじめて、まず急坂を下りたところに「にこおつ峠」があった。「にこおつ」、どんな字を書いてどんな意味だったのだろう。峠の雰囲気や痕跡はのこっているが、地蔵もなにも見当たらなかった。伊予のほうに山道が見えたが、土佐側はスズタケがしげって、それ以上の詮索はしなかった。
 そこから新しい踏み跡をたどって県境の尾根を登った。白い岩とモミの林が印象的。頂あたりに着いたが、際立って高いところはなく、そのうえスズタケやそのほかの下草、かん木などで、地味な四等点ということもあり、また発見できないのではないかと不安が頭をかすめた。だが案ずるより産むが易し。三角点はすぐ見つかった。まわりはきれいに刈り取られている。山名が書かれた赤いプラスチックの小さな板がそばに立っていた。ブナやミズナラ、モミなどの林で空もひらけず、記念写真のためにはストロボを光らせなければならなかった。木漏れ日は、通常の撮影には最悪の条件だからである。

 
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」               

論語



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三方山     1146.8m     三等三角点     柳井川

仁淀村の山である。サンポウヤマ。地形図

崖の上から風景を眺める



 すぐ南側には鳥形山の石灰石鉱山が見えている。林道西谷石神峠線を大渡ダムの方から車を走らせているとき、見えてくる三方山は北側と南側が切れ落ちて、円錐形にそびえている。東西になだらかな尾根を持つが、そこに至るまでが大変なようである。
 地元の林業に携わる人の助言に従って、北上する直登のコースを選んだ。馬頭観音の石仏が鎮座する峠から尾根に取り付くと、やがて地形図の示すように急坂になってきて、岩場が行く手をさえぎるようになった。迂回したり、よじ登ったりして突破。頂上は植林と自然林で、展望は垣間見える程度である。三等 三角点がほとんど地中に埋まり、頭をかろうじて見せていた。
 かたわらに立つ国土地理院の標柱には「徳光山」と書かれていた。近くにはこわれて朽ちかけた祠があった。下山時、眺望のよい岩場の上に出てみた。周囲の山々の紅葉はまだ五分という感じであった。

 
「もしいま、あらためて「なぜ山に登るのか」と自問するならば、私は、おぼつかなくも「心ときめき、心癒されるから」とつぶやく。」   

河村正之 『山書散策』



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鳥頚      947.9m      二等三角点      柳井川

仁淀村のほぼ中央部にある山である。トリクビ。地形図

下に見えるのは泉の集落であろうか



「とりくび」とは何とも変わった、そしてすこし不気味な山名である。泉の集落でたずねたとき、その数人の人は「鳥頚」のことをよく知っていて、山の方向をさし示してくれたが、どうしてそのように呼ばれるのかは、すぐ近くに住む彼らも知らないという。その後、登りおえて、地形図をながめていたとき偶然見つけたことがあった。どこが翼でどこが尾羽かは判然としないが、頭部はよくわかった。そして、くびれた胴体とつながる部分にこの三角点の頂はあったのである。昔、おそらく近くのもっと高い山、姿のあったころの鳥形山など
から眺めたとき、このあたりの山地も鳥のように見えていたのではないだろうか。

 話を、いや想像を飛躍させよう。鳥形山は翼をひろげて飛翔するうつくしい鳥のような姿であった、と聞いている。しかしいままで不思議に思っていたことは、青々した山を下から見あげてそのように見えるだろうかということだった。これは、鳥形山の山上から、己の姿をふくめてか否か、そのような形象が見えていたのではないか。飛ぶ鳥の姿がである。そしてその首の部分にこの「鳥頚」があった。かもしれないし、そうでないかもしれない。いまや鳥形山はその山容を大きく崩し、もはや確かめようもない。
 泉集落の人に途中の分岐まで車で先導してもらった。林道はさらに頂上近くまでのび、ほどなく三角点に到達できた。桧の植林。南側に雑木林が残っていた。木々の間からしろく光る外界が見えるともなく見えていたが、残念ながら鳥形山の姿はここからはのぞめなかった。

 
「ブライトホルンの北面は、早くも一八九七年に二人の英国登山家とニコライ谷の三人の山案内の一行によって登られた。地図ではトリフト尾根と呼ばれている西峯のバットレスに登路を求めたものである。
 しかし、北壁にはもう一つの尾根がある。東峯の直下に、一本の糸のようにぶらさがっている氷の尾根だ。
 これがゴルナーグラートの観光客の目に、尾根として映らないのも無理はない。それはあまりに細々と壁に縫い込まれているからだ。
 地図の上ではクライン・トリフト尾根、一般にはヤング尾根、地元ではクヌーベル尾根と呼ばれているこのアレートは、一九〇六年の八月、英国の名登山家GW・ヤングとロバートソン大佐、それにヨセフ・クヌーベルとモリツ・ルーベンの両ガイドの一行によって初登攀された。
 それいらい、この尾根はまる二十二年間手をつけられないままでいた。そして一九二八年にフランス登山家の一隊が、久方ぶりに北壁の静寂を破った時、頂上直下の最後の難場で全員が墜死するという悲劇を生んだのであるが、それについては後ほどやや詳しく書こう。」   

田口二郎『回想のヤング尾根』 ―― 一九四三年八月――

 
 アルプスへのきびしい登攀の様子を文学色ゆたかに描写した逸品である。書かれているように、初登攀などというおおげさな場面を描いたものでは決してないが、50年後に、見ず知らずの読者に読まれて、みずみずしい感動をあたえる。東大の山岳部出身の彼は、戦後、第一次マナスル遠征隊に参加し、のちに山岳書の翻訳も手がけている。



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一ノ窪山     972.5m    三等三角点     柳井川

 愛媛県柳谷村と仁淀村の境界にある、年に一度おこなわれる祭りで有名な秋葉神社の後方にある県境の高みである。イチノクボヤマ。地形図

ここから見る中津明神山は大きかった



 植林のなかの急な斜面を登り県境稜線に出ると、早くもスズタケが見えはじめ前途がそれほど楽ではないことを予感させた。1009mのピークまではヤブの急登。そこからは中津明神山と、その手前に、これから向かう一窪の目的の頂が見えた。そこを下り、さらに先へ。スズタケのヤブは右側の植林の斜面をトラバースしてさける。1009mのピーク以後には顕著な峰はあらわれなかった。平凡な尾根のつらなりである。三角点は、植林の尾根からすこし右に折れて広葉樹林にはいった平坦地にあった。クヌギ林。南にひらけ、見あげるような位置に中津明神山が頂上の建造物を見せていた。空はおおかた見えない。ツクツクボウシの声が、つづく季節を想起させるがいっこうに涼しくはならなかった。
 立木の又に記念プレートをぶら下げて記念撮影をした。昼食をとったが、ゆっくりもできない。これから県境を南にむかい隣の三角点まで行く予定である。

 
「何時間にもわたる苦労のすえ、といってもぼくは苦労と感じなかったのだが、歩いたり登ったりする単調な動作も終わり、あとはただ呼吸さえしていればよいといういま、深い落ち着きが体の中に入り込んできた。ぼくは人生の競争を終え、あとはただ永遠にゆっくりと休めることを知った人間として呼吸していたのである。ぼくは何度も辺りを眺めた。初めのうちは、期待したエヴェレストのパノラマもまだよく見ていなかったからだ。風のために雪が絶えず頂上の周りを舞い続けていることにも気がつかなかった。ぼくは放心状態に陥り、自分が自分でなくなっていたといえる。ぼくはただ、息を切らしている小さな肺臓に過ぎなかった。この肺臓が、霧と頂上の上にふわりふわりと漂っていたのである。」

ラインホルト・メスナー『エヴェレスト 極点への遠征』



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木山    1049.6m     三等三角点    柳井川

 愛媛県柳谷村と仁淀村の境にある山である。マチノキヤマ。地形図

山中でお地蔵さんに出合う



 県境の尾根に出て数分下ったところのコルには、平たい石に囲われた小さな石仏が風化した円満な顔をのぞかせていた。いまはもう名も知れぬ峠。土予両方から登ってきていた山道をたどってみたが、すぐに道筋は確認できなくなった。

 そこから南に登る。すぐにスズタケが出はじめ、まもなく切れ目がなくなった。前途多難。暑さのため汗みどろ。だんだんと密度を増すスズタケ。それに朽ちて倒れた木などが前進を妨害する。アップダウンはあるものの全体に変化がすくなく、樹林で、空も、数メートルさきの視界すらひらけない山中のこと、ときどき見るコンパスと高度計のみがたよりとなった。夕刻と曇天で帰還の時がせまり、とうとうスズタケの海のなかで撤退を決めた。もうすこし先だったかもしれないが疲れてもいた。
 登れることも、また失敗することもあるのがこのような未知の山へ登る登山のつねである。また他日訪れればよい。その時まで山よ待っていてくれ。

 
「たしかに人間は小さく、自然の中では取るに足らぬ存在である。しかし人間は自然に属し、自然の一部である。そして自然界の舞台の真っ只中に身をおく者が、危険や嵐から身を守って舞台鑑賞をこととしている者よりも、評価されていないということが妥当であろうか。」          

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』



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鳥形山     1325m     三角点はない     王在家

仁淀村の山。矢筈山とも、また平家落人伝説による「白鳥(しらとり)片羽山」が、いつしか鳥形山と呼ばれるようになったのだという古老もいるそうである。トリガタヤマ。地形図

すばらしい一日。すばらしい展望



 鳥が翼をひろげて飛んでいるようで美しかったという鳥形山も、今は上部を石灰石採取によって削りとられ、その姿をいちじるしく変貌させている。開発のはじまった昭和46年(1971)には標高1459mであったという秀峰は、人間にその皮や肉までむしり取られて今や見る影もない。
 石神峠から日鉄鉱業所の門の前を通り過ぎ、さらに進むと仁淀村によって整備された「鳥形山森林植物園」がある。樹木名などが記されたプレートを見ながら、遊歩道を歩いていくと二ヶ所の展望台に至る。特に高さが10mはありそうな「頂上展望台」はすばらしい。天狗高原周辺の県境の峰々、石灰石採取場の向こうには不入山、そして振り向けば中津明神山が姿よく見える。それら以外にも山名同定しようとすれば、まだしばらくは時を要しただろう。こんなすばらしい展望台があまり知られていないのは、仁淀村にとって宝のもちぐされではないかとすら思われた。
 三等三角点「黒滝」1346.5mは頂上展望台から50mほど、南東方向の同じ尾根上にあるが、鉱山の敷地内のため立ち入り禁止になっていた。

 
「やがて、大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エヴェレストの山頂が現われた」 

1921611日のことである    ジョージ・リー・マロリー



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新倉山     1096.9m    四等三角点     王在家

 愛媛県柳谷村と仁淀村の境界にある山である。シンクラヤマ。地形図

県境の三角点の一つである



 地形図を見ると、この三角点の南西側2300mのところに「猪伏越」という標高1120mの頂がある。むかしの峠で、点線の歩道が両県にわたって記されているが、それらしい道は消えて見えなくなっていた。実質ここが新倉山よりも高く、この周辺の頂上といえる部分である。計画では大規模林道がこの頂のどちらかをとおるようであるが、まだずっと下の方で工事の最中であった。そこから北上する尾根上の突起のようなピークにこの三角点はある。
 わたし達は県境上にほとんど間なしに埋められている国有林の境界標柱593番のあたりで尾根に出たが、三角点は585番のそばにあり、番号を追いながら接近していった(猪伏越には599番の古くて大きな石柱が立っている)。頂上はせまくて大人二人が立てばもう一杯である。崖のように切れ落ちた東側にはあまり寄りたくない。そのため展望はひらけ、目の前に鳥形山や三方山などの山々が見えていた。曇天で、見ている間に三方山に雲がかかる。
 天気予報では午後には雨になっていた。急がなければならない。雨が降りだす前に車まで帰り、できれば悪路の林道も下りておきたかった。

 
「ここでくれぐれも誤解のないように注意して欲しいのは、静観的というのが低い(、、)山歩きや、楽な(、、)山登りを指しているのでもなく、少しの危険もないような尾根すじや渓合を、いつも哲学者や詩人ぶった態度で思索や瞑想に耽りながら歩いているという意味ではないということである。静観的というのは、山登りにおける激しい身体的な行動と、危険を含んだ肉体的な緊張感のみを享楽するに止まらずして、そのような行為をも含めて、 より(、、)豊かな心を以て自然を観照しようとする態度である。」 

伊藤秀五郎『北の山』 静観的とは


 
横浜に生まれ、北海道や千島の山などに魅せられた登山家もいる。その人の名は伊藤秀五郎(いとうひでごろう 1905-1976)といい、北海道大学に入学後、山岳部を仲間とともに創立してから、その地の山がすこし標高が低いことを残念がりながらも、おおらかな北の大地を悠々闊歩して「北の山」を開拓していった。彼の職業が生物学者であるところから、文章が理屈っぽすぎるように思われる部分もあるが、山への情熱は十分に感じさせる。挿絵をかいたのはおなじく北大出身で後に画家になった坂本直行である。彼は坂本龍馬の近縁で、ここにも土佐とのつながりが見つかる。



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正木の森    1365.4m    四等三角点    王在家

 愛媛県柳谷村と仁淀村の境、天狗森のすぐ北にある山であるが、三角点は一度下って登りかえした愛媛県側の頂にある。正木という常緑低木が多いのだろうか。マサキノモリ。地形図





 北の、猪伏越付近の県境稜線にたっしたとき、木々のあいだから正木森が見えた。最初の目的はそこから新倉山をへて町木山まで縦走しようと考えていたのだが、正木森の頂が垣間見えたとき、そこまで足の延ばしてみようと急に思い立った。そこらあたりの尾根上のスズタケがきれいに刈られていたので、山への距離がちかくなったように感じられたのである。だが、やがてそれもあやしくなり急坂の笹原をスリップに注意しながら登るようになった。
 7年ちかく前、黒滝山を登ったあとで、正木森にいちど挑戦したことがある。そのおりには県境の頂までは到達したのだが、三角点手前50mほどの鞍部で密生したスズタケやイバラのヤブに遮られてしぶしぶあきらめ、暗くなってから車まで帰ったものである。今回は時間的には余裕があったが天候に問題があった。だがたとえ嵐になっても今度はあきらめる気はなかった。
 足腰にからむスズタケをおしわけ、まとわりついて拘束してくるツタやツルを切り払いながらようやく三角点のピークまで来たのだが、石柱が見つからない。頂上を過ぎたところの大きな倒木の上で中津明神山を見ながら昼食を取り、引きかえしてさがすと今度は簡単に四方を石でまもられた標石が笹の底に見えた。往きには、知らないうちにその上をとおり過ぎてしまっていたのである。

 
森羅(もの)万象(みな)の最後には、つねにいかんともしがたい無限の悲哀が伴うものである。」

ジョン・コスト 『アルピニストの心』



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駄場峰     1002.6m     四等三角点     王在家

葉山村と仁淀村境の山である。葉山村の北に壁のように連なる山並みは西端の鶴松森で最高の盛り上がりを見せるが、高低差はそれほどなく、村境の稜線上を走る林道から入山すれば、山上プロムナードを歩くような気分で比較的楽に鶴松森まで達することができる。駄馬峰はその途中、鶴松森の2kmほど東にある四等点の頂である。ダバミネ。地形図

仁王岩の横を通る



 このあたりの、さほど顕著とはいえないそれぞれの頂は、黒川集落の上の峰は黒川峰(萱ヶ成)、中野集落上のは中野峰というように各集落名をつけて呼ばれている。駄場峰は言うまでもなく駄場集落の上の峰である。
 尾根上には、なかには二階建ての家ほどもある大きな岩が、ところどころ集中して地面上にそそり立ち、登ってみたい誘惑にかられる。頑丈な胴体のうえに、どっしりと膂力を感じさせる首から上の乗った、私たちが「仁王岩」と勝手に名づけた大岩も見えた。駄馬峰の頂上付近にもこれらの大岩が多くあり、付近に生えるカエデなどの広葉樹の新緑がそれらに映えて非常に美しく、くつろげる雰囲気をかもしだしていた。測量のためか鳥形山の方向にひらかれ、雪のように白い山肌がまぢかに見えた。そこで大休止して新しい山の頂を楽しんだあと、十何年かぶりの鶴松森にむかった。

 
 登山家とは、山岳、自然に対する豊かな知識と、そこを自由に移動する技術と装備をもち、なおかついつでもその自然にわが命をささげられる覚悟をもつ者をいう。そうでなければ彼はいつまでもゆきずりの登山者である。



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黒滝山       1367.2m       四等三角点      王在家

東津野村と仁淀村境にある。クロタキヤマ。地形図

天狗ノ森がよく見えた



 そこはまるで庭園のようであった。頂上に着いた時そう思った。おだやかな陽光。点在する石灰石。低い笹、そして枝ぶりのいいブナの木。落葉した木々の間から、のんびりと天狗の森が頭をのぞかせていた。
 黒滝山は天狗高原からの連山のひとつである。「四国の道」がそばを通っており、国道33号線の秋葉口と天狗高原を結ぶ、整備された歩道から登ることができる。(私の場合は反対側の寺川の方から登ったが)
 大引割峠近くの、国の天然記念物に指定されている「大引割小引割」の大地の硅岩の割れ目をのぞけば、誰もがその不気味さに身震いすることだろう。また「ヒメシャラの並木道」も見事である。
 ヒメシャラは赤良木ともいい、普通にどこの山中でも見かけるが、これほどまとまって育っているのはあまり見ない。串田孫一が、山中でヒメシャラを見るとあまりになまめかしく街中で裸のマネキンを見るようだと表現したが、これほどまとまって立っているのを見たとしたら彼はどのように言ったことことか。
 不入山や鳥形山を樹間に望みながら歩けば、さほど苦労することもなく山上漫歩のような気分で頂上に達することができる。

 
「遠征登山は、この科学という神聖な名称に神頼みすることによってのみ、支援に値する立派な冒険的事業になり得るのだった。」

ニコラス・クリンチ 『ヒドンピーク初登頂』



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鶴松森     1100.1m     三等三角点     王在家

東津野村、葉山村、そして仁淀村の交点にある山で、葉山村の最高峰。鶴と松、縁起のいい名前の二重奏といえるような山名である。三角点名は「兎ヶ佛」。カクショウモリ。地形図

頂上からの光景(超広角で)



 頂上が近づくにつれ、茅原が広がってきた。長い歴史から言えば、ほんの少し前、家の屋根をカヤで葺いていたころ、部落の人総出でこれらを斜面から刈り下ろし、これまた総掛かりで屋根を仕上げたことだろう。それに田畑などの肥料、家畜の飼料としても利用されていたようである。
 南側、旧布施坂の七曲りの道が、ほとんど眼下に見える。山々の展望もなかなかのものだが、それらもやはり茅原の上に広がっていた。
 頂上そばの植林の日陰で食事をして、そこで昼寝をした。何故か大きな「水飲み場」の看板が三角点そばにあったのだが、近くにそんな水場を見つけることはできなかった。なにか別の意味があったのだろうか。または喉が渇いただろうから持参の水筒を出して、ここで水を飲みなさい、ということだったのだろうか。今もってわからない。

 
「だいたい高所で登攀そのものに肉体的な喜びを感じることなどあるものではない。そこで働くのは意志の力であり、この力だけが高みへと歩き続けさせ、足を一歩ずつ前に押し出させることが出来るのだ。」   

クリス・ボニントン『現代の冒険』 現代登山の超人



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不入山     1336.2m     一等三角点     王在家

東津野村の山である。一名黒森とも呼ばれ、頂上に勧請されている祠は石鎚神社だそうである。イラズヤマ。地形図

ある日の不入山頂上





 なんと気味の悪い名前であろうか。化け物でも住んでいそうな感じである。はいってきたら喰ってしまうぞ、とでもいうのか。実際には、土佐藩の御留め山であるからはいってはだめだ、という意味でつけられたものらしい。そのような山であるから現在でも、手つかずの自然がおおくのこり、国有林の保護林などもまわりにいくつも見かけられる。
 天狗高原などから、そのととのった姿を望むことができるが、一等三角点の大きな網の目の一角をになうほどだから、周辺でもとくに目立っている山ということである。四万十川の源流点の一つにかぞえられたり、熊出没の報道がなさ れたりするなど、県下でも有数の深山の雰囲気をただよわす山である。
 登ってみると、ヒメシャラやブナほかの高山に成育する喬木の林が美しい山、との印象を受けた。頂上にはベンチなども置かれ、くつろげるようになっている。登ってくる途中、短歌の書かれた木札が立っていた。目の前に鳥形山が見えたが、ほかの展望はそれほどでもなかった。いまは改善されているかもしれない。

 
「アルピニズムの初期のころ、ヨーロッパ・アルプスではあの美しく有名なマッターホルンをエドワード・ウィンパー達が劇的な初登頂をすると、数十年後にはそのルートではない、日が当たらず垂直に近い北壁に挑戦するようになった。その北壁が登られると、今度はそれに単独で挑む者まで現われ、現代では単独で新しいルートを開拓する人間が登場した。そのレベル・アップは、ヨーロッパ・アルプスよりさらにスケールの大きなヒマラヤでも同様だ。モーリス・エルゾーグらが人類初めての八〇〇〇メートル峰であるアンナプルナを初登頂して二十年後、クリス・ボニントン率いる強力なイギリスのクライマー達がアンナプルナ南壁を登り、「ヒマラヤ壁の時代」に突入し、翌年にはマカルー西稜などの今でも困難なルートが登られた。

さらに時代は進み、現代では究極熾烈な登攀になるが、八〇〇〇峰の切り立ったルートが単独で、なおかつアルプスを登るようにシンプルなアルパイン・スタイルで登られるようになった。この課題に最初に成功したのは、登山界の英雄、ラインホルト・メスナー(イタリア)だ。」       

山野井泰史『垂直の記憶』 ソロの新境地



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亀ヶ畑山     852.0m     三等三角点    王在家

 東津野村の、不入山を主峰とする山地のもっとも北に位置する山である。南東側に小筋畝山林木遺伝資源保存林のコウヤマキ保護林がある。カメガハタヤマ。地形図

三角点は枯れ葉の下になっていた



 国道
439号線から不入橋をわたって右折すれば不入渓谷にむかい、左折してすこし行けば登山口の口目市集落である。地形図には、そこから谷を通って尾根に出、亀ヶ畑山の頂をぬけ、さらに東にむけて歩道が描かれているが、集落すぐのところに大きな砂防ダムができて、その道はすでに消えているのではないかと思われた。そこで土地の人から聞いて、右側の尾根にある地蔵堂まで上がり、そこから茂った山道を払いながら進んで、廻りこんで山頂から北に伸びる緩やかな稜線に出ようとした。秋深くに汗を拭きながらたどりついたその尾根で見たものはなんとできてまだ間もない広い林道だった。

 そこから再び入山して松ノ木の多い尾根を頂上にむかう。やがて着いた三角点の周囲も大きな木は赤や黒のマツで、広葉樹の大木はすぐには目につかなかった。標石は落ち葉や土に埋まっていたので、国土地理院の腐りかけて傾いた白い標柱がなければ、探しだすのに多分苦労してなおその甲斐もなかったかもしれない。ツエで探りだして掘りだし記念撮影をすまし、昼食にした。最中に家にケイタイしたら寝ていた孫を起こしてしまった。

 下山してから、そのまま、不入橋まで出て
439号線の反対側にある県道48号線に乗った。以前、天狗高原へは主にこの道を使ったものである。高原は紅葉がまっさかりであった。ゆっくりしたい気持ちをふりすてて、天狗高原線のひろい車道を2kmたらず下ったところの道端に駐車をして、「枝ヶ谷」三等点994.5mにむかう。急斜面を下っていると、広葉樹林にスズタケがあらわれ、それは濃密になったり薄くなったりはしたが、頂上までずっとつづいた。距離が長ければ断念していたかもしれないが、もうすこしとがんばる。やがて一つのピークにきたところで、ふと左手を見るとヤブの中に標石の頭の表面だけが出ていた。白い国地院標識はその後2mほど離れたところに見つけた。ヤブがなければ天狗高原などもよく望まれるだろうが、これでは記念撮影すらできそうにない。そこですこし刈り広げてから、標石のそばに山名板をスズタケの株にくくりつけて人物抜きで撮り、その記念プレートはあとでミズナラか何かの枝にぶらさげてから帰途についた。

 
「山が教えてくれたものは、私が生きるために必要なもののすべてだった。見て、聞いて、さわって、そこでなにを感じるのか。美しいけれど、時には厳しい自然のなかで、小さな存在である自分になにができるのか。自分という存在を確かめる手段が、私にとっての登山だ。もしもあの、導かれるように登った初登山がなかったら、この突き抜けたように爽やかな気分の日々はなかっただろう。」       

『初登山の情景』 市毛良枝(女優)



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矢筈峠山    1096.5m    三等三角点     王在家

 東津野村と仁淀村の境界上にある山である。太郎田と日曽川をつないだ旧「矢筈峠」(現在「矢筈トンネル」)の北1kmほどにあり、鳥形山と不入山のちょうど中間に位置する。点名は「奥畑」。ヤハズトウゲヤマ。地形図





 捻挫のリハビリ山行
6回目。今週は前回より足首をつかって、さらに痛くなった。リハビリをしているのか、無理をかさねているのかよくわからなくなってイライラする。いつか、「もうおしまいにしよう」という日がくる。ケガなどするとそのことが実感される。

 トンネルの東津野側からはいる足谷線は、登山口予定点まで倒木ではいることができず、しばらく落石や倒木、それに路面を水に侵食されえぐられた、曲折する道をしばらく歩かなければならなかった。村境の尾根には、モミやマツ、ケヤキ、ブナ、ナラなど相当の大きさの喬木が立ち並んでいる。その間をダブルストックで登るが、やがて、すごい急坂の石灰岩石帯があらわれ、それを避けるために右にトラバースし、植林中の斜面を、足場をふみかためながらジグザグと上っていった。スズタケ帯をぬけると、すこし傾斜もおさまってきて、頭上の樹林中に空のあかるい部分が見えはじめると目標はちかい。
 それまでと打って変わって頂上は平坦でひろびろして、三角点もどこにあるのかすぐにはわからなかった。ヒノキ植林と北側の広葉樹林境目あたりにあることはわかっているが、そのどこかわからず、地形図で平坦部の東よりにあることを、同伴者に知らせようとしたら、さきに「あったっ」という声がした。
 標石のまわりはスズタケですこしだけヤブになり、短くなった赤白ポールがそばに倒れていた。刈りひろげて撮影をし、ひろい植林中の日だまりで昼食にする。背中がさむい。北の、鳥形山の方から最初、なにか音楽が流れていたが、そのうち緊急車輌のようなサイレンが聞こえはじめ、間隔をおいて3回、発破の音が山間に響いた。腹のそこに届くようなずしりと重量感のある音であった。

 
「この世界を登るとき、私は、神の助けを借りなくても、何が美しく、何が豊かであるかを知っている」                

ラインホルト・メスナー



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大森山     1218.6m     三等三角点     王在家

 東津野村のほぼ中央部の山、そしてここからさらに北東に数キロ尾根をたどれば不入山に達する。オオモリヤマ。地形図





 
439号線の古見口から広域林道を56キロ走った、「NTT DOCOMO」のアンテナ施設のある広場、そこがこの大森山への登山口であった。そこから山頂のほうが望まれたが、植林らしきものはほとんどなく、冬枯れした落葉樹林のところどころにツガやマツなどの針葉樹の深い緑が見えていた。

 行程は登る一方。最初尾根には踏み跡があったが、そのうちはっきりしなくなった。スズタケは一本も見えず、ヤブらしいヤブもなくその点では楽に辿れるものではあったが、障害はそればかりではなかった。石灰岩帯とでも言おうか、もともとカルスト地帯なので、はじめから異様に変形したりした石灰石が路面から顔を出したり、ゴロゴロと転がっていたりしていたが、そこは、急斜面であることから表土がすべて洗い流されたためか、1mをこす大きな石のかたまりが幾重にもつみ重なっていて、その部分を乗り越えあるいは避けて通過しなければならなかった。しかし慎重にのぼれば問題はない。登山はいつも、正確で慎重な一歩一歩のくり返しである。あとは喬木の疎林と矮小なかん木のみで、そのなかを寒中になお汗を流すほど登高のみに集中できることはうれしいことだった。上るほどに雪がさらにあらわれた。日陰におおくのこっている。
 1時間30分ほどで三角点に到着した。左右両側に山が見える。北西には天狗高原から西にのびる高低差のすくない雪の稜線。反対側の、山の重なりの左のほうに霞んでいるのはどうも海のようだった。昼食をとる。周囲数キロにはたぶん誰もいないことだろう。静かだった。空には飛行機雲が何本もながく線をひいていた。あしたはここも雪だろうか。(その夜から翌日の「大寒」の日にかけて、中四国地方はその冬最高の大雪となった)

 
「僕には山しかないから」                    

植村直己



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鈴ヶ森      1054.1m     二等三角点      新田

大野見村、窪川町、東津野村の三町村の交点にあり、大野見村と窪川町の最高峰である。スズガモリ。地形図

ヤブを拓き、くぐり跨いで登頂するよろこびを



 大野見村と東津野村を結ぶ林道の峠から登ることもできるが、私たちは国道439号線のほうからアプローチした。しかし考えていた以上に林道は荒れに荒れていて、途中から歩かざるを得なかった。その上登山道も見つからず急坂を開きながら登った。最初のうち、モミ、トガ、ヤブツバキ、シャクナゲ、アセビなどの目立っていた尾根は、高度が上がるにつれて落葉性の広葉樹やカシの木などの大木が多く見られるようになった。
 頂上は平坦で、狭いながらも三角点をとりかこむ広場のように思われるところだった。葉を落とした木々や背の低い笹が取り巻いており、その間から双耳峰の南西側の頂や周囲の山々が見えた。円錐形にとがった角点山を認めたのはこの時が最初だったようである。
 登ったのは12月初旬だった。雪がうっすらと地表を覆っていた。風がびゅうびゅうと音を立てているのに、なぜかここ鈴ヶ森の絶頂は真空地帯のように穏やかで暖かく、ゆっくりとお弁当を食べることすらできたのが不思議なほどだった。

 この山も最近、登山道を整備したりなどして騒がしくなってきているようである。苦労して登った人たちにとってはあまり喜ばしいことではないはずである。誰かの言葉ではないが、このうえ、騒々しい山を人為的に増やしてほしくはないと私も思う。これ以上山を壊さないでほしいものである。

 
「迸湃たる秩父の緑の過ぎにし山旅を回想して、独り淋しい微笑を洩らすのであつた。幽暗な鍼葉樹林を彷徨するとき、始めて不可解な人生の謎を解くべき啓示が、何處からともなく豊かに囁かれる様な気がしてならない。鍼葉樹林の独旅、それが自分の山旅に於ける終局の願望であつた。今も亦そうした期待を胸に秘めて突然和名倉山をさまよふことになつた。」            

原全教『奥秩父』 和名倉山紀行



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角点山      953.1m      三等三角点      新田

東津野村と梼原町の境界にある山である。カクテンヤマ、カクデンヤマ、カクテンサン。地形図

三角点に到着!



 日本の、多くの山の頂には水平断面十数センチ四方の石の直方体が頭をすこし出して立っている。国土地理院が測量基点として敷設したものだが、私たちフォレストウォーカーにとってもいい目印で、毎回これを見つけては「あー、着いた着いた」と喜び、見つけられなくて残念がるといったふうに登山と三角点は切っても切れない間がらである。この角点山の名がどうして付いたのかは分からないが、なにか、この三角点を彷彿とさせ、登る以前から山名だけは記憶 していたものであった。
 情報を仕入れた大古味集落の人の「いい山だから気をつけて行ってらっしゃい」と言う言葉に送られて、川向こうの登山口に向かった。最初は滑り落ちそうに急な山道であった。交錯する仙道をひろいながら高度を上げていく。道をうしなえば植林の境界の踏み跡をたどった。山中には、腐って土に還ろうとしている大きな切り株をおおく見た。高知の山々にも、このような太古の原生林におおわれている時代があったのだ。現在では、県内のまったく手つかずの森は全森林面積の2パ-セントにも満たないという。
 標高が上がるとシャクナゲが多くなった。頂上はおもに桧の植林のなかだが、明るくて圧迫感はない。南東方向にひらけ、三角点のまわりは十分に広々としていた。登り納めとして、雪のすこし残るこの山に登ったのは、ある年の1230日のことであった。

 
「山は残る 人はゆく」               

トーマス・ブロイアー



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五藤寺山     801.2m     三等三角点     新田

東津野村の山である。ゴトウジヤマ。村の中心地、新田の東側に位置している。地形図

頂上についた



 室戸市の四十寺山や中村市の石見寺山のように、昔にでも五藤寺という寺があったのではないかと2人の人に尋ねたが、どちらの人も分からないということだった。地図には山の西側、標高722mのところまで車道が記されていたが、行ってみるとその林道は鈴ヶ森林道との分岐のところから荒廃して利用することができなくなっていた。結局、その東側の支線林道の途中から南西の尾根をたどった。
 国有林が払い下げられて今は民間のものだという林内は、間伐や枝打ちもよくされて圧迫感もなく、尾根筋も広々としていた。そのうちまわりは広葉樹になり、両側の樹高5m以上のツツジが花盛りで、新緑をはなやかに染めていた。
 頂上も同様、三角点のそばに立つ赤白のポールが、かなり手前から確認できるほどひらけていた。南の樹間から角点山が格好よく見えた。熱くも寒くもなく、私たちは昼食を取りながら、近くで鳴くホトトギスと、かすかにセミの声を聞いていた。

 
「多くのクライマーが登る一般ルートと訣別し、技術的に難しい、未知のルートを求めよう。また大きな遠征隊が行うようなフィックス・ロープの設置を止め、日本やヨーロッパ・アルプスでやる登攀のように、大自然の力を感じ、自由に行動できるスタイルでこれからは挑戦しようと思った。」     

山野井泰史『垂直の記憶』 八〇〇〇メートルの教訓


 
登りやすい方向からの世界中のめぼしい高山はほぼ登りつくされ、急峻な壁や難解な稜をたどって、ヒマラヤのみでなく、世界のすみずみの山や島の壁までが、いまやソロで、登りあさられる時代に入った。いや、それすらもう課題を終えようとしているのかもしれない。山野井泰史(やまのいやすし 1965‐)はそんな時代の日本の寵児である。トップ・クライマーの一人である彼は、2000年、妻妙子とヒマラヤのギャチュン・カン7952mに北壁から登り、嵐に遭って遭難寸前で奇跡的に生還するが、手足の指の相当数を失ってしまった。それでも彼らはあきらめず、いつかまた表舞台に立とうとリハビリ中である。



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奈路山      724.0m      二等三角点      新田

大野見村の中央部に近い二等点の山である。頂上には同村の北部にテレビ放送を供給するアンテナが数基立っており、信号を送るためのケーブルが地中に埋められた、はっきりとした道が麓からそこまで通じている。ナロヤマ。地形図

帰りにまんが神社に立ち寄った



 惣崎の、県道沿いの納屋で農機具の整備をしていた男性に登り口まで案内してもらった。猪猟が趣味でこのあたりの山もよく歩くという。ときには非常な急坂となるが、それでも迷う心配はまったくなく、スピードはおのずとあがる。地面下に埋められた黒いケーブルがところどころで露出していた。地元の人が「うのす」と呼ぶ頂上には小さなテレビ共聴アンテナが合計5本立ち、南東の方向のみ開けて安和の海が見えていたが、かすんで水平線はわからなかった。そこからすこし離れたヒノキの植林の縁に標石は埋められていた。欠けもなく苔も生えていない、白くて、美しくさえ感じる三角点であった。
 そのそばで昼食を取った。秋も深まり、Tシャツを一枚下に着こんできたが、登るときかいた汗が冷えて急に肌寒くなった。空には雲一つなく、風もない。先ほどからトンビがゆったりと空を舞いながら、ピーヒョロピーヒョロと続けさまに鳴いている。

 
「何を求める風の中ゆく」                  

種田山頭火



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芹川山      926.1m      三等三角点      新田

大野見村、東津野村の境界にある山である。同境をさらに東方にすすめば下向山にたっする。点名はなぜか「鞍馬山」。というより所在地も鞍馬山になっている。セリカワヤマ、セルカワヤマ。地形図





 両村を結ぶ林道の峠から縦走することにした。アップダウンは相当なものであるが、ほとんどが広葉樹林なのは嬉しいことだった。ほっと心安らぐ森の中のウォーキング。
 根周り数メートルの切り株も多かったが、それに近いほどのアカガシなどの大木も相当数残されていた。しかし村境の尾根とはいえ、ほとんど通る人もいないのか、ヤブに還ろうとしているところもあった。このような山らしい山の歩道を整備して、子供たちが遠足などで、自由に歩けるようになればどんなに素晴らしいことか。
 2時間30分。ようやく頂上に辿り着いた。空しか見えないが、季節柄明るい。三角点のそばに、抱えても届かぬほどの桧が一本だけ立っていた。昼食を取るころには、それまで強かった風が、いくらか収まったように思われた。

 
「アイガーの巨大な壁は伝統的に英国人の趣味に合わなかった。
 予測出来ないリスクが大きすぎる。それに世間が騒ぎすぎる。アルパイン・クラブ〔英国山岳会〕の誰かがアイガー北壁を登攀したとしても、会員は熱狂しなかっただろう。」

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』



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灘山      331.7m      二等三角点     一子碆

中土佐町上加江の山である。ナダヤマ。地形図

上ノ加江より灘山を見る





「灘山自然林」という自然林観察道が中土佐町の手で国有林内に設定されていた。上加江の東、加江崎の断崖に沿って遊歩道が作られている。岬に寄せる波の音や漁船の機関音が聞こえ、随所で海も見える。うっそうとした照葉樹林。カシやシイの木、クス、ヤマザクラ、ハゼやモチの大木。そのほかホルトノキ、カゴノキ、バリバリノキなどの樹木名が、ところどころの木に掛けられた金属製のプレートに見える。それらで学べば私の植物名音痴もすこしは改善されるだろうか。
 三角点はその観察道の終点から、さらに南に500mほど、やはり自然林の中を登ったところにあった。平坦な広場の中央に二等点はあるが、見えるのは空のみ。そこにいたる尾根上から何ヶ所か上加江の家並がのぞめるくらいである。
 きびしかった「源氏ヶ森」登山の一週間後、私がそこで左足をすこし捻挫したこともあり、できるだけ楽にとえらんだ山だった。「灘山自然林」の途中、すこし登った山顛に、戦国時代の中頃、平田兵庫守という武将によって築かれた雲井城という城の跡がある。「雲井古城 一條殿臣平田兵庫頭兼近居之」。
 そこの南端のベンチで昼食。海側の木々が切られてひらけていた。涼しい風。漁船が三隻、航跡をひきながら霞のなかからゆっくりとあらわれて近づいてきた。そうだ今日はゆっくりでいい。なにも下山をいそぐことはない。

 
「霧はいよいよ濃く、そしてますます深く、蛭ガ岳の神秘を深くとこしえに守るように、静かにそしてまたきわめて静かな足どりで、ブナの大木の枝から枝へ渡った。やがて私たちはいつのまにか蛭ガ岳の登りにかかっていた。」 

松井幹雄『霧の旅』 雨の丹沢山塊



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久礼城山     105m     三角点はない     久礼

中土佐町の山である。クレとは叢生地のことをいったそうだが、海岸ちかくの草むらのなかに初期の久礼集落は生まれたのであろうか。クレジョウヤマ。地形図

久礼城山の祠に手を合わせる



 久礼の町並みを睥睨するように久礼中学校奥にどっしりと居座っている。
 頂上には戦国の地侍、佐竹氏の久礼城の詰段跡が、かなりはっきりと残されている。広場の西の端には祠があり、中央には長方形の井戸があった。周囲には土塁の跡がぐるりととりまき、北側には崩壊しかけた急な石段がのぼってきていた。東側の、二の段のはしから、双名島のうかぶ久礼湾や八幡さまの森なども見えるが、樹木が茂りその手前のほうの眺望はさまたげられていた。城の全域は中世の土豪の城にしてはひろく、久礼中学校や国道56号線をはさんだ久礼小学校あたりもふくまれる。
 城跡のすぐ北側には久礼川の支流、長沢川がながれ、自然の濠の役目をはたしているが、その谷間から現在の窪川町や大野見村に通じる古くからの街道があった。添蚯蚓(そえみみず)、本蚯蚓(ほんみみず)と呼ばれる、「土佐州郡志」でも「うねうねとミミズがはったよう」と述べられた山道である。また現須崎市には焼坂峠越えの道がつうじており、久礼城はそれらの交通の要衝をやくする位置にあったといえるだろう。
 城主の佐竹氏は鎌倉時代に常陸国(ひたちのくに)(現在の茨城県あたり)からきて久礼城主になり、波多一条氏の重臣として名をはせたが、長宗我部氏の復興隆盛とともに、その支配下になり、大阪夏の陣で盛親と運命をともにしたようである。
 古城跡の散策はたのしいが、それと同時にいつも物悲しさを誘うものである。

 
「私はエヴェレストの翳りのない輝きに、大いなる栄光に、征服されざる至高に喜びを感じざるを得ない」               

ジョージ・リー・マロリー



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大小権現山     693.0m     二等三角点     久礼

窪川町と大野見村の境界にある山。ダイショウゴンゲンヤマ。地形図





 火打ヶ森に登ったとき、頂上部のはっきりした、姿の美しい山が西北西の方向に見えた。それが大小権現山だった。
 頂上は広い平坦な広場になっており、東のはしに祠があり、南西のすみのほうには三角点があった。また昔は盛んだったであろう宮相撲の土俵の風化したあとも認められた。私たちは窪川町の奥呉地から登ったが、地形図を見ると、全部で5方向からの道が山頂でまじわっている。以前はいろんな方向の部落からの信仰を集め、年に2度、一月と八月の祭りの際には多くの里の人々でにぎわったことであろう。頂上からは火打ヶ森がかろうじて見えるくらいであり、展望をほしいままにするというわけにはいかなかった。植生は広葉樹と植林が混交している。
 しかし、すこし下ったところからは五在所の峰やその他の山々の眺望が広がるところもあった。3月末、もう林の中では山ツツジがほころびはじめている。

 
「ぼくの大きな夢は、ぼくひとりの知恵で定めた。まったくぼく自身のルートからひとつの頂に到達することだった。」     

ワルテル・ボナッティ『わが山々へ』



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火打ヶ森      590.5m     三等三角点     久礼

窪川町と中土佐町境にある山である。昔、江戸時代中頃には久礼村側では「燧之森山」、道徳村側では「火打之森」と呼ばれていた。ヒウチガモリ。地形図

幻想的に下界が見えた



 久礼坂を通るとき、何と姿のよい山だろうといつも思う。県下で姿のよい山はと、尋ねられれば、一つには同坂から見たこの山の名前をあげなければなるまい。また焼坂トンネルを抜けて下ってくるときに、鋭角的な頭をのぞかせている火打ヶ森も秀逸である。
 登る途中、窪川台地の名物の霧が出て、雲の中を行くことになった。もうすこし登ると、その雲は視界の下になった。雲海である。周りの山々が島のように浮かびあがり、それに白骨樹の枝がかかって、その光景の美しかったこと。
 時折、その雲の切れ間から下界の田園風景が見えるともなく見えていたが、それはまさに天上から下界を見る神様もかくあらんというふうな気分であった。
 頂上の三角点は、最後の急坂を登りきり、平坦になったところを右にすこし行ったところにあった。周囲は広葉樹がそだって、展望はまったくひらけない。

 
「登山は、五感を通して、「生きていること」を実感することができる」 

今井通子



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五在所      658.3m     一等三角点     窪川

窪川町と佐賀町の境界の山で、佐賀町の最高峰である。見る方向によればひじょうに玲瓏な姿をしている。五在所森。ゴザイショノミネ。地形図

小雪のむこうに窪川の市街をのぞむ



 一等三角点のある頂上は、かなり広い面積の円形の広場になっていた。北側部落の年配の人に聞くと、以前はかなり登られていたとのこと。太平洋戦争後、昭和26年から同33年にかけて日本各地48ヶ所において、太陽や他の恒星などの、ある時間における角度と方位を測り、経緯度をより正確なものにして三角点測量の穴を埋めようとした。天測点といわれるもので、高知県ではこの五在所峰の頂でそれが行われ、当時、測量機具を載せた八角形のコンクリートの台座部分が、国旗掲揚台のように片隅に残されていた。1957年に造られたものである。
 主尾根から頂上にかけては広葉樹の林だが、少し外れると植林が大きな場所を占めている。すこし西の、伐採されたばかりの支尾根まで下ると、国道56号線沿いの石灰石置き場に駐車させてもらった私たちの車が眼下に見え、東、数キロの方角には窪川町の町並みがよく見えた。逆に、窪川町の市街地から国道の足摺方面を見れば、この山が大きく望まれる。
 下る途中、吹雪になった。小粒の雪が横に走り、平衡感覚を失いそうになる。まわりの風景に急にベールがかかり、別世界のように感じられた。
 私たちが登ったときには、ほとんど道らしい道もなく、頂上からの眺めもたいして得られなかったものだが、最近、窪川町と四万十森林管理署などにより、現在ではすばらしい道もできて、頂上からも大展望が広がっているようである。山はつねに変化をして、ひと時もとどまっていることはない。

 
「ぼくは生きるだけだ。しかもいま、ただ一度だけ生きるんだ。」

ラインホルト・メスナー『ナンガ・パルバート単独行』 独りで



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見付森      449.6m     三等三角点      窪川

 窪川町仁井田の東側にある山である。山中に、国道沿いの汢の川(ぬたのかわ)と反対側の大井川畔の平野を結ぶ山道や、数家や奈呂を結んでいたそれらが地形図に記されている。後者の路傍近くに見付森の三角点はあるのだが、いまや道の痕跡が部分的に残るのみで正常にたどることはできず、楽に到達させてくれなかった。俗称ミツガモリ。ミツケモリ。地形図

緑の中に三角点が見えた



 ため池にはすぐに出あった。きれいな水をたたえて、魚でも住まわせておけば、いい釣り堀にでもなりそうな池だった。ボートが一艘係留されている。道はそこからすこしの間あったが、そのうち見えなくなり、国調のピンクのテープを追って急な斜面を登っていると、再び山腹をトラバースする山道があらわれた。しかしそれも、大きなスギなどが生えた沢の斜面で消えてしまったが、地形図によると、左奥上方に三角点が見つかるだろうと想像できた。

 1時間近くかかって主稜線の峠にあたる部分にたどりつくと、そこから思っていたとおり左手奥に一ヶ所明るくなった場所が見えた。マツ、ヒノキやカシもあれば、ハゼもクリもアセビもあるというような、いわゆる雑木林のなかの小広場に、見るからに古ぼけた明治33年に埋設された三等三角点はあった。わりあい低い山ではあるが、ここにこんな歴史を感じさせるものが埋まっていることなど、下の里でも知っている人はすくないにちがいない、とくにこの山に関してはそう思われた。
 頂上の木の枝にトンボがとまったまま動かないので、妻が、「死んじゅうがやない?」と訝しがったが、杖の先でふれると元気に飛び立った。そしてまた、池のほとりの草に羽根を休めた色鮮やかな赤トンボは、私たちがお互いに競い合ってカメラのレンズを向けたとき、いつまでも気がつかないように、そこに留まったままだった。

 
「私たちは勿論情熱を抱いて山を想い、山へやつて来るのだが、ただ山頂での歓喜や、雪の斜面での有頂天な気持を求めているのではない。
 むしろその情熱の求めているものは、山へ来る者の一層よく知ることの出来る宿命的な悲哀である。」               

串田孫一『山のパンセ』 歌と死



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志和峰      457.6m     三等三角点      窪川

 窪川町の東部、志和峰地区の山である。北には中土佐町上ノ加江の灘山が、南には窪川町の六川山がある。点名は「餅谷山」。シワミネ。地形図

木の間からおだやかな海が見えた



 窪川台地の東端の高みで、これより海面、すなわち標高
0mにむかって、急速に高度をさげてゆく。そしてそこには志和がある。登り口ですらすでに300m近い高さがあるから、ここらあたりは夏場でも海岸近くとは思えないさわやかさを感じるものである。

 Oさんのハウスの前に、ことわって駐車させてもらって、家と小さな池のあいだを歩きはじめる。だが道は最初からなく、右側の尾根にルートをとった。枝をはらい、シダを右へ左へと避けながら登っていったが、上のほうではどうにもならなくなってそのヤブを漕がざるをえなかった。途中でふりかえると、右後方に海が間近に見える。海面は収まりかえり、空も雲はあるものの海ともどもに平静であった。
 頂上の尾根にでると、右に行こうか左にするか、いつも迷う。ふと左手を見ると、その先の小高いところにそれらしい雰囲気があったので、行ってみると、案の定、国地院の木製の白い標識が見え、その手前のシダの陰に三角点はすこしかくされていた。土佐沖を通過した台風の影響か、登ってくる途中には10月下旬にしては暑かったが、頂上は風が吹きぬけていて寒いほどである。標石に腰かけて昼食をとり、二次生えのツバキの幹に記念の木札をぶら下げた。

 
 ヨーロッパ・アルプスで腕をみがいたクライマー達は、世界に目をむけ、なかでもヒマラヤにつづく高い峰みねをもつ南アメリカのアンデスなどを目ざすようになったのは当然ともいえる。そこからつぎのような興味を引くエクスペディションも生まれた。
 1970年のことである。イギリスからの遠征隊が、そのころ南アメリカの、未踏峰のうちの最高峰であった、アンデスのエル・トロ5913mにむかった。かれらがこの山を選んだのには、初登頂だけではなく、実は目的がもうひとつあった。それは、1954年に、この山の頂近くに激突した飛行機である。この機には、29人の乗客とともに、約10万ドル相当の金塊が積まれており、遠征隊は、頂を極めるとともに、この金塊の行方をも探ろうと考えたのである。
 だが、残念なことに、頂上まであとわずかというところまで迫りながら、雪の状態がひじょうに悪く、かれらはそれ以降の登攀をあきらめなければならなかった。だが、登頂こそできなかったものの、金塊の運命だけはしっかり見とどけることができた。頂上近くには、飛行機が激突した後、下の氷河へころげ落ちた形跡がありありと残っていたからである。飛行機とそれに載せてあった金塊は、この先、氷河が自然に干上がる日まで、そのふところで、何百年間も眠りつづけているにちがいない。

ジョッフリー・ヒンドレイ『世界の屋根に挑む』より



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六川山      507.7m      二等三角点      窪川

窪川町の山である。ムカワヤマ。地形図

興津の三崎山が見えた



 地味な名前なのだが、興津の人だけでなく、与津地の人たちも、よくこの名を知っていた。山麓に住んでいながら、すぐ頭の上の、山の名を知らない人が多いものだが、この山はちがった。むかし、窪川台地側の与津地と海岸側の大鶴地を結ぶ峠道があったのだが、いまはさだかでないところや、完全に消滅している部分もある。与津地の人の話では、六川山は興津の山ということであった。事実、興津の方からはどこからでもよく見える。
 そのとおり、山名の由来は、南、海岸側に六川という地名があり、そこの上の山ということから来ているようだ。
 頂上の西側は桧の植林だが、その他はツバキなどの照葉樹の林であった。北々東の方向のみ開け、矢井賀や志和の断崖や海を見下ろすことができた。また、そこにいたる尾根からは興津の三崎山や小室の浜、そして周辺の海などが太陽にはえて光り輝いていた。

 
「頂に登りつけば、私たちは斜面にかがみつづけた体を起して、地平線の果てまでをみはらかすのだ。私たちの心の静穏さと、大いなる幸福感は、測り知れないものとなる。行動と瞑想とが、これほどじっくりと一致していることは、めったにない。山では、このふたつは、切っても切れない関係にあるのだ。たとえば、私たちの山の頂に、もしも飛行機が降ろしてくれたとしたなら、同じ眺めも、これほど美しくはなくなるだろう。よく見るためには、眼をあけるだけでは足りないのだ。まず、心の扉を開かなければならない。」

ガストン・レビュファ 『万年雪の王国』



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本堂山      319.7m     三等三角点      窪川

 窪川町の、仁井田から興津の浜のほうに数キロメートルはいった本堂地区の山である。ホンドウヤマ。地形図

土地の人に途中まで案内してもらった



 日吉神社の鳥居の横に駐車して、神社の境内で伐木作業をしていた人たちに声をかけると、神様の加護があったのか、そのうちの
Yさんが分りにくいから途中まで案内してあげるという。もちろん取り付き点さえ教えてもらえれば、そこから先は自信があるのだが、山の人との交流の意味もあり、こんな時にはお言葉に甘えることにしている。

 茂った道をナタでひらきながら先導してくれたYさんとわかれて、沢奥の急な斜面の草を踏み分けながら尾根まで出て、そこから右に向けて尾根を辿ると、下で、あの辺りだと教えてもらっていた位置に、たがわず三角点は見つかった。大木のまじる広葉樹林の東側はヒノキの植林であったが、全体にうっそうとしていて、10年ほど前に再測量をなされたことが不思議だと思われるほどである。明治33年に埋設された標石にキズもなかった。
 案内してくれるというので、あわてて、蚊取り線香ももたずに出発した報いがきて、頂上では刺されることはなかったが蚊にかなり追い立てられた。近くの小喬木の枝をはらって山名板をつけ、追われるように下山した。Yさんと日吉神社にお礼を言って、県道まで下る途中、車から豚舎のなかを見ると、数百頭の豚たちはみな申し合わせたように死んだように床に横になって眠り、猛烈な暑さにじっと耐えているようだった。

 
「着ているものは破れ、ほこりと汗にまみれている僕とすれちがうイタリア人たちは、気の毒そうな眼で僕を見ていた。ああ彼らにこのわけが分ったなら

ジョン・コスト 『アルピニストの心』



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瀧山      557.9m      三等三角点      窪川

 窪川町と佐賀町の境にある山である。この山から尾根を北東に辿れば六川山にいたり、町境を西にむかえば大谷山をへて、五在所峰に達する。その間の距離123kmといったところであろう。1日歩行コースとして未整備にしては手頃ではなかろうか。タキヤマ。地形図

興津峠から三崎山と小室の浜を見下ろす



 興津浜。子供たちが小さかった頃、夏ごとに幾度キャンプに通ったことか。その浜が最初に見えたところが、この興津峠だった。ここまで来て海と浜を見下ろしたとき、いま思うに、楽しい松原での、あるいは浜辺での、人生の最も華やかな時のお祭りがはじまったようである。子供たちとの交歓が私にとって、やはり人生のもっとも楽しい時間であったようだ。いま妻とともにこうして過ごすのも当然すばらしい時間だが、もう二度と子供たちを交えた家族でのあのような交わりはない。水の流れと同じように去ってしまったなつかしい時よ。
 その興津峠が今回の山旅の出発点である。そこから三角点のすぐ近くまで営林署の歩道がとにかくつながっている。入山するとすぐ、きれいな色をした女郎グモが、通せんぼをするように目の前に網を張っていた。そういえば幡多地方にはこれに相撲をとらせて楽しむ遊びがあるはず。なぜそんなことが楽しいのかわからないでもない。
 営林署の歩道はとちゅう枝分かれし、まったく迷わずというわけにはいかなかったが、それでもおおむね順調だった。国営林の路傍にあるカシやシイなどは皆おおきい。時折その前にたたずみ不思議と語りかけている寂しい人間たち。歩道から分かれて10分ほど登ったところに三角点はあった。ときどき見るKMの山名板が二枚、そばの木にかかっていた。すこしはなれた木陰で食事をとる。岬や小室浜が見えるが、海水浴場そのものがすっきり見えないのがもどかしい。シートに寝ころんでいると、またしても動きたくなくなってしまった。海からの風が林を通して吹きぬける。その風に、間歇的に冷気をふくむ時がなぜかあり、その瞬間が、なんともいえず気持ちよかったからである。

 
「夏から秋へ移ってゆく山は、心ない者をも哲人にする」

村井米子『山の明け暮れ』 山に寄する秋



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大谷山      610.4m     三等三角点      窪川

 窪川町と佐賀町境の山である。この山から町境を西のち南西にむかえば五在所峰、おなじく東にむかうと、瀧山にいたる。宇谷の人は「石鎚」と呼ぶ。オオタニヤマ。地形図

石鎚神社の雰囲気ある祠があった



 登山口と思われるところで準備をしていると、バイクで音高くおじさんがあがって来た。聞いてみると、我々がそこから登りはじめることは正解であるようだった。
940分ごろ、豊かに実った刈りいれ前の棚田の間を登りはじめる。田のまわりに電線がぐるり回され、おじさんが先ほど持って上ったセンサー付きの高電圧発生装置がつながれていた。「アニマルキラー」と書かれたイノシシ、シカ除けの器具であった。どの田にも申しあわせたようにそれが使われている。

 谷の取水場に出たが、道はそこで途切れていた。強引にパイプに沿って岩の間を登っていくと、右上にふたたび上方につづく山道が見える。どうも途中で分岐を見落としたようである。「石鎚神社勧請記念碑」という石碑がそばにある、岩の下の小祠に出たのはそれから間もなくのこと。その昔、ここは行者が水垢離をしていた所だという。大岩が乱れるように積み重なって、水がその間を流れ落ちていた。
 山道はそこから尚はっきりしなくなり、沢の両岸にたびたび渉り返しながら上っていった。最後に急な斜面に森林管理署によってつけられたジグザグの道を登りきると支尾根の峠、さらに80mほど高度を稼ぐとようやく町境の稜線であった。そこから右の頂には、石鎚神社の石造りの祠が、うっそうとした古木の森に鎮座していた。とびらは固く閉ざされ、鉄のクサリが祠に巻かれるように石積みの上に置かれてある。そこから峠まで一度下り、同じほどの距離を反対側に登り返したところに三角点の頂はあった。
 下山時、「勧請記念碑」で一休みし、私は行場の谷のきれいな水でざぶざぶと顔を洗ったが、妻は流水に手をひたし、掬ってひとくち飲んだようだった。

 
「幸いなるは、ユリシーズの如く美しき旅を果たせる者」  

尾崎喜八『山の詩帖』



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轟山       486.0m      三等三角点       窪川

窪川町の山である。トドロキヤマ。地形図

道の駅からの轟山(左)。右側は天日である。



 県下それぞれの市町村は、その市街地の電波をつかさどる山を一つ二つ持っている。四方に見通しの利いた、その周辺では高い山が多い。窪川町の場合はこの轟山がそれである。国道56号線や381号を上下する時などにもよく見える。
 頂上の尾根は東西に長く、少しずつ間隔を置いて県内各テレビ局やNTT、建設省などのアンテナと、それに付帯する施設が建っていた。数えるとアンテナの数は十指では不足した。三角点は高知放送とテレビ高知の、フェンスの間の道端にある。展望はところどころで周囲の山々が見える程度で、窪川市街のそ れは一見したところ得られなかった。しかし一等三角点の山、五在所峰が、曇天で頭を隠しているにもかかわらず、姿よく見えたことは印象的だった。
 路傍ではハギやタカサゴユリ、センニンソウなどが咲き競い、はや秋の巡って来たことを感じさせた。

 
「ケチャップと豚肉をやたらにかきまぜて、うまい晩めしをつくった。腹がふくれて、やることがなくなって、小屋の中で小さな焚火かこんでぼそぼそ無駄話をするのは、いつもたのしい。外に出ると、こんやはすばらしい星空。がたがたの、すき間だらけの休泊小屋で、ぼくらのアルピニズモ・ロマンチコ三日目の夢をむすんだ。」

山口耀久『北八ツ彷徨』 北八ツ日記



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天日      445m       三角点はない      窪川

窪川町の山である。テンニチ。地形図

フェンス前より窪川市街をのぞむ



 道の駅「あぐり窪川」の駐車場から南方向をみると、アンテナの山、轟山の右手に端整で、目立つ山が見える。それが天日である。
 すぐそばを林道が通じており、歩きはじめてからも、四電の管理道を登れば、すこし急で滑りやすいが、さほど苦労もせずに尾根に出ることができた。さらに道は北に伸び、その先にフェンスで囲まれた電波反射板があった。そこから尾根をもう少し北にいったところが、わずかだが標高が高いようなので行ってみたが、ヤブの上、三角点もないこともあって、反射板あたりを頂上ときめた。
 まわりはよく手入れされていて、フェンスの前から窪川市街がこれ以上ないほどよく見えた。まさに鳥になった気分である。私たちはその風景を眺めながら、ゆっくりと昼食をとったが、曇天に時折さす 天日(てんぴ)がすこし熱かった。

 
「人間社会と山登りがなんのつながりもないものなら、活力剤にもなんにもなりえないわけだけど、サラリーマンならサラリーマンの一生と、ぼくが準備期間を含めてグランドジョラスに登る一年とは、とってもよく似ている、というよりは、同じようなもんじゃないかと思うわけ。冒険という言葉は使いたくないけど、これが冒険なら、サラリーマンの一生も冒険ですよ。だれひとり安楽に生きている人はいないし。
 だとすると、ぼくは冬季北壁だけでもう三つの人生を生きちゃったことになる。だからぼくは、長生きはできないと思うんですけどね。」

長谷川恒男『行きぬくことは冒険だよ』 インタビュー(抄)

 
「単独行」といえば加藤文太郎やラインホルト・メスナーを思い浮かべるが、長谷川恒男(はせがわつねお 19471991)もあきらかに単独行者の性格の強い登山家であった。彼は1977年から1979年にかけて、マッターホルン、アイガー、グランドジョラスという、アルプス三大北壁の冬季単独初登攀をはたし、そのあとアコンカグア南壁フランス隊ルートをも冬季単独初登攀するなど、華々しい活躍をするが、ヒマラヤの巨峰には、10年間毎年のように通って、ただ一つの8000m峰の登頂も成し終えていない。そのことには運もあろうが、もし、彼が、つねに自分を前面に出さず、適材適所に有力な隊員を当用しておれば、いくどかの登頂は成功していたことだろう。そしてついに一度もヒマラヤの高峰の頂を踏むことなく、パキスタンのウルタルⅡ峰で雪崩のために死んだ。
 ラインホルト・メスナーやワルテル・ボナッティがある時期より、ぴたり一線から身を引いたことなどとくらべると、彼を含め、山で死んだ日本の男性登山家は引き際が悪すぎたような気がしてならない。長谷川にすれば、8000m峰の単独初登攀までのつもりであったのかもしれないが。



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茶臼ヶ森     401.8m      四等三角点      窪川

窪川町の山である。チャウスガモリ。地形図

内径はほぼ3m25㎝ほどあった



 頂上に、旧日本軍が大戦中につくって、役だたぬままに終戦となった遺跡が残されている。米軍機の来襲をいっときも早く知るための監視哨の跡で、同じものが土佐山田町の甫喜ヶ峰の頂にもある。窪川町はもともとが台地で、標高が高い。だから400m標高の山にもなんの造作もなく麓から登り下ることができる。甫喜ヶ峰も似たような環境で、だからこのような施設がつくられたのだろう。兵隊さんがよく山に出入りしていたそうである。
 頂上はすっかりヒノキの植林に包まれていた。戦後早々は景色がよかったと地元の人は言っていたが、それを想像させるに足る光景が木々の間からちらりちらり見える。小さな四等三角点の南側にその施設はあった。3m25cm内径の円筒のコンクリートやレンガで造られた建造物が、空に向けて大きな口を開けている。深さも測って見ると、浅いところで底の堆積物まで1m60cm。それから下はどれくらいあるかわからない。小喬木やツタ類が内外そこかしこ跳梁し始めて、およそ60年前に造られた廃墟を自然に戻そうとし、あのいまわしい太平洋戦争の歴史が、もうすでに過去の些細な一瞬の出来事であったかのように装おおうとしていた。
 ひととおり写真などをとったりしていたが、風に、雨のけはいを感じられるようになったので急いで下山にかかった。

 
「なんといわれようとも、詠嘆や感傷が山登りの世界から完全に捨てきりえないものであるかぎり、いいのではないか、一年に一回しか見られない季節の饗宴の中へわれとわが身を置いてみるのも――これが北欧流の淫蕩の精神というものさ‥‥。」

上田哲農『日翳の山 ひなたの山』 雨と落葉松



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坂東山     377.6m     三等三角点      窪川

 窪川町の道の駅、「あぐり窪川」の北側にある山。その北、1km強には陸軍の監視哨のあった茶臼森がある。バンドウヤマ。地形図 

 平成20年現在、成果閲覧が停止されているため、三角点の現況は不明です。

現在はこの看板は撤去されているが



 国道
56号線から、思いのほか聳えている感じの坂東山が見えた。南西側の山腹には、「四万十清流の森」という、ハリウッドの有名な山上の看板のような、大きな切り抜き文字が一文字一文字わかれて立っている。だがそこまでは、どこかに道があって登れるだろうが、その先はどうなっているのかわからない。

 国道ぞいに駐車をして、JRの線路の下をくぐって歩きはじめた。さてどこから登ったものか、せまい未舗装の軽四のみ走れるような道を歩いて登るルートをさがすが、山に踏みこめる隙間を見つけることができない。ただ一軒ある民家で山道をたずねてもはっきりとはわからず、三角点はずっと昔にはあったが、いまはもう無いようなことをいう。標石は埋まったりしていることはあっても、無くなることはないというと、ようやく納得したようだった。その民家の奥の田畑を過ぎたところにある竹やぶを抜けたところで、尾根に取りつき、北側から頂上に迫ることにした。
 左奥に頂を見ながら、尾根をグルリと左にまわり込むかたちで三角点にむかった。横にはった枝をはらいながら進み、歩きはじめて1時間後、ようやく頂上に立つ。標石は想像以上に、汚れも苔もつかず、白く輝いていた。欠けもすくなく、殺風景なヒノキの植林近くの中央広場で目立っていた。すこし離れたところにあるプラスチック柱のほうが、かえって、蘚苔類やカビでうすぎたなく黒ずんでいた。風が吹きぬけて汗がひいていく心地がする。北から登ってきたので、東側に下りかけたが、相当に急で、シダがうるさそうだったので、引きかえして元来たコースを帰ることにした。

 
「胸いっぱいに鳥海山頂の空気を呼吸したとき、これで当分はからだのどこかにこの空気が保たれていると思われるようなうれしさだった。」

松井幹雄『霧の旅』 出羽の山旅 鳥海山の頂まで



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小元山     424.0m     三等三角点     興津浦

 佐賀町の東部、海岸近くの山。4kmほど北には五在所の峰があり、町のほぼ反対側には大本山がある。コモトヤマ。地形図

一輪だけ花を咲かせたヤブツバキ



 左足首のリハビリ山行二週目、今回は国道
56号線を西へ。片坂をくだった佐賀町の橘川というところで南にはいって、未舗装の林道を4km強走った森林管理署のゲートのある峠、そこが小元山への登り口であった。

 準備をすまし、ゆるゆると広い尾根道にのり、厚い落ち葉の層をざくざくと踏む。ところどころにマツカサやドングリが落ちていた。まわりはほとんどがにぎやかで人なつっこい雰囲気の照葉樹たち。人里はなれた1000mをこえる峰々の尾根や山腹に生える、寂しげでしかつめらしい孤高の雰囲気の落葉樹たちとは大違いである。急坂を登るとき、左足にかかる負担を軽くするため、道端の比較的曲りのすくない小喬木を一本、いつものように、「ごめんね、ありがとう」とつぶやきながら切り、手持ちの一本にくわえて二本のダブル・ストックにして歩いた。
 頂上は、ヒノキまじりの雑木林が測量のためひろく切りひらかれて広場になっていて、キズもない三角点がその中央にあった。潮騒はきこえず、かすかに国道からの車のタイヤ音がとどいている。ひととおりいつもの山頂での行事をすまし、ゆっくり下山。ツバキの花が一輪だけ路傍に見えた。周囲にツボミはおおかったが、咲いていたのはまだその一輪のみのようであった。

 
「吾はただ独り わが心を鼓舞する軟風にあこがれ、

常に眼前に開展する 天然の書籍を黙読せん」

ジェイムス・トムソン(170048)スコットランド生まれの詩人



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三崎山      218.7m     三等三角点      興津浦

窪川町興津の山である。ミサキヤマ。地形図

六川山付近より見る三崎山



 県下屈指の海水浴場、小室の浜は、この山のある興津崎によって、実質的にも、風景的にも、成り立っていると言っても過言ではない。その岬の最高点が三崎山である。
 森林管理署には「保健保安林」に、また高知県によって「興津三崎風景林」に指定されており、照葉樹林が保護されている。頂上からは何も見えないが、すぐ近くの普観寺の前から、太平洋や眼下の岩場などが見えていた。寺には十一面観世音菩薩が祭られており、通称、観音様と呼ばれている。岬には興津崎灯台があり、昭和40年代ごろまでは居住者がいたが、今は無線による遠隔管理になっているようで宿舎の跡は広場になっていた。
 寺や灯台まで車道が通じているが、反対側の、小室の集落の方から遊歩道で登ることもできた。

 
「小高い処も一つ一つと乗り越えて十二時半に天辺の岩に達した。そこで三鞭の口を開け、それに山のきれいな雪を混ぜると風味絶佳の飲料が出来た、此の味は都会の逸楽の徒には夢想だに及ばぬところである。」

ジョン・チンダル『アルプス紀行』 ピッツ・モルテラッチの椿事



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扇山       651.5m     四等三角点      米の川

窪川町の山である。オウギヤマ。同名の山は西土佐村にもある。地形図

松葉川温泉付近を見下ろす



 登山口に向かう道の路傍にはススキが穂を広げ始め、野菊が咲いていた。山間の田では刈り取りの真っ盛り。農機具のエンジン音が響き渡っていた。私はこの季節の山の田園風景が好きだ。陽光はやわらかくなり、斜めから射すようになった光はいろいろなものをより美しく見せてしまうような気がする。刈り取ったばかりの藁の香がまたなんともいえずいいものだ。
 扇山から尾根を南にむかうと枝折山につづき、その手前を右にすすむと一等三角点の城戸木森にたっする。わずか数十年前まで、車の道がこれほど発達する前まではこれらの山々の尾根をむすぶ道が人々の最短の移動手段であったことは確かである。地形図にもそれらの道が点線でえがかれているが、それらもはや、すでに失われるか、それほどでなくてもヤブをはらうことなしに前進することが困難な道になろうとしている。
 この山も例外でなく、たしかに道は地図にしるされているが、それを利用してスムーズに頂上まで行くことはできなかった。
 三角点は比較的あたらしい四等点だった。そこからは何も見えないが空はひらけ、樹上に航空測量をしたときの白いプラ板をはった十字型の標識がのこっていた。途中、566mピーク手前の斜面から、眼下の谷間に松葉川温泉や、そのちかくの分校跡キャンプ場などの施設が見え、まわりの山々が見わたせたのがこの山行中唯一の展望であった。

 
「あらためて書くまでもなく、三滝ルンゼは権現岳東面の山肌に刻まれた襞のごとき沢溝の一つにすぎない。自然の造った粗削りな水路でしかないそのような場所が、困難と危険をともなう悪場であるがゆえに、登るべき一ルートとして、ある仲間たちの心をとらえた。登攀という行為によって結ばれたそうした山との係わりあいに、どんな意味があるのかと問われても、私にはうまく答えることができない。だがそこに、登攀者としての彼らの喜びや悲しみの営みがあったことは確かである。」

山口耀久『八ヶ岳挽歌』 三滝ルンゼ



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枝折山      806.3m     三等三角点     米の川

窪川町の山である。エダオリヤマと読まないことを願っていたら、シオリヤマと読むようで安心した。シオリヤマならばいい名前だ。枝を折って山道などで行う目印を 枝折(しおり)といい、それから「枝折(しお)りする」とは、「案内をする」という意味にもつかわれるようになった。山名も読みようでイメージが大きく変わるものだ。地形図

枝折山より下山をはじめる



 水平距離からいうと、山の北側に神川から入っている林道から登る方が近いのだが、今回は米川から登ってみることにした。狭い林道の奥詰まりの先に、山道が見つかり、そこから入山。そま道は西から南、北と方向を変えながら、わずかずつ登るトラバース道で、一向に枝折山のほうに向かおうとしない。もうすこし行ってみようと進むうち、道はやがて急に北に向きを変え、間もなく南北のはっきりとした尾根道と交錯した。大山衹大神という御札のある小さな祠があって、下山してから川奥の人に聞いた話では、そこは遅越(おそごえ)という峠なのだった。そこから私たちは急な尾根を北上するコースをとった。道はかなり広くはっきりしていた。ときどき、横にはり出した枝を折りながら進む。
 上部では、雪が地表を白く覆っていた。動物の足跡が先導するように点々と続いている。主尾根を西に伝い、ひと登りすると、くちはてた祠があり、その先十メートルも行かないうちに三角点は見つかった。周辺はあまり大きくない広葉樹の林である。ところどころに何十年も前に倒された大木の切り株が、腐朽しながら残っており、それらの魂を鎮めるかのように、陽光が、木々の間から静かに射しこんでいた。


「枝折(しおり)せでなほ山深く分け入らむ 憂きこと聞かぬ所ありやと   西行
 (道しるべもしないでなお山深く入りたい。辛いことを聞かないですむ所はないかと)」

「吉野山こぞの枝折(しお)りの道かへて まだ見ぬ方(かた)の花をたづねむ
 (吉野山で昨年道しるべしておいた道ではない方の花をたづねてみよう)」

『西行 花と月の間に』三上和利
 


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城戸木森     908.7m     一等三角点    米の川

大正町と窪川町境の山である。シロトギモリ。一等三角点補点のある山であるが、国土地理院の地形図には山名が記されていない。地形図

ゆったりした風貌の一等三角点の山



 かなりしっかりした登山道が、大正町の林道から山頂まで通じていた。途中には、丸太を二つ割りにした、野性的なテーブルやイスが備えられた休憩所などもあり、そこの周辺から大正町側の山々を望むことができた。登るにつれて、 ヒメシャラやアカガシの大木が目立つようになる。とくにアカガシは、直径が1mを越えるものが多く目についた。
 道端の木の幹には、平成9823日に登ってきた全国の青年たちのメモが書かれた木札が、針金でくくりつけられていた。そのなかの、「ここまで来てよかった」という静岡県の女子大学生が残した木札がとくに印象に残った。ツクバという文字が多かったので、筑波大学の学生たちだと思っていた。あとで調べると、それはインターネットで全国から集まってきたボランティアたちで、山道を整備し、テーブルを置いたのも彼らだということだった。
 頂上は、桧や広葉樹に広場の周りは包まれ、展望はほとんど開けない。大きな一等三角点が、夏草のなかに、その頭部をのぞかせていた。

 
「危険のまっただ中で二人で生きた時を、《人間が嘘も偽りも言わない》ときを決して忘れるな。」              

ジョン・コスト 『アルピニストの心』



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東峰山     618.8m      三等三角点     米の川

大正町の山である。ヒガシミネヤマ。中津川をはさんで西側に西峰山があり、対になっているが、こちらの方が100mばかり標高が高い。地形図

すずしい木陰で昼食をとる



「ヤイロチョウ」というバードウオッチャーがあこがれる美しい鳥がいる。春から秋にかけて日本に渡ってくる小鳥なのだが、高知県の鳥であると同時にここ大正町の鳥でもある。その「ピィフィー、ピィフィー」という体に似合わぬ大きな鳴き声が今にも聞こえてきそうな山である。
 今回ほど展望に恵まれた山行は最近にはなかった。歩いたコース、ほぼすべての内側がそれほど年月の立たない桧の植林地で、なお現在、大正町森林組合の人によって、下草刈りが行われている最中の山域だったからである。行程の9割以上で開けていた。非常に急な上、崩れやすそうな山道も、ずっと草が刈られているのはありがたかった。途中で、お昼に帰る老若の人たち45人と出あった。桧は6年から7年前に植えられたものだそうだ。暑い盛りの下草刈りは大変だと思うのだが、皆そんな顔はしていなかった。
 そこからいくつかの頂を越えた。東峰山の頂上は、マツやヒノキに広葉樹が混じり、何も見えなかったが、10mも東に寄れば先ほどの展望が広がっていた。昼食は一つの頂の一本だけ残されたヤマモモの大木の涼しい木陰で取った。眼前には一等三角点の城戸木森が端正なその姿をのぞかせ、その左手の方にはアカガシの大木林のあった小松尾山が見えた。そして、東峰山の頂の上には、大畑山が覆い被さるように、その姿を見せていた。

 
「ヤイロチョウ(八色鳥)というのは和名です。学名ではPitta brachyura nympha(ピタ・ブラキユラ・ニンファ)といいます。
 Pittaというのは、インド南部でつかわれていることばで「小鳥」、brachyuranymphaはラテン語で、それぞれ「尾のみじかい」、「水の妖精」というような意味です。
 ですから、ヤイロチョウは、学名では「尾のみじかい水の妖精のような小鳥」という意味になります。
 からだの大きさは、頭から尾までの全長が18~20センチメートル、つばさを広げるとはばが約5センチメートルほどです。スズメの全長が14~15センチメートルくらいですから、スズメよりひとまわり大きい鳥です。オスとメスはからだの色も形もそっくりおなじで、見分けがつきません。」 

ヤイロチョウ〔八色鳥〕深い森でくらす妖精 中村滝男



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藪ヶ尾山    690.7m     三等三角点    米

 窪川町西部の山である。この三角点から尾根を北進し、東に転進すると枝折山に、西に進路をとると城戸木森などに達する。「点の記」では藪ヶ尾のヶにノとルビがふられていた。ヤブノオヤマ、ヤブガオヤマ。地形図

かなり損耗の激しい三角点であった



 まちがえて、県道
328
号線(古味野々川口線)のはずが、その東側の神川ぞいの林道をカーナビでルート設定してしまい20Kmちかく無駄に走ることになった。引きかえして県道に乗り目的地の下源見橋周辺に入ってからも、登山口がはっきりせず、管理署の林道に登路を求めてみたり、しばらく行ったり来たりしていた。今回実際登山に要した時間は2時間ほどであったが、それに近いほどの時間を、これで間違いなく今日中に頂上に達す ることができると確信するまでに費やしていた。
 橋を渡って間もなくの崖を5mほど上ったところに歩道が見つかり、それを辿っていると、先ほど下見に訪れた民家に出、その上の段に尾根の方にむかう道が見つかった。それが捜し求めていた登山口であった。尾根は見事に育ったヒノキやアカマツ、それにモミなどの馥郁と木の香りが立つような、おとぎ話の森の小道を歩く、そんな気分にさせる豊饒の森であった。傾斜もあまりなく、樹幹の上の方も十分に見上げることができて、アカマツの赤い幹が空にむかって一本一本伸びている。ところが頂上が近づいたころ、東側が5mほどのヒノキの若林になり、まわりの山々は見渡せるようになったが、カヤやイバラのヤブに少々苦しめられるようになった。だがそれも数十分のこと。やがて管理署と民有林の境の尾根に出、数分で三角点を見つけた。尾根道のそばにあり、占有域を持たずさびしそうだった。欠けたところも見え、苔もついていた。そばで昼食をとった。汗をかいた背中が寒い。風はなく静かだったが、小鳥の声はすこししか聞こえなかった。
 カヤ場にも道が出来て、下りは早く1時間強で民家まで下りた。池に大きな鯉がいて、大きな声で庭先を通りすぎようとしたら、午前中には留守だった民家の窓のガラス越しに女性の顔が見えて、あわてて妻が「三角点まで行ってきました」と言う。女の人が「ご苦労さまです」とこたえたのは、どうも仕事で我々がこの山に来たように思ったようだった。

 
「あかず肉に渇(かつ)え、毎日暗黒な、無聊(ぶれう)な、不平な、散文的生活を送って、終焉(しゅうえん)を待つのが、文明の人間である。」            

小島烏水『日本アルプス』



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水持山     607.4m     三等三角点     米

 窪川町中央部やや西寄りの山。尾根を北上すれば枝折山へ、南下すれば二等三角点の宮内山がある。ミズモチヤマ。地形図

緑の中を下る



 初め、下呉地から県道
322
号線にはいり東側からアプローチを試みたが、道もはっきりせず、是非こちらから登ってみたいという気持ちにもなれず、一度国道にもどって前週に藪ヶ尾山登山のおり入った神川の林道側からルートを求めることにした。こちらから登るとすれば川を対岸に渡る必要がある。近づいたころ養鶏農家にはいる橋があったので渡って民家まで行き様子を聞いた。町から来て土地を手に入れ今風の家を新築したばかりのような人で、聞くのが無理かもしれなかったが、やはり彼はまったく道はないように言う。そこで養鶏場の北側にある5分ほどで行き詰まりになるという林道をとにかく調べてみ ることにした。その辺りが、登路に考えていた尾根の取り付き点近辺だったからである。
 林道は5分歩いてもさらに続いているようだった。その時斜めに上っている作業道が見つかり当然のようにそれに乗ってみる。荒れていたがしっかりした踏み面があるということだけでも道は有難い。次の分岐を右にとったが、これは結果的には誤りで、まもなく道はなくなり崖のような斜面をよじのぼって支稜に出、さらにシダヤブをこぎながら登っていると再び作業道に出た(これは先ほどの分岐を右にとらずに直進しておれば出る道で、帰途にはそれを歩いて帰った)。そのまま進み終点まで行ってから、道が目的の尾根と交差したところまで引き返して最後はそれを伝った。標高差にして200mほどの上りである。途中、ブナやツガ、マツなどの大木が残されているところの雰囲気はよかった。登りきったピークから左に高さにして20mほど下がったところで寂しそうに三角点は待っていた。まったく頂上らしくない尾根のようなところである。
 小鳥が目の前の枝にとまり、すぐに飛び去った。近くで声も聞こえる。一本道というわけにはいかず今日も右往左往した。窪川市街からも近く比較的浅い山なのだが、真冬に2時間も山中を彷徨して到着した山頂はもっとずっと山奥の山にきたような気分だった。

 
「近代の生活中に、人が索(たづ)ねてゐるものは、有益といふことばかりだ、唯物質的に、生活を改良して行かうといふのである、科学は毎日のやうに、衣食住に対して、新しい方法を発明し、粗悪なものを、経済的に製造して、広く贋物の享楽を人に与えてゐる。

小島烏水『日本アルプス第三巻』冬の木曽路



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宮内山      534.4m    二等三角点     土佐川口

窪川町の山。行政名窪川で三ヶ所しかない二等三角点のうちの一つがこの宮内山である。残る二つは大小権現山と六川山。ミヤウチヤマ。地形図

荒廃した作業道を歩いた。展望は最高であった



 すこし余分に歩くことになるかもしれなかったが、山の北西側近くまで入っている林道から登ってみることにした。歩くことは苦にならない。むしろ山へ行ってあまり歩かないことのほうが不自然に思える。起点から1kmほど入ったところで前進不可能になり、準備をして行動開始。路面は水で抉られ、崩れて喬木のない斜面に多くの土砂が流れ落ちている。荒廃した風景。自然破壊という言葉もふと頭に浮かぶ。その代わり、遮るもののない路面上からは怖いほどの眺望が広がっていた。尾根に出ると、大野見や中土佐町、ふりむけば、大正町、佐賀町などまでの山々、直下には駐車した私の車が見える。空は雲もない青空。先ほどから軍用であろうか翼の後傾した大型機が何機か高空を通り過ぎた。どれも長く飛行機雲を引いている。天気は落ち気味のようだ。
 頂上へは林道の奥詰から10分を経ずに到着した。無傷の三角点。近くには NHKの、テレビ共聴用だろうアンテナが1本立っていて、その管理のためか周囲はきれいに刈られて広場になっていた。先ほどまであれほど得られた展望がここでは空以外開けていなかった。しかし風は遮られており、まだまだ寒い季節、そこの陽だまりで昼食を取ることにした。

 
「かくの如く私の知っている山は少ないが、山を愛する心は人一倍強い。なぜであろうか。
 私は第一に私自身が、完全なる休息を楽しまんがために山に登るのであることに気がついた。即ち、ありとあらゆる苦しみをして山を登って行く。平素運動を少しもしていないのだから、ひどく疲れる。日光と風と雪の反射だけでも疲れる。汗水を流して登って行くと、のどはかわく、ルックサックが肩に食い入る。かかる時、たとえば針ノ木峠のてっぺんに着いてあのボコボコした赤土の上に、ルックサックを投げ出し、横手に生えた偃松に、ドサリと大の字になった気持ち。あれこそは完全な休日、Complete restである。」

石川欣一『山へ入る日』 山に登る理由



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さこ山    608.8m    二等三角点    土佐川口

大正町の山である。ヤナギガサコヤマ。地形図

三角点に到着する



 一日、遠方の市町村の役場や森林管理署に出向き、あるいは車でどこかに登り口はないかと探しまわっても、まだ登路を見つけ出せないときもある。そんな山も、いざ登ってしまえば、案外簡単だったということも多い。それでも下調べから自分自身で賄ってこそ、このような山へ登る醍醐味があるというものである。
 今回も、日をかえての下見ということはしなかったが、それでも登りはじめるまでが大変で、登山口を決定してからは比較的楽であった。あたり一帯は高知市のある運輸会社の社有林だそうで、桧の植林も、よく手入れされていた。下山すると、作業している人が昼食中で、話を聞き、甘えて最初に登ろうと考えていた旧峠の登り口まで車で案内してもらった。そこは源太夫峠だそうで、どうも地元の人たちは、この山のことを源太夫串山と呼んでいるようなのである。柳さこ山という山名は知らなかった。
 頂上は桧の植林と広葉樹にはさまれた、東西に続く尾根上にある。そこからは何も見えなかった。ツクツクボウシが鳴き、涼風が吹いて、そういえば今日は土佐一宮の志那祢さまの本祭りである。秋はすぐそこ、というところか。下界ではまだまだ厳しい残暑の日々がつづいているのだが。

 
「たたかれればたたかれるほど、わきあがってくる炎のような闘志に僕は熱狂する。僕が追い求め、喜びを感じる登山の本質がここにあった。こんなことぐらいではびくともしない心に感謝しよう。」   

小西正継『ジャヌー北壁』 巨大な氷の滑り台



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大迫山    574.7m     三等三角点    土佐川口

 大正町の中心地、田野々の東ほぼ2㎞にある山。その間の田野々のアンテナ山に「梼谷」四等点480.0mがある。オオサコヤマ。地形図 地形図

小鳥たちの声を録音しようとしたのだが…





 地形図にはアンテナ山から先は車道がなくて歩くことを考えていたが、作業道はさらに奥まで延伸していた。いや現在まさにその工事が進行中であった。しかし途中から前日の雨でひどいヌカルミになっていて、恐れをなして途中で車を道端にとめ、ヌカルミのない尾根を行くことにした。ひと山越えたところでは何台もの重機が路面を掘り起こしたりして工事の真っ最中。もう一度作業道に出て尾根を上ったところで三角点は簡単に見つかった。時間的にまだ先だと思っていた矢先に後を来ていた妻が先に標石を見つけて声をかけたのだ。ヒノキの植林の中である。林間は空いてとくに北東側の山々がよく見えた。昼食の間、PCMレコーダーで小鳥の声を録音したが、帰って聞くと、ウグイス他の小鳥の声に交じって、飛行機の音や田野々あたりからのお昼の時報のメロディ、自分たちの発する雑音などが相当大きく入ってしまっていた。

 帰りにアンテナ山の「梼谷」四等三角点をさがす。
KDDIのフェンスのそばにあった。近くにNTTやJphoneなどのほか、県内テレビ各局のアンテナ施設などがある。その外れの鉄とコンクリ製の展望台に上ってみたが、山はよく見えたものの、まわりの木々が大きくなりすぎて、期待していた四万十川や田野々の様子はほとんど見えなかった。

 
「山で死にたい人が、仮令(たとひ)不慮の最期であつたとは言へ、山で死んだとしたなら、山へ埋めて置いてもいゝでは無いか、苔を愛した植物学者の墓へ、苔が蒸したとしたら、掻き落さずとものことだ、墓の文字が消える位は、何でも無い、自然の中でも、山は奥の院である、寺院に詣でるものは、先ず仏塔のありがたさを仰(おが)むであらう如くに、自然の精舎に詣づるもの、誰かは山岳の荘厳を、礼拝せずにゐられやう、死骸が見えなかつたとしても、深秘の谷があり、明浄の祭壇にも似た岩が立つてゐる、日没が最後の光の一線を拭き取つたとき、あの人 は今眼を閉ぢたと思ひたまえ、北風が雪の頂から、ヒューヒュー吹いて来たときに、あの人の紀念(かたみ)の呼吸(いき)だと思ひたまへ、王侯の富も、力も、築き能はない荘厳なる墳墓の中で、安眠してゐるものを、能々(わざわざ)引き出して、何尺何寸と、縄で測るやうな地(ち)坪(へい)の中へ押し入れて、「ものさし」の力で、人物の寸法を秤(はか)られる石塔といふものを据ゑられるのは、もし私が、その人ならば、キッパリといやだと答へる、ワーズワース詩中の「寂しき山の中なる眠り」(Sleep that is among the lonely hills)の一句を、墓碑の銘とすることが、谷中(やなか)や青山(あおやま)で、金字彫り、赤字浮かせの墓、虚偽阿諛(あゆ)の碑文の下に、屈辱されてゐるのに比べて、より多く不幸であるとは、私にはどうしても思はれない。」

小島烏水『日本アルプス第二巻』舌とペンと



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浦山     308.6m     二等三角点     伊与喜

佐賀町の中央部近くにある二等点の山である。点名は「熊浦」。地形図には「串山」と記されている。クマノウラヤマ。地形図

夕刻の土佐佐賀市街をのぞむ



 県内には山名に熊の文字の付く山が勤山を入れると6山あって、鷹、烏などの4山をおさえて生き物名の付く山では当書では今のところ一番多い。そのうち東熊山、西熊山、熊王山など中部山地の山々は熊がいつ出てもおかしくないのでここでは置いて、西部海岸近くの山に付けられた熊の名である。それらは土地柄最初なぜ熊なのか不自然に思われた。
 神話時代の英雄、ヤマトタケルノミコトはそれこそ東奔西走して、各地の天皇に従わない豪族を次々と誅伐鎮定していった。それらのうち、九州南部に勢力を保有していた勇猛な人々が 熊襲(くまそ)と呼ばれていたのを皆さんも覚えておいでであろう。熊襲の長、川上タケルがヤマトタケルに謀殺される前か後かはわからないが、熊ヶ森や当の熊浦山などはそんな九州の民が海を渡って住み着いた土地ではなかっただろうか。熊襲ヶ森、熊襲浦だったのである。これらはもちろん想像するのみであるが、高知県西部の遺跡の多くで九州産の土器が多数発見されていることも、その思いを巡らせるのにはよい材料である。
 頂上にはNHKテレビや佐賀町防災無線などのアンテナが4基ほど立っていた。なかでもひときわ大きく高い施設とアンテナはセルラーホンと書かれていた。三角点の周りだけひとすみ自然のまま残されて一段高くなっている。草むらになりかけていたので、鎌で刈り広げ、ふと見下ろすと、南西の方向の木々が開かれていて佐賀港や佐賀の市街などが美しく広がっていた。

 
「開かれた窓よりも閉ざされた窓の中に多くのものが見える、とあるフランスの詩人は言った―――。」                

山口耀久『北八ツ彷徨』 雨池



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大本山     334.4m     三等三角点     伊与喜

 佐賀町の西部、伊与喜集落の西にある山である。町の対称点に小元山があるのは偶然だろうか。オオモトヤマ。地形図

まず国地院の白い標識柱をみつけた



 伊与喜の林道を何キロか走り、さらにフトヲ山造林作業路にはいったのだが、はたして目的地までゆくのか不安になるほど、あらぬ方向をむき、曲がりくねり、さらに分岐している。今日中に到着できないかもしれないなと考えだしたほど、途中まではあやふやではっきりしない悪路であった。すこし走ってはナビをくり返して、位置を確かめながら進んでいるうち、だんだん目的地に近づきはじめて、ここでようやく行程に確信がもてた。

 最後の分岐で、外に出て、コンパスで山の方向をしらべていると、突然前方から一台の軽四駆があらわれて驚いたが、それはまだ前ぶれにしかすぎず、その後つぎつぎと軽四に乗ったおじさんたちと出会うことになった。彼らは、ちょうど私たちが大本山への登山予定地にしていた場所を集合点にしていたよう である。剥き出しの銃を肩にしたいかつい男たちの群はシシ猟師たちであった。冬の山ではよく出遭う独特な雰囲気の人たち。彼らもわれらと同様、山での一日を楽しんでいるのであろう。
 猟師たちに見送られて、きゅうな山の斜面にとりついたが、踏み跡があり、すぐに、シダのなかに立っている国地院の白い標柱を見つけた。三角点を探しだしたのはさらにその数分後。ヤブをざっとひらいて記念撮影をすます。下山をはじめて、ふと左手に佐賀町の中心市街地が見えるのに気がついた。さらにその先の海と、海にむけてじょじょに高度を下げてゆく大方町との町境の山並みが見えている。作業路を帰っていると、さきほどの猟師たちが路の要所にひとりひとり立ち、犬に追われて落ちてくるケモノを待っていた。

 
「たとえ日本国中を隈なく遊歴したとしても、旅それだけでは何の意味もなく、意味を持つためには、旅をすることによって何かが生み出されてこなければならない。」

吉田武三 『松浦武四郎』



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仏ヶ森     687.7m     二等三角点     伊与喜

中村市と大方町の境界にあり、大方町の最高峰である。昔、県東部に「平家ヶ森」の名が多いように、幡多のほうにはこの「仏ヶ森」が多かった。この大方町の山はそのひとつである。ホトケガモリ。地形図

仏ヶ森にむかう森はうつくしい



 山や森を歩きながら、いつも神や仏の存在は感じている。それは何教に帰依するとか、何宗に入信する、ということではなく、わが心の中でそれらと常に対話するということである。淡く確かな信仰。ほんとうの信仰心とはそんなものだと思う。対象が何であっても狂信的であってはならないのは当然である。
「佛ヶ森隧道」を中村側に越え、150mほど下ったところから登った。頂上には、なかに数体の仏さまの並ぶお堂があり、その奥側に三角点があった。まわりには地元の中学校の生徒たちが残した、遠足記念の名前を連ねた木の板などが立っていた。お堂に備えられていた登山者ノートに「昔は海がよく見えたのだが」という、年配の方の書き込みがあったが、その言葉どおり、太平洋の方向は植林が育って何も見えなくなっている。その他の展望もそれほどのこともなかったが、広葉樹の尾根の植生はきれいだった。
 国道56号線に引き返す途中に、大方町の浜に上陸したといわれる御醍醐天皇の皇子、尊良(たかなが、たかよし)親王にまつわる悲しい娘の伝説を今に伝える「千代の淵」と、その碑がある。今はこんなところに身を投げることができただろうかと思うほど、浅く小さな滝壷と流れがあるのみである。


「(尊良親王の)流刑の地畑(はた)が何故中村でなく有井川であったのか疑問が湧く。保元の乱〔保元元年(一一五六)〕土佐に流された藤原師長(もろなが)(左大臣頼長の次男)や、承久の変〔承久三年(一二二一)〕同じく土佐に流された土御門上皇は共に「土佐畑配流」である。 大方町史によると、遠流の地であった頃の中村は四万十川の中州で政治的中枢の役目を果たすに至らず、入野は大潟(おおがた)で砂浜であったと思われる。流人とはいえ高貴の方の住める所ではなかった。「畑」の中心は有井川で、流人の受け入れ態勢が整った土地であったと考えられる、とある。」

『土佐史談203号 土佐の山とみどり特集号』
「史跡探訪 尊良親王と王野山」佐伯健一



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鳥打場     509.2m     三等三角点     伊与喜

中村市と大正町境の山である。トリウチバ。地形図

コンパスを使いベアリングする



 ハトなどの、ある種の鳥たちは、山を越える時、不特定のところを抜けるのではなく、一定の場所を通過する習性を持っている。猟師たちはそれを知っていて、その下で待ち、これを撃ち落そうとするのであるが、打つと撃つで文字こそ違うが、鳥打場峠は狩場だったのである。「昔人鴛鴦ヲ取ル處」、楠山村の鳥 打場のことを「土佐州郡志」ではそう説明している。鴛鴦とはオシドリのことで、網による狩猟であった。この山の場合、南東側の谷に「ひよみね」の地名が見え、そこから山道が当山のほうに延びている。ここではヒヨドリを獲ったのだろうか。
 その峠から標高差150mほどの山頂にある三角点の点名も同じ鳥打場である。地図で見ると、ごく近いので登るのは楽なものだと思っていた。しかし、いつも入山してから苦労をする。峠から尾根に出るまではとにかく急で、帰りにはロープが必要かと思われるほどだった。そこに出ると今度は若年の植林の下刈りで非常に歩きづらい。いつの間にか尾根を外し、トラバース道にはいってしまい、斜面を尾根まで登りかえす折りには、倒された間伐材を越えるのに手間取った。
 ようやく頂上に着き、ふと左手を見ると、何とそこまで作業道が来ているではないか。しかし、登山には元々、苦労を買ってでもするという面があるのだから、それはそれで別にいいのである。記念写真を撮ってから、数メートル東側の斜面に出ると、東と南側に展望がひろがっていた。かすんでみえる仏森などの山々を眺めていると、小雨が降りはじめ大急ぎで下山にかかった。

 
「体格のいい嘉門次さんは「さぞ寒むかっつろ」といって作業服をぬがせ、自分の着物を貸してくれた。炉のまわりには毛皮がたくさんあって鉄砲が立てかけてあった。犬も一緒に同居していた。炉の上には、人の乗れるような台が滑車で吊り上げられておってその上にイワナが乾してあった。この台は水が出ると嘉門次さんが乗って、水が増すにしたがって天井の方にせり上って水の引くまで待つのだそうだ。年は六十幾つとかいった。まだまだ若者に負けはしない。山に行けば隠居さんについて行けないというほどの足速である。釣をしても隠居さんの側ではとても釣れないというほど妙を得ている。若者からも父のごとく尊敬されている。会ってみてもじつに心持よい人である。山で鍛えた人格である。家は島々村に立派にあるが、山にいなくては病気になるといって年中この一軒家に住まっている。冬は食物を蓄えて猪や熊を狩りに出る。ここにいる犬はその時のお供である。嘉門次さんが食えといわねば鼻の先の魚も食べない。自分はここに宿りたくなったが、いいだしかねて二里の道を温泉に帰った。」


 年老いた嘉門次のことを板倉勝宣(いたくらかつのぶ)は『山と雪の日記』の中でこういうふうに書いている。書いたほうも書かれたほうもその人柄がにじみ出ているようである。嘉門次はこの翌年に死ぬが、若い板倉にしてもわずか7年後に彼岸の人になろうとはだれも考えなかったことだろう。大正12117日、彼が北海道大学を卒業したあくる年、槇有恒や三田幸夫らとともに立山でスキー旅行中、吹雪に遭って遭難死するのであるが、その状況は、槇の著書『山行』の「板倉勝宣君の死」に詳しく述べられている(三田幸夫の「松尾坂の不思議な幻影を思い返して」を併せ読むとなお詳細である)。『山と雪の日記』は死後に、槇ら、彼の友人たちによって出された追悼遺稿集であるが、それだけではない力を文章に感じるのは私だけではないはずである。



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石鎚山     461.5m     三等三角点     土佐佐賀

佐賀町と大方町の境界上にある山である。イシヅチザン、イシヅチヤマ。地形図

佐賀町市街や港、そして、太平洋



 私のもつ平成元年修正測量の地形図を見ると、この三角点に達するために幾とおりかのルートが考えられた。大方町の海岸の方からはいる二本の林道のどちらかからアプローチする方法、そして佐賀町がわから点線の山道などを辿る登り方などである。具体的なことは現地におもむいてから決める予定であった。佐賀駅に近づいたころ、山の方向を見ると、石鎚山あたりの山腹に幾すじかの作業道が見えるではないか。これは利用できるかもしれない。国道をおりて馬地あたりで情報を集めることにする。三組ほどの人に聞いたが、その誰もが親切で、最後の町内会長さんなどは自分の車で山頂部の見えるところまで移動してくれて、「あそこが石鎚山の祠のあるところ、その向こうが三角点の峰」と指さして教えてくださった。
 そんな作業道を4kmほど登る。小型の頑強な四駆車でなければこなせない道かもしれない。そうであれば歩いて登ってもおもしろいだろう。「石鎚山登り口」からは険阻な山道。だが距離はみじかく、まもなくコンクリート製の小さな鳥居と祠のある頂に着いた。祠の奥には大正九年六月之造の文字が見える。なんというすばらしい展望だろう。切りひらかれて植樹などされた東側の斜面上部からは佐賀町市街や漁港、南に広がる茫々とした太平洋。水平線は遠くかすんではっきりしない。そして熊浦山など平々凡々の山なみの向こうにはひときわ目立つ五在所峰の尖って端麗な山容が望まれる。国道にひっきりなしに走る車、港をときおり出入りする漁船たち。
 三角点はそこから200mほど尾根を伝った頂のシダのなかにあった。大方町側はヒノキの植林、そのほかは雑木林。景色は海も山も木々の間から見えるがそれを展望とは呼べない。祠の頂まで引きかえし風の当たらない斜面で昼食。風花が舞っていた。後ろ髪を引かれながら下山。石鎚山は町境にあるが紛れもなく佐賀の山である。こちら側から登れたことは幸運であった。下山後、佐賀港のほうから今日登った山をまぶしく見上げた。

 
「いい山だ 岩峰の男性味も、森林の清新さも、植物や花の愛らしさも、小鳥の声も……私の心を、つよく魅了した山が、またふえた。」

村井米子『山恋いの記』 ツツジ咲く四国石鎚山



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白浜山     179.8m    二等三角点     土佐佐賀

大方町の東南部、海岸近くにある山である。佐賀町側の景勝の地「白浜」の後方の山であり、井岬の根元部分にある。シラハマヤマ。地形図

下山中、山頂方向を見あげる



 この三角点から南に行った岬先端部の標高150mほどの地点には幕末期には火立場(狼煙場)があった。興津崎に通報する中継地だったそうで、今でも一辺5mの方形の石垣があり、また、太平洋戦争末期に作られた防空監視哨の鉄筋コンクリートの遺跡もその近くにまだ残っているとのことである。
 平成7年に書かれた「点の記」には、「道はある」と記されていたのだが、谷は荒れ、山道もすでにその痕跡をまったくといっていいほど残していなかった。山から糧を得られなくなったからといって、これほど早く人はそれを忘れ去ることができるものだろうか。その結果はまた自身に返ってくるというのに。
 谷はあきらめ、支尾根によじ登ってルートを探った。しかしそれもあまり思わしくなく、陽光の届く斜面上には、ところどころシダが繁茂し、それを避けながら行かねばならなかった。1時間強かけて主尾根に辿り着いたときには、その暑苦しさに少々辟易していた。11月中旬にもなろうというのに、まだ陽気は9月並みで湿気は梅雨ごろの感があったからである。
 三角点も照葉樹林の中、そこのみ集中的に育ったシダに埋もれていた。プラスチックの標識がなければ見つけられたかどうか。両側が海と言ってもいい岬の山なので、潮騒と国道の音が上ってきていた。時折、北側の土佐黒潮鉄道の線路を走る列車の音。上空ではトンビがゆっくりと空を滑り、その影が樹間を透して地表に落ちる。

 
「岩壁の中で見出す水はたとえ一滴であろうと貴重であり、心のなごむものだ。水道のジャグチを開け放し、両手で水を受け顔を洗う時より、この、ひとしずくの水滴で濡らすくちびるの方が、すがすがしく感じられるものだ。」

今井通子『私の北壁 マッターホルン』 ついに登攀成功



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御児谷山    47.8m     三等三角点   土佐佐賀

 大方町の上川口港の山である。北には高山が、東には白浜山がある。ミコタニヤマ。地形図

参道を下る



 
天気が良いとはいえないので登るのに時間のかかる山はうれしくなく、朝、地形図を見て急きょ大方町行きをきめた。佐賀市街わきのトンネルを抜けるころには小雨がまた降りだして、白浜海岸のアズマヤで登山靴にはきかえ雨具のズボンとスパッツで身構えた。ところが登り口につくころになると雨も上がり薄日も射しはじめて暑くなり、下りてきてから雨具は脱いだ。金毘羅神社の参道は登りはじめの石段からコンクリートで舗装されていて、やしろ直前の石段にはパイプの手すりまであった。参拝をすませて神さまにぶつぶつお断りを言いながら神社うらの照葉樹林にはいる。尾根の高いところで探していたら妻が一段低いところに三角点をみつけた。濡れているせいか何か薄汚れて見えた。
 木々の間から国道が見え、車の走行する音が聞こえる。木の枝に記念プレートをゆるく結びつけ記念撮影をすまして下山。ドコモの「上川口無線中継所」のアンテナの近くから、井岬と波の寄せる磯の海が見えた。

 この三角点の西、入野松原のすぐ北の丘の上にある、「弘野」三等三角点25.3mにむかう。「弘野団地の南西200m、車を下りてから15m」と、「点の記」にはあるのだが、とてもそのように簡単にはいかない。それが書かれたのは20年前のことで、現在では篠竹と大小の喬木、ツルやイバラなどのものすごいヤブになっていて、どこから入っていいのかすらわからない。団地まで帰って何人かの人に聞き、ようやく端緒となる切りひらきの入口がわかり入山した。なんのためかヤブのなかにトンネル迷路のような回廊ができている。そのなかの一段高い崖の上で三角点を見つけたのは突入してから40分ほどしてから。周囲よりわずか数メートル高いだけだったが、そこからは一帯の様子がよく見えた。樹上から眼下の密林を見下ろすような感じで、北や西の山々もそこそこ見えていた。それまでがトンネルの中だったせいか、大展望を目前にしたような清々しい不思議な気分であった。

 
「天武天皇十三年といえば、平成八年から千三百十三年前になる。当時の古老が「こんな大きな地震は聞いたこともない。」と言ったという白鳳の大地震で「土佐の国の田苑五十余万頃が陥没して海になった。」と日本書紀は伝えている。五十余万頃がどれほどの広さであったかわからないが、頃という中国の面積用語を日本の面積用語代に当てたもので、五十代一反として計算すると、五十万頃は一千町歩(千ha)になるが、白鳳の被害の実態はそれをはるかに超えていると思われる。
 須崎湾口の海底に住居の跡らしきものが沈んでおり、戸島千軒・野見千軒と呼ばれて、白鳳大地震に陥没した大集落の跡と言いつがれているが、現在の須崎湾から足摺半島にかけて断崖絶壁の多い海岸線には白鳳以前には細長い海岸平野が続いていたはずである。
 その海岸平野を縫うように、土佐の国府比江を出た官道が西廻りに進み、四万十川口から中筋平野を宿毛へ出、南予の海岸線を北上して伊予の国府(現在の今治市)に達していたことは、都から伊予と土佐の国府への里程(五六〇里と一二二五里)が証明している。
 その官道を往来する人々のために作ったと思われる十一里と刻んだ指さしが残っている。大方町入野漁港の防波堤の外側に沖のしょうじ碆という岩礁があるが、その碆の海面下八メートルの岩壁に西を指して刻みこまれている。現在は砂に埋もれているが、大方町の隠れた文化財である。十一里というのは六町一里の昔の里程であるから現在の里程では二里足らずで、当時の四万十川口に近い竹島の駅までの距離を示している。
 現在は荒波がおし寄せている入野漁港の防波堤の外を、千三百年前には都へ通う官道が通っていたとすれば、現在白砂青松を誇る入野の浜は、白鳳以前は波静かな入り江の奥に拡がった広々とした田園地帯であったのである。白鳳の大地震によって、三里も沖へ突き出ていた長崎半島とともに入野平野は一瞬のうちに八メートル下の海底に沈んでしまった。」

『土佐史談203号 土佐の山とみどり特集号』
「入野松原と頌徳碑」浜田数芳


 白鳳の大地震(684)の起きた頃、それ以前には入野松原あたりは波静かな入り江の奥に拡がった広々とした田園地帯であったのである。



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高山      287.0m     三等三角点     土佐佐賀

大方町の山である。県立幡多青少年の家は、この山のすぐ南にある。タカヤマ。地形図

ようやく三角点を見つけた



 山の海岸近くに高山城という砦が戦国時代以前にはあったようである。詰の段の標高が60m、上川口港、および全集落を一望できる要害の地で、『土佐州郡志』には「一曰城之谷 一日岡之地 山皆不知何人所居也」とある。高山城のことを里の人たちは「郷の城」とも呼んでいたとのこと。ちなみに、三角点の点名は「陣塔」である。
 何にせよ高山とは涼しげな、いい名前である。飛騨の高山を連想させるからだ。地元の人は、ここをその名前で呼ばず、西隣の蜷川から見えている方の山を高山と呼んでいるようである。みかん園の道が三角点の南500mほどのところまで地形図上に見えるが、捨てられたみかん園も多く、奥の方数百メートルは使用不能になっていた。簡単に登ることができるだろうと思って出かけた山であったが、低い山ほどヤブで道が消えていることが多く、山の難易は標高ではないと登るたびにつくづく感じる。三角点の北、約150m辺りが最高点のようであるが、何もないところよりはと今回は迷わず三角点の方を頂上とした。
 そこに着いたとき、標柱はまわりがひらけていたので、すぐあったのだが、本体の三角点のほうが容易には見つからなかった。20分近く探して、あきらめかけた頃、ようやく盲点になっていたシダの茂みのなかに、それを見つけ出した時はいつもながらうれしかった。周囲を刈りはらって、きれいにした。今日は三角点捜索隊ばかりでなく、三角点お掃除隊にもなった。

 
「山はどんなに低いものであっても、それが山の名に値しないものであっても、それなりに姿は大きく、私を抱く力は強い。」   

串田孫一『若き日の山』 夏の手帳



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白尾山     403.4m     三等三角点     土佐佐賀

大方町の山。シラオヤマ。地形図

二体の地蔵があった



 土佐清水市と宿毛市に白皇山がある。どちらも信仰的に意味のある山なのだが、どうもこの白尾山も白皇山がなまった名前である気がするのである。その証拠かどうか、近くと言っても中村市側だが、白皇という集落名が見える。そんなことを考えながら歩いた。
 この山も昔は薪炭の山であった。そのための作業道としての木馬道が、今も地図上には残っているのだが、今では荒れて、正確にそれを辿ることもできないように思われたので、すぐにそれを捨てて、北上する尾根を直登することにした。急坂を開きながら登る。二次林以上の山に多いシダがところどころ繁茂していたが、部分的なので容易に迂回できた。時折、タラの木のトゲのある幹をつかんで悲鳴を上げる。
 頂上は、測量のために広く刈り広げられ、空のみでなく海の方にも十分に開けていた。井の岬から入野あたりまでの海岸沿いがずっと見渡せた。風もなく、真綿のような雲が頭上に少し浮かんでいるのみで、真冬とは思えぬほど暖かかった。
 下山時、木馬道の分岐近くにあった二体の地蔵にもう一度手を合わせた。一体は子供を抱いた子安地蔵だった。

 
『山よ、汝は如何なればかくも美を蔵するや

シャルル・ゴス『マッターホルンの十字架』 グラディス



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     455.8m     三等三角点    土佐佐賀

大方町の山である。フタツガモリ。地形図

頂上は測量が行なわれたばかりだった



 どうしたことか、国土地理院の地形図に記されている車も通れるはずの道が影も形もなかった。十年以上前には存在していたかもしれないが、今では地元の人にも、その入り口すら分からなくなっている。そこで山腹を横切っている四電の送電線の管理道をしばらく歩き、途中から山頂へ往復することにした。
 県道で高松の測量会社の人に会った。このあたり一帯の測量をしているのだという。入山してから、測量のために地中に打たれた杭を何十ヶ所も見た。私た ちの山中での行動もその影響を少なからず受けた。いつもはヤブで閉ざされている谷筋も、測量で通りやすくなっており、思わず管理道からそちらへ迷い込んだりしたが、尾根に入ってからは、滑り落ちそうな急坂だったが、なんとか登りきれたのも測量で開かれていたためだった。
 途中、左後方を振り向くと、長宗我部の時代に植樹されたという入野の松原の向こうに飯積山や足摺半島が見えた。頂上も航空測量でもしたのか、空が大きく開かれ、北東側の464m標高の山が見え、北西側の大方町の最高峰、仏ヶ森も木々の間から見え隠れしていた。そばにある大木のユズリハの葉が太陽でつややかに光っていたのが印象的だった。

 
「すでに知られたコースによって、定まった所要時間を短縮することに、アルピニストはいったい、いかなる楽しみを見出しうるのか。それは単に、先行者よりも自分が優れていると思う、つまらない自己満足にすぎない。」

エドゥアール・フレンド 『グランド・ジョラスの北壁』



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五段城    1455.8m     二等三角点      越知面

愛媛県柳谷村と梼原町境にあり、梼原町の最高峰である。天狗高原と姫鶴平の間の山。それにしても四国カルストには五段城、子牛城、牛城と、城の付く名が多い。別にそこに大きな城があったわけでもあるまいから、昔の人はこの高原のピークに厳めしいものを感じていたのかもしれない。ゴダンジョウ。地形図

カルスト地帯を歩く



 暖かい季節であれば、放牧中の牛とにらめっこをしながら登らなければならなかっただろうが、訪れたのは3月下旬で、まだ牛たちは下界にいて、それはなかった。
 五段城は人々が歩いてここを越えていた頃、急な坂道を登る途中に緩くなる区間が5回あったところから付けられた名だという。付近は典型的なカルスト地形で、草原のなかに白い石灰石のカレンフェルトやドリーネが目立つ。三角点周りでは広葉樹のため展望はほとんど開けない。古い公園の大きな看板が朽ちて倒れかかっていた。そこをすこし離れるだけで四方の展望が広がることは言うまでもない。

 
「登山においては、どんなにすばらしい大きな登攀の成功、勝利よりも、醜い死の悲しみを避け、凍傷から手足の指を守ることの方が、はるかに大切だ。また、長い自分の人生にとって、山はそのほんの一部分であろう。」  

小西正継『ジャヌー北壁』



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    1310.3m     三等三角点      越知面

愛媛県柳谷村と梼原町境の山である。近くを県境の峠が抜けていたのだろうか。ハエノコシ。地形図

こんな車で行ける山はほかには少ないだろう



 四国カルストはそれ自体が1000mを越える高原で、その中の突起部分が五段高原や牛城であり、この生越である。尾根を縦貫した舗装された道があり、ほとんど登山するという感覚はない。姫鶴平のレストランのすぐ上の丘陵に三角点がある。
 私たちが行ったときには、測量をそれほど遠くない過去におこなった跡が残っていた。地形図でも荒地になっているが、実際にもほとんど高木はなく、かん木とカヤの原で、ところどころに角のとれた石灰石がころがっている。展望は他の突起同様によく、牛城の、名にふさわしい姿などが見えるが、本来が荒地であるのでここで昼食をという気分にはなれずはやばやと下山した。

 
「我等の心を高尚ならしめ、我等の意氣を軒昂にし、我等の胸に健闘努力の精神を鼓吹するものは、面と向ひ合つて肩を並べた巨人「山」あるのみである。」

木暮理太郎『山の憶ひ出』



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地芳峠山    1163.3m    三等三角点    越知面

 梼原町と愛媛県柳谷村の境界上の山。西の小牛城との間の鞍部には地芳峠がある。県境で最後まで登り残していた山である。地形図を見ていると、そこに四等ではあるが三角点があるのを認め、ほかより何年もおくれて訪れることになった。ジヨシトウゲヤマ。地形図 地形図

来る人もすくなく、寂しげな展望台





 7時すぎ、梼原にむけて出発。片道100kmちかい距離だが、道がよいのでほかのどこへ行くよりもストレスがない。梼原から地芳峠方面に転進。途中まですばらしくいい道になっていて驚いたが、それも工事中のトンネルの手前でおわって、あとはやっぱり「土佐のチベット」と呼ばれるにふさわしい狭い山道をくねくねと峠までたどった。
 地芳荘はなくなって広場である。そこからすこし東、「地芳園地」という看板のある駐車場に車をとめた。目的の山もそのミニ公園の一部のようである。駐車場のそばから、防腐丸太のステップのある山道が山頂のほうにのぼっていたが、それもつかのま、すぐに雪に倒されたカヤや小喬木の横にはった小枝などでヤブ化して、山道も以前にはどこを通っていたのかも分からなくなっていた。頂上と思しきところに出る。土佐側の景観はもうすでに抜群である。とくに目 立ったのは西の牛城のまさに牛のようなおおらかな姿だった。そんな風景に見とれてカメラを向けたりしているとうしろで声がして、妻がカヤの下に埋まっていた三角点をツエで早速探しだしていた。掘りだして周囲を片づけてからいつもどおり撮影。その後、南東の空との境に見えている展望台にまわった。やはりカヤなどのブッシュでまっすぐは進めない。展望台は二階建てで、いまでもスロープを上にあがることができた。うすく雲のある空にはトンビが舞っている。まだすこし時間が早すぎたことが惜しまれた。春の風光を愛でながら昼食をとることができたら言うことはなかっただろう。

 駐車場までかえって、天狗高原から197号線の高野にでる広域林道を10kmちかく下ったところの道路わきに車をとめて、「黒座」三等点908.9mに登った。往路は尾根を行けるからと、すこし離れたところから入山したが、ひどく両側に切れおちた狭いところを通らなければならず、復路には、その手前で渋りのなかの急斜面を林道まで下りた。頂上の三角点は荒れ地のような広葉樹林のなか、ケモノが掘りかえしたのか段差ができて、スズタケもすこしあった。それらの間から、天狗高原あたりの県境稜線が見えていた。

 
「このあたり一番の高山はいみじくもヴァントゥウ山〔風の山〕とよばれていますが、私はきょう、これに登りました。ただ、有名な高山の頂を見てみたいという願望にかられてのことです。私は多年この旅のことをひそかに思っていました。ご存じのように、人事をあやつる運命の手にもてあそばれて私は子どものころから当地に住んでいましたし、しかもこの山は、ひろくどこからでも眺められて、ほとんどいつも目にしていたからです。」

自己の悩みについて 聖アウグスティノ会士にして神学教授なるディオニジ・ダ・ボルゴ=サン=セポルクロに 

ペトラルカ『ルネサンス書簡集』Ⅲ自然と人間との再発見――ヴァントゥウ登攀記 近藤恒一編訳

 
 ルネサンス初期、イタリアの、抒情詩人であり、人文学者であったフランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)は、また登山をよくし、1336426日、弟をともなって、南仏アヴィニョン郊外にあるヴァントゥウ山という2000mたらずの山に、現代でいうところの登山をおこなった。そのことを、友人への書簡という形で書きつづったものが、いまに残されている人類最初の登山記録とされ、これによりペトラルカは『登山の父』とも呼ばれ、またこの日を『登山の生まれた日』としている。



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小牛城     1143m     三角点はない     越知面

愛媛県柳谷村と梼原町境の山である。コウシガジョウ。地形図

さあ!ひとのぼり!



 四国カルスト縦走路の途中、生越と牛城の間に三角点のない小突起があるがそれが小牛城で、五段城や牛城のように派手なところはない。小と書かれているように、牧場のそばの、牛城の小型版のような感じの山で、地芳峠のすぐ西 のピークである。ここも上部には喬木のような障害物がないので展望は完璧といえるほどよい。東には生越から五段城にかけて、西を向けばのっぺりとした牛城が目前に望まれた。
 私たちは五段城から牛城にかけて、ちいさなスポーツカーで訪れた。通常は小型四駆車やワゴン車で行くのだが、この四国カルストの県境ぞいの小ピークの探訪は、それを許すほど快適で気楽な山遊であった。

 
 ウィロ・ウェルツェンバッハの文章のなかにも、ウィリー・メルクルとともにアルプスの岩壁を訪れるのに、小さなスポーツカーでジュネーブの湖岸を走ってシャモニに登ってゆく光景が描かれている。登山とスポーツカー。案外しゃれているのかもしれない。




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牛城     1342.5m     三等三角点      越知面

愛媛県柳谷村と梼原町境の山である。ギュウジョウ、ウシガジョウ。地形図

子牛城山頂より牛城を見る



 四国カルストの生越の西に牛の背中のような東西に長い丘が見える。それが牛城であった。登ってみると広い広い原っぱでまことに伸びやかである。牧場の中で、まったく遮るものなどない。ところどころに石灰石が転がっているの みで、喬木もなく、枯れた牧草だけが茫々と広がっていた。
 牛の牧場だから牛城なのか、牛の背のように広々としているから牛城なのか判断がつきかねた。東には天狗の森から五段城、生越、子牛城などの四国カルストの全体像がうす曇りの空に浮かびあがっていた。
 私たちのアルバムには、この山頂で「幸福なランチタイム」をとったと書かれている。

 
「ぼくをがっかりさせたのは山ではなく、ある種の人たちの不可解な態度だったのである。
 ぼくは決心した。山を下りることになるだろう。だが、谷間にとどまるかどうかははっきりしない。というのも、あの丘の上で、べつの、広大な地平線を見とどけたからだ。ある親しい大新聞社が、その地平線に行ってみる機会を与えてくれた。これこそ、ぼくがなによりも好もしく思う新しい目標だった。これからは、深い森や広大な荒野を行くつもりだ。はてしない海をゆくつもりだ。失われた島々を探し求め、夢のような山々や火山に登ってみよう。凍てついた土地を旅し、素朴な民族や沈み去った文化の遺跡を訪ねよう。」

ワルテル・ボナッティ『大いなる山の日々』 アルピニズムよ、さらば

 
 ボナッティを山から去らしたのは世の毀誉褒貶ぶりであった。メスナーもおそらく同様であろう。



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万灯山     1367.7m    四等三角点      越知面

愛媛県野村町と梼原町の境にある山である。大野ヶ原の南の、源氏ヶ駄馬東端にあるのだが、一等点の薊野峰との間にはっきりとしたコルは見えず、わずかにもりあがった丘陵が認められるだけである。マンドヤマ。地形図

牧歌的な大野ヶ原の風景



 頂上のすぐ近くを車道が通っているが、もの足りないので山の東側の、刈り入れ後の牧草地に車をとめて歩くことにした。高知県境の山のなかで、ここほど快濶として心身ともに開放できるところはないように思う。東に見える四国カルストの山々には最近二基の風力発電の風車が建って景を添えている。緑濃く重なる土佐側の山岳。北には今でも以前と変らず牧歌的な大野ヶ原の風景が見える。 
 台風の通り去った梅雨のひとときの晴れ間にここを訪れたのだが、思っていたより草原を風が吹きわたり、猛暑と湿気に苦しめられることはなかった。三角点が埋設されているのは、高低の変化のすくない広々した丘の、しかもわずかに愛媛県よりの斜面である。地表は笹とカヤほかの植物が密生し、さらに例のごとく、恐竜の骨のような石灰岩がゴツゴツと乱立して、バランスを崩して、歩くことも思うようにならない。昭和36年に設置されて以来、更新も改測されることもなかった四等点の標石は、恥ずかしいのか、私たちの前にとうとう姿をあらわさなかった。
 風に吹き流されるように、薊野峰まで歩き、さらに西に見えるピークまで歩いて、一夜ヶ森や源氏ヶ駄馬の三角点の山を、正面に見すえてから引きかえした。

 
「旅する心は、風景の中を歩む願ひであり、悠々風にしたがつて去來する
象(すがた)でもある。しかしそれが『山行』となると、平面的から立體的に、静觀から動觀に移るやうに、そして鋭さと深さと、更に透徹した自我の意識が力強く動いて來ることは當然の理であらう。」

藤木九三 『雪・岩・アルプス』



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三島山     831.1m    三等三角点     越知面

 梼原町中央北部、県境近くの山。この山の真北の県境には小牛城がある。点名の「三島」は、南東麓にある三嶋神社に由来しているのだろうか。ミシマヤマ。地形図

三角点にはふっくらと苔がついていた



 同じ
800m台であっても県東部の同標高の山とくらべると、やっぱり梼原町などのそれは気温も年間をつうじて低いためか、雑木林の植生も葉脈が空に透けて見えるような木々がおおく、照葉樹のてらてらした葉の暑苦しさを感じることはすくない。上ってくる道すがらの山畑のそばには、8月中旬だというのに、もうコスモスが花を咲かせていたし、作業道ではオミナエシを、そして尾根ではハギが開花しているのに今日は出あった。

 あえいで峠まで出たあと、尾根を右にまわりこむように頂上にむかった。台風が沖を通過しているためか、風があり涼しい。頂上でも暑さに悩むことはなかった。三角点は、ナラやカエデ、それにおおきなアカマツやクロマツなどの林間のちょっとした広場のなかで草木のヤブに埋まりかけていた。刈りひろげ、写真をとり、標石の前で昼食。あまり大きくないナラの木の幹に記念プレートをのこして下山した。

 次に向かったのは、3.5kmほど東にある「宮峠」三等点826.1mであった。山に近づき、登路をさがしてゆっくり走っていると、東側から作業道がはいっていて、迷わずそれに乗りいれる。300mも行かないうち終点になったが、どうも二つある頂の、ちょうど間まで来ているようだった。そこから右手のそれほど遠くないところに三角点はあるはずである。さっそく入山。まもなく頂上とおぼしきところについたが、あたりはものすごいイバラのヤブであった。ナタでひらいてみると、間なしに、側面までふっくらした苔におおわれた標石がみつかり、その緑の被覆をはがすと端整な姿があらわれた。写真をとり、こんどはカエデの枝にゆるく記念標識をぶらさげる。役に立ってもらうかわりに、カエデの樹幹にくい込むようにぎっしりと巻きついていたツタ類をきれいに取りのぞいてやった。

 
「そもそも登山というものはどこまでいっても終わりのないもののようである。低い山は低い山なりに豊かなるものを備え、高い山は高い山なりに壮麗である。故国の山々に心をひかれるのはいうまでもなく、地上すべての山がなつかしいのである。また年齢にしても、若くしてよし、老年にまたよしである。何故にこのように限りなく山は人を呼ぶか。私にとっては山はいつも何かあるものが黙示されているように思われる。それが何であるかわからないが、あるときは静かに、あるときは生き生きして展開する。自然には限りない愛があるようである。」                

三田幸夫『山なみはるかに』 槇有恒による序文 



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石神峠山    1098.7m    三等三角点     越知面

 梼原町北部中央あたりに位置する山である。点名は「三ツ石」。イシガミトウゲヤマ。地形図 地形図

 リハビリ山行
5週目。痛みは軽減したが、足裏にじゅうぶん体重を乗せることができず、関節の柔軟性がもどっていない。まだ時間がかかりそうである。ツエを二本つかうが、ときにはそれを片手にまとめて持ち、もう一方の手でナタをふるわなければならない。


三角点に到着する





 山の北西
1kmにある石神峠についた。むかし田野々川と四万川、両谷の村々をむすんでいた峠のようである。標識もなにもなく、ただ尾根が開削されて高い崖の狭間になっている。さらにそこから狭い作業道を、落ちた石や土砂を避け車体をかたむけながら、枯れたかん木やカヤをフロントガードで押し倒しながら上ってゆく。どうにも進めなくなったのは峠から650mほどいったところだったか。そこで車をすて、尾根を登ることにした。

 小喬木やイバラなどを拓いて主稜線にでたが、複雑な地形にだまされて迷いかけ、数分後に気がついて復帰する(帰途にもここで迷いかけた)。尾根の笹ヤブをさけて、左寄りの踏み跡をたどった。やがてヤブがきれ、亜高山の喬木が見えはじめたところで稜線をたどることにする。尾根の方向がわずかに東にふったとき、目前の頂にまずまちがいなく三角点があることが地形図で確信できた。標石は、スギの自然木風の大木とヒノキの植林間のひろい広葉樹林にあった。木々は完璧に落葉しているので、風景はほとんど見えないが明るく、曇天ということもあり、すこぶる落ちついた雰囲気。前週あたりから聞かれはじめた練習中のウグイスの鳴き声がする。三角点のそばで昼食をとった。汗になった背中が冷えたせいか、それとも花粉のためか、鼻水とくしゃみがやたらと出た。

 車まで帰り、3kmほど北西にある「池峠」三等点943.0mにまわった。林道からヒノキ植林の斜面にある下草といえば、ひらべったく地面にはりついたように育つショウジョウバカマばかりだった。花はないが、それらの群れが、茶色に緑色の花を散らした絨毯模様のように見えた。頂上の三角点もやはりヒノキの植林のなかだった。このあと、山頂の西にある「空池」にむかう。濁った水のたまった小さな池のそばに祠があって、ほとりには二本、アスナロのような木が育っていた。

 
「振り向くとはるか遠くに歩いてきた道が続いている。よくぞ歩いてきたとつくづく我が足の偉大さをほめたくなる。ポツンと遠くに人の影が見えた時、無性にうれしく、早く出会いたいとさえ思えてくる。雑踏の中で行き交う人とのぶつかりをいまいましく思ったりしたこの自分が、今人恋しさのあまり歩調が早くなっている。山の道は人をやさしくさせてくれる所なのだ。」    

田部井淳子『山を楽しむ』はじめに―私の好きな道は登山道



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高野山     831.2m      三等三角点     梼原

 梼原町南部の山。東に角点山、西には尾根を2kmも行かないところに鷹取山植物群落保護林がある。タカノヤマ。地形図

しばし展望を愉しむ



 
国道439号線(よさく)の狭い山道を影野地にむけて走り、分岐から集落の横をとおって、やがて未舗装の林道にはいる。帰りに影野地のおじさんに呼びとめられて「上まで林道は行けたのか」と問われたほどの悪路だった。4WD LOWにして、大きな落石を道端にどかし、草を踏みわけながら高度を上げていく。登山予定地点よりさらに作業道が分かれて目的地の方角に上っていたので200mほど行った地点に車をとめた。

 さいわい主稜線まで、狭いながらジグザグと上るはっきりした山道が認められて、主稜線までで道のないところを辿ったのは僅かである。その稜線の南側は伐採されて広いカヤ原になって大展望がひろがっていたが、見えるのは山々ばかりで人工的なものはほとんど見えなかった。
 さらに尾根を西にむかえば(その間ナタが必要なところもあったが)やがて、雑木林(東側にはヒノキの植林)の外れに、すこしオーバーに露出した三等点が見つかった。かどが一ヶ所欠損している。ミンミンゼミとツクツクボウシがさかんに鳴いていたが、近くに小鳥が来て、その声が林間にひびいている間は不思議にセミの声がしなくなる。そう感じただけなのか、実際小鳥を警戒してセミが鳴き声を潜めていたのかはわからない。そばで昼食。8月下旬、厳しい暑気で喘ぐことはすくなくなってきた。

 
「ある日小さな低い山に登って来た。単に私がまだその山に登ったことがないという理由だけから。」         

今西錦司 『山岳省察』 初登山によす



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後藤山     1113.4m     三等三角点     梼原

 東津野村と檮原町のさかいにある山。2.5kmほど西に遠見ヶ城山がある。ゴトウヤマ。地形図

冬の一日。展望はさえざえとして素晴らしかった 



 迷いながら西にむかった。1月下旬の厳冬期のこと、数日前にも県下の山には雪が降っている。まず須崎まで行き、そこで西の山を見て、白く見えれば窪川に、そうでなければ、国道
197号線を県境にむかうことにした。葉山の北山に最近できた風力発電所あたりにも白いものが見えず、すこし安心する。目標を後藤山にさだめて、歴史の古い舞台のある高野で大規模林道天狗高原線にはいった。

 国道から8kmほどの穴神トンネルあたりが、この山への登山点となるはずである。まずトンネル南口には「穴神山ツツジ公園登り口」の看板があり、そこからも三角点にむかえるようであった。つぎに北口にまわると、さすがに雪と氷がのこって寒々している。こちらにも雪がのった歩道が見えたが、暖かい方がやっぱりいいと南口にもどった。
 崖のように急な斜面をジグザグと尾根に登り、そこに達する手前で、西にむかうトラバース道にうつった。まわりは葉を落し芽吹いているオンツツジの林。それらは何も遮らず、南の山々や下界の集落などが文句なしに見える。北東には大きく大森山と不入山。しばらく行ったコルで尾根に出たとき、大きな羽音で驚かされた。4羽のヤマドリがつぎつぎ飛び立ったのだ。頂上に向けて岩の間をすすんでいると、枯れたカヤのそばからさらにもう一羽飛んだ。
 頂上もやはり南側はツツジなどの小喬木で明るく、北側はヒノキの植林で、雪がおおく残っていて暗い。標石のまわりには思っていたように山名板が見えた。それも二つ。最近見ることの多くなったカラフルなプラスチックの山名板が、いつになく乱雑に木の枝に引っかけられている。どうしたことかと近くを見ると、針金が木肌にくいこんで傷ついたと思われる喬木があり、そこには、見かけるのがこれで2回目の、イニシャルTKの看板がルーズに針金でぶらさげられていた。カラフルなほうは、いつものように被覆線でギッシリと幹にくくりつけてあったものが木の成長で弾かれたものか、あるいは木が痛がっているのを見かねて、誰かがはずして別の木に移していったものと思われた。

 
「‥‥山はいいでや、下界はうるせえからなあ――」

鵜殿正雄(長女美津の「なぜそんなに山に登ったのか」の質問に対して)

上条武『孤高の道しるべ』鵜殿正雄「はじめての二人旅」



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赤兀山     1040.3m      三等三角点      梼原

愛媛県日吉村と梼原町の境界にある山である。この山を県境伝いに西進すると高研山である。その距離は2kmといったところであろうか。アカハゲヤマ。地形図

どのあたりの光景だったか、今は思い出せない



 川井から入る林道から1時間ほどで県境に達することができたのも2ヶ月ほど前にいちど下見に訪れていたからであろう。それでなければもっとも赤兀山に近い作業道が通行不能になっていることも知らず今回の6時間30分におよぶ秋の山の旅もきっと短縮せざるをえなかったにちがいない。川井からは新しい道が延伸していて考えていたよりも県境近くまで近づくことができた。
 入山してからは何回となく古い峠道の跡と交錯する。完全に辿れるほどはっきりしてはいない。すぐに林の中に消えてしまう道である。そしてまた現れる。県境の尾根はアップダウンがあるものの、障害になるのは倒木と小喬木、その枝くらいのもので、歩行ははかどった。最初、1000m内外の標高からいってスズタケが出てもおかしくないと考えていたが、その通り、何ヶ所かで密生と遭遇したが、それはいつまでもしぶとく続くものではなかった。紅葉は今ひとつ。落葉している木々も多かった。2時間で赤兀山の頂上に着く。
 愛媛側は植林で高知県側は雑木林。針葉樹はすくないので明るい。今年何回もやってきた台風のためかマツの木が三角点に倒れかかっていて片づけてから写真を撮る。遠くでチェインソーの音がする。林道で重機を寄せて通してくれた男性だろうか。

 
「登るのだ 登るのだ ああ 強壮にされ苦痛に慣らされた肉体の諸器官が、もはやわれわれに何らの疲労をも感じさせない時の何たる愉快さだろうもっと高く、いよいよ高く登って行き、世界を上の方から見おろすのだ 光の領土を目ざして登って行くのだ  肉体には何という満足、精神には何という喜びだろう

エミール・ジャヴァル『一登山家の思い出』ふた夏の思い出



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丸野山      956.6m      四等三角点      梼原

愛媛県日吉村と梼原町の境にある山である。県境の赤兀山と日梼山の中間に位置する。マルノヤマ。地形図

丸野山からさらに日梼山へとむかう



 赤兀山から下降点である県境の峠まで急いで引き返す。その峠から丸野山の四等三角点はほんとうに近い。荒れた植林の尾根を南向けて登ると一息で達する感がある。多くの四等点がそうであるように、丸野山のそれもおおげさな三角 点広場など持たない何でもないところにある。丸野山自身それほど華々しい頂ではない。緩やかなスロープで県境の尾根を登りきったところの何本かの杉木立の裏側にひっそりと標石は立っていた。樹陰で、派手なところはまったくないがヤブに埋もれているということもなかった。
 ところがである。家でできあがった写真を見たときその印象はすこし変わった。案外に雰囲気があるのである。三角点の周りに散っている紅葉、黄葉たち。そしてまわりから差し掛かった木々にまだ留まる秋色の木の葉たち。そしてわれわれの間で遠慮がちに控えている昭和40年に埋設された標石のその純白。すべて一期一会の一瞬の美しさ切なさを私の目にそれは伝えていたのである。

 
「ここで、遠山川を渡渉せねばならないのだが、水量が多くてどうにもならない。そこで河原に天幕場を見つけて、丸木橋を架けることとなる。
(中略)
 小半日かかって、暮れ色の寄せてきた頃、漸く二つの橋が出来上がった。行ってみると、二つの流れの落ち合う処の、中洲を利用してあるのだが、ひと抱え以上もありそうな大木を倒し、立派な丸木橋が二ヵ所に架っている。南アルプスの人夫たちは山に馴れているので、こういう手練は実に見事だ。私たちが渡った後、あと幾人が利用するであろうか……、やがて秋の出水で流れるかと思うと、いかにも惜しい。がまた、考えようでは、贅沢至極とも思われる。国有林の木を、無断で伐ったことにもなろうが、まあ大目にみて頂けよう。」                  

村井米子『山恋いの記』 南アルプスの夏

 
 私たちが後にここにさしかかったときには、手動の荷物用のケーブルが、谷の上にかかっていた。人も荷も犬もそのケーブルにのって無事対岸に渡ることができた。



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日梼山     1022.7m     四等三角点     梼原

 愛媛県日吉村と梼原町の境の山。この山から県境伝いに南下していくと次に出あう三角点は霧立山のそれである。日梼山は両町村名からつけられた山名であろうか。ヒユスヤマ。地形図

日梼山よ、さらば!



 丸野山から県境を南にさらに足をのばし日梼山にむかった。つるべ落としの秋の夕暮れに間にあうかどうか妻は心配するが、間にあわなければひき返せばよいと迷いをふり切って歩きはじめた。それからは総じて素直な歩きやすい山道になった。アップダウンも少なくスズタケのヤブも倒れていなくて通過しやすかった。50分ほどで日梼四等点に到着。丸野山のそれに較べて、せまいなりに占有する広場を持ち、なによりもまわりの環境がすっかり広葉樹林で、それらが紅葉したり落葉したりしてあかるく心地よかった。その日最後におとずれる山にふさわしいと思った。
 いそいで帰る山道の木々のあいだから北西にとんがった頂が見える。地形図で確認すると高研山であった。こちら側から見てもやはりかっこうがいい。峠に310分。赤テープを頼りにツタをとりながら下りあかるいうちに車まで帰りついた。林道を下っていると大型の林業用の重機にのって大木のユズの木から実をとっている人たちがいた。見ると、朝わたしたちが林道を登るとき道をゆずってくれた男性もいて、呼びとめられてユズをたくさんいただいて帰ることになった。たちまち車内に香りが満ちる。それと同時に心のなかにも芳ばしい香りがあふれてしばらくの間それによって満たされていた。

 
「狩人山を見ず――確かに狩人は獲物ばかり見つめて山は見ないが、山を感じるということなら、登山者にはない体感といったものがある。
 追う狩人は、追われる獲物がもし一頭の鹿ならば、自分もまた一頭の鹿の体感で山を行く自分を駆使する。そしてしばしば自分が一頭の鹿になり得ることに驚嘆し、その世界の新鮮な香りに震える。」          

辻まこと『山で一泊』 狩人の秋



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遠見ヶ城山     991.5m     四等三角点     梼原

梼原町の山である。国土地理院の地形図には見えないが、高知新聞社の「高知県万能地図」に山名が見える。トオミガシロヤマ、トオミガジロヤマ。地形図

なぜか犬は切り株の上を好んだ



 平成12年、同町は、県内でおそらく初めてという「森づくり」を条例化し、未来に向け町を上げて、森林の保全、発展のために取り組み始めた。その一環が、芹川林道途中でも見かけられた。森林管理署から桧や杉の伐採の終わった地域を借り受け、ナラなどの広葉樹を毎年10haほどずつ植えて、自然の森に還していくのだという。
 過疎をなげき、林業の不振をなげくだけでなく、ときには、このような損得抜きの逆の発想は大事だと思う。源流域に保水力あふれる森がよみがえり、四万十川が再び豊かな水量を取り戻すのはいつのことだろうか。
 その芹川林道から登った。崩壊があり、車道をしばらく歩いてから、国有林の尾根に歩みを進める。歩道と思われるところまで、間伐材や枝打ちした残骸でふさがれ、非常に歩きづらい。主尾根に出てからは、歩道はもっとはっきりしてきて、上下降もすくなくなりホッとする。途中、地上から数十センチの低木の枝に小鳥の巣を見かけた。まだ育雛の終わったばかりのようで、生々しい。どんな小鳥が巣立ったのだろう。
 頂上はちいさな松の木の多い平坦な林の中。標高差も周囲とほとんど変わらず、赤白のポールや白い標柱も何もなく、そんな中で小さな四等三角点を見つけることができたのは、ほとんど僥倖に近かった。

 
「私はかならずしも単独登攀を主唱する者ではないが、仲間も無く、案内者も伴わず、たった一人でやりとげた登山には、何時もひとすじの澄んだ光のようなものが自分に附きまとい漂っていて、帰来味わいかえす其の思い出もまた特に美しく純粋であったという幾たびかの経験を持っている。終始山の中で自分を照らしていた透明な光線。それは元より言葉の比喩にすぎまいが、ともかくも未知の山だとか、深い或いは高く峻しい山だとか、また多かれ少なかれ困難を提出した山だとかいう時に、その光は一層つよく、その耀(かがよ)いもまた一層美しく意味深かったように思われる。」    

尾崎喜八『詩人の風土』 単独登山



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坊主山     1162.8m      三等三角点     梼原

梼原町の中心市街地の北西側にある山。全国に地形図に名のある「坊主山」は21山あるが、この山のように地形図にない「坊主山」も多いことだろう。昔はこの山の頂上の200mほど南で三方向からの歩道が交わり、三角点名は「三方ヶ辻」である。西麓の上成(うわなろ)では「峠ヶ滝(とやがたき)」と呼ばれていた。ボウズヤマ。地形図

一つの地蔵には嘉永の年号が見てとれた





 それまでのヒノキの植林から、下草にごく背の低い笹が敷きつめられた、さして大きくない広葉樹の疎林に出たとき、最初、まだそこが頂上とは思えなかった。北側の林道から途中の四等点「長滝」の峰を越えて縦走したのだが、時間的にまだもうすこしかかるだろうと思っていたからである。さきに右手の断崖の上に、平たい岩のかけらを組み合わせた祠のようなものが見えて、ふと目を正面に移すとあっけなく三角点が視界にはいった。祠のように見えたものの中 には風化したお地蔵さんが収められていた。右肩に安政の文字が見てとれた。すこし離れた岩の上には同じように嘉永の年号が彫りこまれた地蔵菩薩が鎮座している。思いがけないほどいい頂であった。
 まわりの落葉した木々の間からは、県境などの山々や上成の家並が見えた。10年ほど前か、まだ広葉樹が育つ前には、おそらく名前のとおりの山容で、景観は思いのままであったであろう。写真をひとしきり撮ってから昼食。陽光うららかで風もほとんどなくしばらく幸せな気分ですごした。
 その後、点名のもととなった、歩道の交差点のほうにおりてみた。しかし峠はもはや越える人もなく、笹や倒木、あるいはヤブとなって、その痕跡すら見つけることがむずかしくなっていた。

 
「空の屋根、雪をしとねの岩枕 雲と水との旅をするなり」     

河口慧海



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烏帽子山     1103.2m     二等三角点     梼原

梼原町役場のある中心市街地の背後にある山。同町の行政地図にはあって、国土地理院の地形図には山名のない山が三つある。坊主山、皿ヶ峰、そしてこの烏帽子山である。エボシヤマ。地形図 地形図 山岳幻想

寝ころびながら三角点の上の梢を撮る



 およそ人がその山を好きになる条件は、個々人の性格、趣味、嗜好やその時の気分に左右されることはもちろんであるが、環境にも大きく影響をうける。季節、天候、時間帯、展望、雪の有無、流れる雲、紅葉や新緑の状態、遇った動植物や花の数々、同行した人との相性など。たとえば山歩きの経験のすくない人たちには意外と思われるかもしれないが、雲一つない青空の下の気持ち良さそうな山行よりも、雨や霧の日のそれが、かえって後々まで印象深く記憶に刻まれていたりして、そんな山が当人にとって案外一番だったりするものである。
 この烏帽子山を指折りの好きな山に選んだ人がいたそうだが、きっと何かの部分がその人の琴線に触れたのだろうと思う。
 林道「グリーンハット」線より登る。烏帽子だからハットなのか。さすが林業に力を入れる梼原町は林道も山道もしっかりしている。歩く人もすくなく、いたんだり、夏草に覆われたりしていたが、それでも主稜線まで道ははっきりしていた.トラバース道のあと、尾根では倒された間伐材に悩まされる。登りはじめて1時間30分、うっそうとした森の中に二等点を見つけた。マツやヒノキのまじるカエデやクヌギなどの林。空も木の葉に遮られてすっきりとはひらけない。標石は欠けるというよりも角が風化したように丸くなっていた。これほど古色蒼然とした三角点もあまり見ない。昼食後、マットの上でザックを枕にしばらく寝ころんでいた。曇天の空を背景に透ける木の葉たちを見ていると不思議と心が落ちついた。
 帰途、西烏帽子のほうにもまわってみた。こちらは純林といってもいいほどの松林。松籟を聞く。それにしても松林はどうして風の中であれほどいい音を立てるのか。同じ針葉樹でも桧や杉はただごうごうと騒ぐばかりなのに。

 
 わが四国の山を著した名作、北川淳一郎氏の『四國アルプス』(大正14年初刊)に次のような記述が見える。大変印象深い部分なのでここでもご登場願おう。

 
「私は元來山間に育った關係からか、かなり烈しい自然の威力、強い雨や、暴風や、雷鳴を、さ程、恐ろしいものゝやうには思はない。それにも拘らず、此の淺間登山に於て受けたような、殆んど自然の威力の總てが同時に來襲した時には一行の誰よりも心の中に最も強い恐怖を抱いたのであった。それは我の過去に体驗した殆んど唯一の恐怖であったかも知れない。
 それにも拘らず、私は此の時以來、山を戀し、山を愛するやうになつた。恐ろしい自然、強い山は、同時に私には、やさしい自然、親しい山となつたのである。」



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河野士山     810.0m     三等三角点      梼原

梼原町の市街地の南側に見えるアンテナの山である。コウノシヤマ。地形図

「風早峠」の悲しい看板



 国道197号線「風早トンネル」上にある、旧「風早峠」は悲しい峠である。宝暦7年(1757年)、ここで津野山一揆の責任を取らされて、梼原の大庄屋中平善之進は処刑された。高知城より処刑中止の早馬が来たのだが、増水で谷川が渡れず、使者は大声と手を振って風早峠の役人に中止を知らそうとした。が、それを見た役人たちは早く首を打てとの催促と受け取り、即刻処刑してしまったのである。
 河野士山への林道はこの風早峠が起点となる。ほとんど舗装されているが、テレビ局や災害無線、NTTドコモなどのアンテナが立ち並ぶようになると、俄然、いままでが嘘のように悪路になった。ヌタ場のような水たまりを蹴散らしながら進む。
 だが地形図に記されている林道は途中にチェーンが張られており、車は進めない。30分ほど歩かなければならなかった。三角点は植林中で、まったく展望は開けない。手前のNHKKUTVのアンテナ施設の頂には図根点がうめられているが、ここも空はひらけているものの眺望らしいものはない。ただ林道途中にある「太郎川公園の展望台」からは目の前に烏帽子山が、そしてその左手奥には坊主山、手前には梼原市街が春霞にかすんで見えていた。その近くにあるはずの「太郎川」四等点732.4mを探したが、とうとう目的を達することはできなかった。木の上には航空測量の枠組みは見えていたけれど。

 
「ああ、「日翳の山、ひなたの山」そのことですか。
 こうなのです。
「山」生活には裏と表があります。
 ひなたと日翳があります。
 それだからこそ量(ボリューム)の魅力をもって常にぼくをひきつけてやまないのです。
 歯牙のような岩稜、あの白雪の残った遠い山々、陰影の多い谷々、高い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓の雲の群――八ガ岳の憂鬱(ゆううつ)と富士の長いかげ、これらの山岳風景にもひなたと日翳とは考えられましょう。
 しかし、ぼくにいわせれば、それらはいずれも「ひなたの山」であって、「日翳の山」ではないのです。そうです。「日翳の山」とは実在のものではありません。なんと説明しましょうか。
 ――つまり、登山には「思想」はない、しかし、それにともなう「行為」と「思索」――行為はあらゆる山岳、あらゆる登行にあって止まるところなく発展してゆき、思索は自由な翼を駆ってそれを豊かに裏付けし、やがては日常のものの考え方や生活の上にも争われない「 山(、)」を(、)やった(、、、)というその翳を宿すようになるものです。
「行為」は「ひなたの山」、「思索」は「日翳の山」と考えて、これは車の両輪の如く離そうとしても離れないし――登山がスポーツの王とされるゆえんもここにあり、書名にしたわけです。」            

上田哲農 『日翳の山 ひなたの山』

 
 上田哲農 (うえだてつの 、てつのう 19111970 本名徹雄)は登山家であると同時に、日展無鑑査、同会員の著名な水彩画家で、『日翳の山ひなたの山』は彼の山岳画文集の力作である。雰囲気ある絵とともに、すこし勿体ぶった彼の文章に思わず引きこまれてしまうのは私ばかりではないはずである。O・マイエルの『行為と夢想』と同じような意味でつけられた題名であることが上の説明でようやくわかった。実話と断って書かれた「岳妖」は彼の属する山岳会のベテラン二人と、その地切っての案内人の三人が、冬の東北朝日岳の、考えられないほど何でもない雪原で、折り重なるように倒れ、後日発見される話で、けっきょく原因はわからずじまいとなった、ふしぎで、そのうえ気味の悪い遭難事件である。その最後の部分が下記の文章で、わたしは思わず背筋がぞっと寒くなってしまった。

 
「遺骸が発見されてから一月ほど過ぎたある夜のことである。それは梅雨明けのいやにむしむしした晩だった。捜索隊の一同がぼくの家に集っていた。目的は今度の遭難の原因推定のためである。しかし、親しい山の仲間の不慮の死に加えて、不気味な内容をもつ事件だけに、座の空気はとかく湿りがちだった。
 話は途絶えがちになり、重苦しい空気が、あたりをつつんでいた。
 ――すると、今まで、傍らで黙って聞いていた家の者が、突然
「見たのと‥‥違うかしら」と、いった。
 うつむいていた一同は、ハッとしたように顔をあげた。
「なにを‥‥」
「なにかを‥‥なんだかわからないものを‥‥」
 誰も答えるものはなかった。」     

上田哲農『日翳の山 ひなたの山』 岳妖



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宇戸木山     971.8m    三等三角点     梼原

 梼原町の南西部、川井集落から霧立山への旧歩道の途中にある山。県境までもうわずか1kmほどである。ウドウギヤマ。地形図 地形図

ヌタ場の横を通り抜ける。先ほどまで動物がいたようだ





 
ようやく見つけた作業道は草木茫々、落石だらけ、おまけに路面は雨水で抉られたりぬかるんだりしていたが、それでもなんとか終点までわたしたちを運んでくれた。登山開始に際して、ルートをどちらに採るかで迷った。崖をへつって西側の尾根に出るか、それともヌルヌルすべりそうな南側のゴルジュを急登してなんとかその先の尾根に出るか、である。けっきょく、後者を採ったのだがこれは正解だったようだ。谷の途中から左の崖をあがって、ザラザラと崩れ落ちるザレを登りつめたところに前記の歩道が見つかったからだ。だがその道は急斜面に吸収されるようにほとんど消えかかり、そこも足元が剣呑であった。
 ちょっといったところで尾根まであがり、あとはそれを辿る。それからは三角点までさほど苦労することもなかった。気分いい尾根歩きといったところ。松のおおい雑木林。動物たちの憩いの場、ヌタ場も見た。尾根の左右どちらかに、アップダウンを避けるように、踏み跡程度だが道が見つかる。紅葉にはまだ早いようだ、まだ広葉樹の葉は青々している。
 予想よりも早く1時間30分ほどで頂上についた。同時に、お昼のエーデルワイズのメロディが下界から聞こえてきた。あかるい光がほぼ全方向から入ってきている。景色は見えないが、この三角点が埋設されたころにはすばらしい展望がひろがっていたことが想像された。寒くなって自分は雨具の上着を、妻はマフラーを肩にかけて昼食をとる。曇天で暗い。だが、思いどおりにこの山に登ることができたことで気分は晴ればれしていた。

 車まで下りる前に、すこし足をのばして「川井」四等三角点736.8mに立ち寄る。森のなかにぽつんと小さな標石は見つかった。

 
「世の中には後になって先見の明を誇ろうとする人たちがある。自分であったら遭難しなかったというような口吻(こうふん)をもらす人さえもある。山を知らない人たちに限って遭難者の行動を一々吟味して非難攻撃をしているのである。」

『銀嶺に輝く』―剣沢小屋の遭難― 東京大学スキー山岳部編



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八ヶ森      834.4m      三等三角点      梼原

梼原町の山である。ハチガモリ。地形図

秋の斜陽に栗のイガが光る



 多くの勤皇の志士たちが脱藩のために抜けた愛媛県との県境、九十九曲峠に向かう車道も今「維新の道」と名付けられている。その道と梼原川、四万川に囲まれたところに八ヶ森はある。龍馬や虎太郎たちもこの山のわきを足早に通り過ぎて行ったのだ。
 維新トンネルの手前から林道に入る。役場で聞いていたようにかなり荒れた道である。雌雄のヤマドリが慌てて山中に逃げ込んだ。小振りで尾羽も短く、夫婦というより兄妹といったところだろう。林道が主稜線に出たところから歩くことにした。伐採跡にはススキが穂を広げはじめ、その間にヤマハギやオミナエシ、オトコエシ、イタドリ、メイゲツソウなどがいくらか控えめな色で咲い て秋の風景を演出していた。ヤマグリが斜めから射すようになった陽光にイガを光らせている。
 頂上の尾根はほぼ南北に続き、平坦で数十メートルにわたって標高の変化がない。赤白ポールや標識なども見当たらず、しばらく探したのだが遂に三角点は見つけることができなかった。伐採跡の斜面で昼食を取ることにした。梼原市街は見えなかったが、はずれのラジオアンテナ付近、その右の方には太郎川公園周辺の建物や車が見えた。そして左手奥の空との境には、トトロの耳のように天狗の森が、その隣には天狗高原と国民宿舎が見えていた。

 
「自然の美の中には、詩があり、歌があり、絵がある。枯葉の一葉にももののあわれは感じられるのだ。」   

今井通子『私の北壁 マッターホルン』 山は私の故郷



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上天山     807.5m     三等三角点      梼原

 檮原町の中西部、県境寄り四万川の西岸の山である。この山頂より西に稜線をたどれば、九十九曲峠に達し、くだって東にむかえば、現在では維新トンネルを抜けて梼原にいたる。勤皇の志士たちも往還した道筋であったのであろう。ジョウテンヤマ。地形図 地形図

桧と松の木のプロムナード



 天に上る山。いかにもいい名前なので、一年の登り納めの山にえらんだ。四万川沿いから二度ほど迷った末、上天山にむかう林道を見つけて入ったが、狭いうえに、凸凹、ぬかるみ、わだち、崩れを乗りこえる際の高低差など、悪路の条件をすべて揃えたような小型四駆向きの道を
2kmほど走る。入山予定点に車をとめ準備をした。凍りつくような寒い風が吹き、登りはじめるまで気が重い。植林の間をのぼり、稜線で右に方向を変える。地形図にある歩道と思わせる辺りに出ると、峠への目印のためであろうか、右側には桧、左には松の木がプロムナードのように2mおきくらいに植えられていた。

 頂上と思われるところについたが標石がまた見つからない。GPSで示された地点をさがすと、なんと25cmくらいの松の倒木の下に頭を押さえつけられているのがかろうじて見えた。朽ちているので折れるかもと持ち上げてみたが動かないのであきらめかけたが、二人でえいやっと上げてみるとメリメリッと折れて脇に寄せることができた。やっぱり妻の力は百人力。まわりを片付けて記念撮影をすまし、山名板を枝にのこす。山名のごとく上天気で、南側の山がくっきりと見えていた。

 車までもどり、「土森」三等点
828.2mにむかう。カーナビに、それほど新しくもない道がインプットされてなくて地形図を使いながら走り、ようやく目的の林道に入ったが、これも2本線で描かれている道なのに狭いうえに荒れていて、そばの草や木に車体をたたかれ体を上下左右に揺らされっぱなしで上っていった。登山予定点につき登りはじめたのはもう2時過ぎ。尾根自体はゆるやかだったが、踏み跡をいくうち最後に急な斜面を上ることになった。

 見つけた三角点は欠けに欠けていた。それでも頭の十文字と、前面の文字は見えたので次にそのまま使用するのだろうか。両側の山々が木々の間から見えていた。ケモノ道を帰らずに、尾根筋を正月用のユズリハをさがしながら下りていたら思わぬ方向に迷いかけた。

 
「今日の風は凄かったなぁ。下界であんだけスゴイ風に遭うことはなかなか無いヮ。大変やったけど、いい経験した。なぁ、俺ら山やるもんちゃ、何かそんな〝すんごいモン〟に逢うために山歩いとると思わんか!?」   泉さんの言葉

『逢いたくて』 清水ゆかり(北アルプス朝日岳小屋管理人)



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一夜ヶ森    1360.5m     四等三角点     惣川

愛媛県野村町と梼原町の県境にある山である。「薊野峰」と「源氏ヶ駄場」三角点の間にある四等点の頂。「大野ヶ原三山」あるいは「源氏ヶ駄場三山」と言ってもいいような三つのピークが県境に連なっている。イチヤガモリ。地形図

「一夜ヶ森」四等点に到着する



 薊野峰一等点のわずかに西、大野ヶ原側の斜面に、楕円形をした、ブナなどの原生林の森がある。弘法大師がここに真言宗の本山を建てようと訪れた際、一晩にして出現した森だということで、「一夜ヶ森」と呼ばれ、山火事が起こってもこの森は燃えず、昔のままの姿を今に残しているのだという。天邪鬼にじゃまをされて、結局、大本山はここに建設されることはなく、伝説だけが残っている。
 斜面はゆるやかで、尾根の起伏も少ないが、トゲのある潅木やイバラの多い荒野を進むのは痛い思いをすることが多い。「あいてっ」とか「いててっ」という悲鳴を間なしに上げている。時にはナタを持つ手や顔までトゲに襲われる。しかしそれも頂上までのわずかな間である。そこに達すれば、そんな思いをしたことなど一瞬のうちに忘れてしまうはずだ。それほど素晴らしい展望が広がっていた。
 白くて、疵付くことも苔むすこともなかった美しい四等点の標石の周りは、スミレの花などが咲く低い草原。どちらを向いても展望が広がる。目前には大きな雨包山や高研山、霧立山などの、県境の山を中心とした畳々とした山並み。下方には水を満たした山の田やその近くの家々。東を見れば大野ヶ原の一等点の標石横に立つ建造物もすべて見える。薊野峰の左手には天狗高原や中津明神山などが認められ、県境がはっきりとカーブを描いているのがよくわかった。そういえば私たちはいま、高知県が愛媛県側に大きく突きだした部分にいるのだ。
 ひろびろした景色に、寒風のことなどすべて忘れるほど、非常に愉快な気分になり、下界のことをはるかに思いやった。

 
「山に関する情報は少ないほど良い。これまでに得られた知識だけで、もう充分だ。今、欠けているのは神秘性だ。あきれるほど膨大な登山報告書の山。それぞれの報告書の誇大描写が問題なのではない。それがガイドブックとして読まれることが、山を痛めつける原因となるのだ。」            

ラインホルト・メスナー



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源氏ヶ駄場    1294.6m    三等三角点     惣川

愛媛県野村町と高知県梼原町の境にある山である。地形図を見ると、大野ヶ原集落の南側の斜面に源氏ヶ駄場と記されている。しかし、その上方の県境尾根にある一等三角点には「薊野峰」と名が付けられ、そこから2kmほど県境の尾根を西に下った四国カルストの西端にある三等点に「源氏ヶ駄場」と点名が付けられている。ゲンジガダバ。地形図

一夜ヶ森より源氏ヶ駄場にひきかえす



 植林の間を登って到達した県境の尾根は、いつも見る四国カルストの地形そのもので、起伏の少ない台地に、ゴツゴツと突出した恐竜の骨のような石灰石と、枝を横に張ったトゲのあるうるさい潅木がそれにからむように育ち、文字通りブッシュとなって、分け入る人間や動物たちの行動を妨げていた。ヤブから出たり、岩の上に乗ったりすれば、文句の付けようもない展望が広がっているのだが、中に入ると楽に身動きもできない。
 三角点を探すのはまるで宝探しをするようであった。開きながら、文字通り草の根、木の根を分けたり、靴や杖の先で探ったりするがなかなか見つからない。ヤマシャクヤクの苗が方々で育ち、日当たりの良いところでは花を咲かせている。1時間近く探して一度あきらめかけたが、最後にもう一度と念を入れて探すと、偶然、潅木の根元で、標石を運よく見つけた。ヤブに完全に埋没していたのだ。
 あとでここに来る人の、宝探しの楽しみを奪ってしまわないように、そこは完全にはひらいてしまわないことにして、帰途についた。

 
「  乾きたる落葉のなかの栗の実を

湿りたる朽葉がしたに橡の実をとりどりに

拾うともなく拾いもちて

今日の山路を越えて来ぬ

と、死んだ旅の詩人牧水のポエムが自然に舌にのって来た。歩きよい踏みならされた道はゆるやかにこの橡や山毛欅の森林を抜け、一層クラシカルな栂の森を突っ切って行く。糸魚川に運ぶらしい硫黄のかたまりが所々に落ちている。この次第に人里のにおいを感じつつやがて平岩へ出る道の左手には、雪倉岳から出る姫川の支流大所川が、雨のような音を立てて流れて行く。
 温泉は十一月下旬から初夏のころまで閉鎖されるが、その雪の深い冬の静けさが思いやられる。湯は熱いし、兎はわなにかかるだろうし、山や森林は一層美しいに違いない。死のような沈黙は人間を気狂いにするだろう。このごろは蓮華を思うこと痛切だ。」

細井吉造『伊那谷・木曽谷』 蓮華温泉とその付近

 
 山や高原を、標高の高低にかかわらず愛した人には、細井吉造(ほそいよしぞう 1904 -1936)もいる。甲府市に生まれ、少年時代に山に目を開かされた彼は、長じて、新聞記者という職業のかたわら、足しげく山に通い、流麗な、ときにはユーモアあふれる文章を残している。『伊那谷・木曽谷』は、南アルプスの主と呼ばれた細井が、その近傍、南駒ケ岳を下山中、嵐に遭って遭難死した後、有志たちによって刊行された遺稿集である。


 


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韮ヶ峠山     1011.7m    四等三角点      惣川

 愛媛県野村町と高知県梼原町との境界上にある山。徒歩旅行時代には、400mほど東の県境に「韮ヶ峠」の往還が通っていた。いまは車道になっている。ニラガトウゲヤマ、ニラガトウヤマ。地形図

韮ヶ峠にかかる龍馬脱藩の道の看板



 地形図「惣川」を見ただけでも、この韮ヶ峠以外に、九十九曲峠をはじめ桜峠、大茅峠など、梼原町と伊予側を結ぶいくつかの峠名が見える。その中で「韮ヶ峠」がほかより脚光を浴びる点があるとすれば、幕末期、かの坂本龍馬が脱藩のおり、ここを抜けたことが、文書などによりほぼ確実とされている事実にあるだろう。あの龍馬が、回天の志を胸に秘めて、急ぎ足で通り抜けたのだ。そう思うとただの峠が特別なものに思われてくる。

 梼原町としても「龍馬脱藩の道」として力をいれ、車道に道しるべを順につけたり、峠などにも大きな看板などを立てるなどして売り出そうとしている。
 韮ヶ峠山の山頂には峠から歩いても20分とはかからない。大規模林道を歩いてから植林の間を県境に沿って登るとすぐである。梼原側の植林がまだ幼若で、展望がひろがる。源氏ヶ駄場や一夜ヶ森、それに薊野峰のいわゆる大野ヶ原三山がよく見えた。白くてきれいな四等点は、一夜ヶ森と同じ時期に立てた同じ材質のもののようである。まわりはヒノキの植林でほかには何もない。4月下旬にしては寒い風がただ吹きぬけているだけだった。

 
「峠が山脈を横断し、一つの人間世界と、他の一つの人間世界とを結ぶ紐帯であることは云うまでも無い。峠は山であると同時に里であり、自然であると共に人間である。峠は自然のなかに人間世界の哀喜が織込まれ、浸透されているところだ。峠は人間と自然との無韻の交響楽である。
 人間と人間の世界は無常である。峠が山とちがつて一種の哀愁味を持つのはそのためである。春の峠でもさびしい。秋の峠は尚更さびしい。薄の枯葉が秋風になびく中の古い地蔵堂は、さだなきに峠のさびしさを、いやが上にもかきたてる。」

北川淳一郎箸 『愛媛の山岳』  愛媛の峠



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長曽山     983.9m      四等三角点      惣川

愛媛県野村町と梼原町の境界上で、韮ヶ峠山の南にある山である。ナガソヤマ。地形図

展望のよい支尾根を登る



 緑資源幹線林道を北に入る作業道の途中が登山口となった。ぐるりと展望が開けている。北を見れば新緑の愛媛の山々や里、すぐ下にはサイロのある牧場の設備なども見え、東には大野ヶ原三山の台形の山容が望まれる。南側の山頂の方には、若い植林の上方にとっくに伐採期を迎えている大きなヒノキなどの林があるが、数は少なくまばらな林のようである。人間の背よりも低い桧の間を縫いながら登る。下草はほとんど気にならない。

 まもなく山頂と思われるところに着いたが、すぐに三角点は見つからなかった。東側に見える頂に行こうとしたが、もう一度と周りを見まわすと、若い桧の茂りのなかに白っぽい三角点が見えた。広場ほどは広くはないが、すぐ近くまではヒノキは植えられていない。イタドリが何本もひょろひょろと伸び、標石の二、三十センチのところにホウチャクソウが一輪、白い花を咲かせていた。折らないように気を付けて、小さな山名板を立てて、この日登ってきた二人と一匹の記念とした。

 
「人間は本来、自然の中で生きていかなければいけないんだよっていうことを知るために、もしかしたらぼくは山に登ったのかもしれません。」

長谷川恒男『行きぬくことは冒険だよ』 講演録



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雨包山     1111.6m     二等三角点      惣川

愛媛県城川町と梼原町境にあるが、三角点は愛媛県側にかなり入っている。秩父古成層からなり、カルスト地形がみられる。アマツツミヤマ、アマヅツミヤマ。地形図

一夜ヶ森より見る雨包山



 県境を走る快適なスカイライン「大規模林道 東津野城川線」のすぐかたわらの山なので簡単に登ることができるだろうと安易に考えていた。ところが、それほど思うようにはいかず、いちどは高研山からの帰途、大規模林道側から登ってみたが、小喬木とスズタケのヤブを突破することがかなわず、おずおずと敗退。
 別の日、こんどは愛媛県側の普通林道から近づき、登ってみた。このときもすこしコースを誤ったようで、またも若い植林のなかのイバラとカヤ、それに植林自体の枝に行く手を阻まれることになった。しかし、三角点周辺は比較的すいていて、空もひらけて明るかった。そばに岩場などもあり、そのうえでゆっくりと昼食を味わうことができた。
 それはそうと、この山は標高が1111mということで、平成111111日に、日本テレビの「ズームイン朝」で紹介されたのだが、そのとき主人公になったのは私たちが三角点そばに残してきた木製の記念プレートだった。私の筆跡。それが画面に大写しされたときには、別れ別れになって二度とは会えぬさだめの近親者に、ふたたび巡りあったようなそんなおかしな気分になったものだった。

 
「げに尾根から尾根へと、われらをつきあげ、巓(いただき)に向はせるものは自然の理法よ」

ダンテ・アリギエーリ 『神曲』天国篇 第四歌



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龍泉山     1004.4m     四等三角点      惣川

愛媛県城川町と梼原町の境にある山である。龍の泉の山とはいかにも格好のいい、ありそうな山名であるが、伊予側に2km足らず下ったところに竜泉という集落が地形図に見える。リュウセンヤマ、リュウセンザン。地形図

三角点に到着する。すこし愛媛寄りである



 林道滝山線の分岐あたりに車をとめて入山。途中ほとんど桧の植林のなか。幹線林道沿いに尾根を伝う。道路沿いの崖のほうに寄れば、梼原町の山々が見えるが、高い崖なのであまりそれはやりたくない。それに展望は林道上からいくらでもえられた。正午ごろ山頂着。ここも桧の植林のなかで展望はなにもない。土佐側のそれには杉もまじっていた。県境尾根上だけには雑木も見える。
 標石は尾根から2mほど愛媛県側に寄っていた。管轄行政名も愛媛である。ここで食事をする気にもならず、写真を撮り、早々に下山にかかった。

 
「驚いたことに、TさんもGちゃんも、「一番落ち込んだ時に救ってくれたのは自然だった」という。私は、自分を死から救ってくれたのが山だったから、「私には山なのだ」と考えていたのだが、私だけではないのだ。山(自然)に救ってもらった人は……。」

『人はなぜ山へ』視覚障害者サポート登山 坂井悦子

 
 山(自然)は危険というが、人をとくに精神面で救済している部分もはかりしれない。どちらかといえば後者の面がはるかに大きく、そこで亡くなった人たちでさえ心中ではある程度納得のうえということもあろうが、交通事故や病気などほかの原因で命を失うのとちがって精神的にはやはり救われたと感じていたのかもしれない。



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桜峠山     972.9m     三等三角点      惣川

 愛媛県城川町と梼原町の境にある山である。同じ植物名でも韮や茅と違って、桜とは美しい。しかし韮ヶ峠や大茅峠は車道の峠ながら現存し標識もあるが、桜峠は地形図に名が記されているものの峠道もはっきりせず幹線林道上に標識もみえない。点名は「桜ヶ峠」。サクラトウゲヤマ、サクラトウヤマ。地形図

大きなツタに巻きつかれて枯れて倒れてしまった木



 桜峠山はその桜峠と記されたあたりから登るのがもっとも妥当なところであろうが、すこし南まで走り過ぎてしまった。車道から見上げると、尾根はすぐ上方に見えていたので、そこから急斜面をジグザグに登高し、その後尾根を北に辿ることにした。途中大きなカズラに、絞め殺されて倒れ白骨化した木を見た。ぐるぐると巻きついたまま、別の木に先端を伸ばしているカズラは、その表面の模様まで大蛇のようで不気味だった。

 岩のゴツゴツしたところを過ぎて間もなく、三等三角点を、わずか下草が茂ったところで見つけた。ヤブは標石をかくしてしまうほどではない。三等点だけあって蒼然としていて頭の上にはコケも乗っている。ずっと植林だったが、そこだけマツや広葉樹の林になっていて、その間から北西側の雨包山のみはっきりとよく見えていた。

 
「頂上に立ったのが午後八時丁度だった。太陽が沈んだ瞬間、頂上の大きな氷の塊が赤く焼け、この世のものとも思われない美しさだ。アレナレスの陰が、大きく円錐形にベースキャンプの方向にうつしだされている。月がかすかに地平線の彼方に明りを見せている。下るには余りにも薄明だった。三十分ほど月待ちして、その明りの下に降り始めた。月光下の下降は、思ったより難かしい。登りに何気なく通り過ぎたクレパスが意外な所で口を開けている。荷物をデポーした所についたのが、翌日の午前一時、直ちに斜面にそのままテントを張り羽毛服のままもぐり込んだ。」

神戸大学山岳会『アレナレス山の初登頂』 日本・チリ合同パタゴニア・アンデス探検

 
 昭和33年(1958年)、神戸大学山岳会はチリー政府、および山岳会の招へいにより、遠征隊をパタゴニアの未踏峰、アレナレス山に送った。日本側9名とチリーの8名の登山家たちとの混成登山隊であるが、国際合同隊はわが国にとっては初めての試みであった。食料、滞在費、探検経費などはチリー側負担とし、その代償として、日本側は登山に必要な一切の装備を受け持ち、帰国時にはそれをチリー側に寄贈するということが提案された。
 数葉の航空写真のみを頼りとしての未開地のキャラバンは、われわれからは想像を絶するものだったに相違ない。馬とボートを使っての危ない川の遡行、渡河。湿地帯での猛烈な蚊の攻勢。木枠にキャンパスを覆って作った応急の小舟での、湖の対岸への資材輸送。その水温は摂氏2度ほどで、まさに死を賭してのものであった。そんな旅を草原の飛行場からベースキャンプまで二十数日。これはヒマラヤでの人力によるキャラバンをしのぐ、まさにそれ自体が探検行であったと思われる。
 アレナレス山の標高は3437m。高度障害こそ問題なかったであろうが、頂上にいたるまでの行程はひとつひとつが凄まじい闘いであったことだろう。



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長崎山     898.1m     四等三角点     惣川

 愛媛県城川町と梼原町の間にある山。北北西750mほどのところに大茅峠がある。長崎は愛媛県側にある地名である。ナガサキヤマ。地形図

夕暮近い愛媛側の展望



 北西側に入っている作業道から登ることにした。県境の尾根はすこしヤブ化した雑木林になっていて、ここもすぐには三角点は姿を現してくれなかった。コブを一つ越して、この辺りだと思われる尾根を探すのであるがなくて、支尾根が皿ヶ森のほうに方向を大きく変えるところまで行き過ぎてから確信をして引き返した。手前の雑木林を落葉の下に隠れていないかさぐっていると、相当手前の、来がけに赤テープを小枝に付けたところのすぐ横で標石は見つかった。色あせた赤白ポールも立っていたのだが、まだ先に、尾根の高い部分が見えているので意識せずに通り過ぎてしまっていたのである。
 北西の方角に木々の間から山々が見えて、その一つの鋭く尖っているほうの山がどこか知りたかったのだが、夕暮れも近く、時間に急かれて断念し車まで帰った。その途中の伐採跡から見えた愛媛県の山と、谷に見えている集落にもまた、今日という日の終わりが近づいていた。

 
「頂上直下でこんな高度のアイステクニックを要求する山があるだろうか 私はスポーツマンとしての誇り、そして人間としての恐怖を回想しながらひたすらロープの伸び切るのを待つばかりであった。四ピッチの後にやっと頂上の一〇㍍ほど手前の地点に三人が揃ったとき、麻植、竹内両隊員が、
「隊長、一番先に最高点を踏んで下さい」
 と先頭を譲ってくれる。丸い丘のような頂上に向って、感激にふるえる足を一歩、一歩踏みしめながら遂に八月十四日午後三時四十六分、標高六二〇〇㍍の処女峯アウサンガテ南峯に立つことができたのであった。そして感激の日章旗を頂上に打ち樹てて、三名が無事第二キャンプに帰投したのは午後七時十五分、すなわち今朝出発してから十一時間目のことであった。」   

竹田吉文『ペルー・アンデス遠征』 登頂


 昭和34年(1959年)、隊員6名、キャラバンは人力に依らず、ほとんどトラックや馬のみという、小規模の遠征隊が、ペルー・アンデスに遠征をして初登頂に成功している。しかもそれまで欧米の登山隊がいくども挑戦をして果たせなかった難峰であった。その偵察の最中、雪の峰の尾根上に遺跡を発見したとか、しないとかで、ペルー空軍や政府をも巻きこんだ騒ぎも起こしている。だが、すべては非常に友好的に進み、登頂後には、同政府や空軍からお祝いの勲章や記章を遠征隊は贈られている。



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皿ヶ森     989.1m      三等三角点     惣川

 梼原町の山である。国地院の地形図には見えないが、梼原町の行政地図には山名が記されている。サラガモリ。地形図

三角点のまわりはすこし渋りはじめていた



 むかしは、松谷地区の家々のカヤを供給していた山であったそうで、今でも頂上近くにカヤ原が残るが、多くはそのあとにヒノキの植林やクヌギなどが植えられたりしている。また頂上北側には見応えのある松林も広がっていた。

 林道終わりの広場からは東や南にむいて、すばらしい眺望がひらけていた。最も大きく望まれたのは東に見える坊主山。南には九十九曲峠の向こうに高研山がのぞいている。天気もよく風もない、4月中旬、初夏のように暑い日。そこ から尾根を北上した。地形図には点線の道が記されているが、どこを通っているのか見あたらなかった。広葉樹の枝々の葉はひらく寸前で、明るい緑をおびて、えも言われないほど美しく、また葉っぱのために展望を妨げられることもない。樹間を抜ける風が香ばしいようである。三角点のそばには、かなり大きいヤマザクラとそれよりは小さなカエデの木が育ち、春や秋には風景に色を添えることだろう。東のカヤ原の先には坊主山のみが見えていた。
 下山後、山の南東麓にある津野定勝の墓所に参拝する。定勝は長宗我部元親に追われるように伊予に逃れていたが、秦氏の滅亡後、この地に帰り、1616年に亡くなっている。さらに県道城川梼原線に出て、「上成富士」に登る。立ち木が切られて一本もない。5分ほどで頂上だが、眼下すぐに、四万川の流れや県道を走る車が見えて、こわいほどだった。

 
 北アルプスの槍ヶ岳に最初に登ったといわれているのは誰だか知っていますか すくなくとも登山を趣味としようとするほどの人なら当然わかっているはずだが、次のような新田次郎氏の文章を見れば、案外そうでもないようなので紹介しようと思う。


「槍ヶ岳は播隆上人と中田又重郎によって百四十年も前に初登攀がなされているにもかかわらず、播隆上人のことを知っている人は意外に少ない。数年前の夏のこと槍ヶ岳登山中の若い人に槍ヶ岳に初登攀したのは誰かと聞いたら、三人はウェストンと答え、あとの七人は知らないと答えた。

 ウェストンについて、いまさらここで書くこともあるまいが、毎年六月上旬にウェストン祭が上高地で行われているのに播隆祭がないのはまことに妙であり淋しいことでもある。」と書いている。私も同感である。

1823年(文政六年八月)       四十一歳 笠ヶ岳再興のため登山
1828年(文政十一年七月二十八日)  四十六歳 槍ヶ岳初登頂
1840年(天保十一年八月十三日)   五十八歳 鉄鎖下げ完了、槍ヶ岳完全開山
                                    同じ年十月二十一日 播隆上人入寂




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上角ヶ岩     929.2m     三等三角点      土居

 愛媛県城川町と梼原町の境にある山である。ジョウカクガイワ。地形図

「上角ヶ岩」三等点



 大規模林道の県境からすこし入ったところの広場に車をとめて、遅くなるので犬は車に残し、荒れた林道から歩きはじめた。出発した時は南に向かっていたのだが、その後刻々と方向を細かく転じ、最後の登りにさしかかった頃には、自分は北に向かっているものとすっかり思い込んでしまっていた。だがそれは実際には南進する尾根だったのだ。展望の開けない森林の只中のどこかで、錯覚に落ち込んでしまっていた。太陽が出ていれば、うっそうとした森の中にあっても、航空機のジャイロのように知覚に働いて方向感覚を常に修正していくものなのだが、この日は曇天の上、さらに夕刻近くだった。リングワンデリングとはすこし違うが、それに近い方向感覚の狂いが森の中では簡単に起こりうるものだと考えさせられた。
 三角点は桧の植林の中にあった。北側の一角(ほんとは南側)が欠けていた。景色はここでもまったく見えない。近くでは、下草にまじって、かわいらしい花を咲かせたホウチャクソウが群落を作っていた。

 
「道からはずれた手の届かない岩棚の上に、エーデルワイスの花を見つけたのはうれしかった。誰に見られることもなく風にゆれ、七、八輪の花を咲かせているのだった。そのエーデルワイスの姿は、私を感傷的にした。人の目につくような登山より、このエーデルワイスのように誰にも気づかれず、自然の冒険を自分のものとして登山をする。これこそ単独で登っている自分があこがれていたものではないかと思った。」

植村直己『青春を山に賭けて』 朝焼けのゴジュンバ・カン



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松谷峠山     913.1m    四等三角点     土居

 愛媛県城川町と梼原町境の山である。松谷峠山は梼原町の松谷と伊予の程野を結ぶ山道の峠で、地形図にも三角点の上に歩道の点線が描かれている。マツタニトウゲヤマ。地形図

もうすぐ三角点



 地図に見える歩道はどこにあるのか見当たらなかったが、その代わりに急な作業道が上方に続いていた。キャタピラー車しか登れないほどの急さである。それを上り、途中から伐採跡のきわをひと登りすると、スズタケが袋小路のようになっているようなところに三角点を見つけた。そばには木材としての製品になりそうもない、かなりな幹まわりの杉の木が一本切り倒されたままになっている。まだチェーンソーの切り屑が株の上に盛り上がったまま残されていた。大きくて疎らな植林の間から愛媛の山々が見える。急いで写真撮影などの頂上での儀式をすませた。
 車まで下りると520分。準備をして高研山トンネルを廻って帰ることにした。今日も帰宅するのは遅くなりそうである。途中車から家にメールを入れる。

 
「この世界は僕を驚駭させる……僕は怯えながら人生をあゆんでいるのだ……それだから僕は山に熱中するのだ。僕は他所では得られないよろこびを見出すために絶望的に山にとびこんだのだ。そしてはげしい行動のうちにいくらかの幸福と忘却を見出そうとしたのだ。」             

ジョン・コスト 『アルピニストの心』 



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高研山     1055.6m      四等三角点     土居

愛媛県日吉村と梼原町との境界にある山。「高く研ぎすまされた鋭い頂を持つ山」という意味ででもあろうか。いずれにせよ登山欲をかき立てる、印象的なよい名前である。昭和初期の山の本などにも、短いが山頂の様子を書いたものが見えるから、以前もすこしは登られていたようである。普通「タカトギヤマ」と読むようであるが、「コウケンザン」と呼ぶ方を私は好む。というより個人的にはいつもそう呼んでいる。「ミウネ」と「サンレイ」の例のように。地形図

城川日吉トンネルの元から見る高研山



 北半球に先進国の多い現在では、北を上にした地図が普通であるのだが、中世のヨーロッパでは、パラダイスがあると考えられていたオリエント(東方)が上になっている地図が作られ、そのことから地図と方向を合わせることをオリエンテーションというようになったということである。机上に地図を広げ、そのオリエンテーション(シミュレーション)を行ってから出かけたのだが、現地でのナビゲーションに失敗してしまい、山中で苦労することになった。やっと尾根に出たと思ったら、それがやがて谷になり、また尾根に登りなおす、というようなことを、ときには小喬木のヤブを開きながら、23回くり返した。 途中、なかなか足に合ってくれない新しい登山靴で踵に痛みが出て、かたわらに腰かけてソックスを脱いで靴擦れ用絆創膏を貼る羽目になった。
 8月という盛夏だったこともあり、汗をたっぷりと流して到達した頂上は植林のただ中だった。一方にはスズタケが迫ってきている。展望もない。雨包山にまわる途中、大規模林道の「城川日吉トンネル」の元から、振り返って見た同山の姿の良さからは想像もできないほどの凡庸さであった。
 下山して、路傍で見た淡いピンク色のシモツケソウの花。以前、徳島県の石堂山で遭遇したお花畑には及びもつかないが、それでも一服の清涼剤とするには十分であった。

この山を訪れてから3年ほどあとの平成11年、旧高研山随道を200mほど愛媛側に下ったところの山道の入り口に、日吉村日向谷の人たちによって、「土佐伊予大街道跡」の標柱が立てられた。その道を辿ってみると、私たちが苦労して登った旧トンネルの上の峠まで楽々達することができた。またその峠の伊予側には、壇浦以後、槇山村岡内(現物部村岡内)に定住したとされる平清盛の孫、資盛(すけもり)を追って漂泊していた愛妾おまん姫(資盛は建礼門院右京太夫との恋で有名だが)の墓といわれている高さ60センチほどの一石彫りの五輪塔が、祠と、傘のように枝葉をひろげたシキビの大木に守られてある。「おまん」は源氏の追っ手によって殺害され、そこに埋葬されたそうであるが、その位置、墓の文字の風化具合からして、源平の昔からのものとは考えられず、後世の人が峠の地蔵さんのように、そこに置いたのではないかと思われた。

 
「ヒマラヤ遠征などという、危険な、しかもえらく不経済な計画なんか、およそ余計なことだと考える人達には、やはり同じ経済的な点から一つの興味ある事実を説明した方がよいと思う。つまり、ヒマラヤ遠征というものは、国民経済にとって決して経済的負担となるものではない。ヒマラヤ遠征は、次回の遠征隊を組織できるだけの費用ぐらい容易につくり出すことができるものなのである。」

カール・M・ヘンリヒコッファー『ナンガ・パルバット』



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霧立山    1096.6m     三等三角点    土佐松原

愛媛県日吉町と檮原町、大正町の交点にある山。キリタテヤマ、キリタチヤマ。地形図

三角点は草に埋もれていた



 霧を立てるのは天狗さまか。キリタチヤマのほうがなんとなくロマンチックでいい。
 一週間前、となりの地蔵山に登った際、県境の尾根をつたって、霧立山までゆこうとしたが、密生したスズタケに見事にはね返されてしまった。林道が近いので人はヤブの尾根を歩く必要がないのである。作戦をたてなおして、愛媛県側の林道から登ってみることにした。今度は、小喬木のヤブこそあれ、スズタケには邪魔されることなく、頂上まで達することができた。その周辺は広葉樹の森で、三角点は草むらのなかに埋もれていた。刈りひろげてから記念写真をとり、近くの植林のなかで昼食。
 県境の尾根を南西に500mほどいったところに展望のひらけたところがあり、周辺の山々、とくに地蔵山などが姿よくのぞまれた。

 
「だいぶお店は繁盛しているようですね、だがお店が繁盛し、お金がたまっただけであなたは満足しておられますか。満足できないでしょう。あなたはお金より大切なものをこれから探さなければならない。」         

新田次郎『富士に死す』

 
 享保十八年(1733年)富士山七合五勺、岩小屋の厨子のなかで、一人の富士行者が入定した。入定とは断食による宗教的自殺行為のことである。
 行者名を食行身禄といい、江戸の商人であった。生前、彼は孤独な求道者といった感じで弟子も持たなかったが、劇的な入定により、江戸には旗本の数ほど富士講中があるというほど、富士山行者、道者の数、ひいては富士講の数は増え、身禄教の信者もふえた。浅間大菩薩を熱烈に信仰する富士行の中興の祖といわれる食行身禄は、その年、六月十三日に岩小屋に籠り、かぞえて31日目、七月十三日に遷化した。ときに彼は63歳であった。このような山とのかかわり方もある。



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竹平山     682.4m    三等三角点     土佐松原

梼原町と大正町境の山である。タケヒラヤマ。地形図

梼原川の上に見える竹平山



 影地の民家の軒先では、家の人たちが薬や染料の原料となる黄檗(きはだ)の内皮をはぐ作業をしていた。内樹皮は本当に黄肌であった。
 ルートは予定していたとおり、四電の保守管理道をつかって尾根に出ることにした。道は崖のような急斜面を稲妻のように上がっているのだが、路面に足場が切られていないので、滑りそうで歩きづらい。主稜線に立つ9番鉄塔からは管理道ほどはっきりした道はないとはいえ、直線にして1km足らず。数十分でつくはずであった。枝をはらいながら登っていると、ほどなく小さな「日野地」四等点543.3mがあった。9番鉄塔の東に三角点があることはわかっていた。しかし鉄塔と山頂の間にもう一つあるとすれば、この尾根の上にそれほど間をお かずに三ヶ所、三角点が埋設されていることになる。
 その謎は尾根を歩きはじめて、1時間ほどたって、地図を再確認してようやくわかった。それは鉄塔の位置が地図とはちがって、四等点の東に移っているということだった。それが鉄塔と山頂の間が、1時間かかってもまだ着かない理由だった。(下山してから調べると、平成の初めごろ、送電線および鉄塔が、管理道のコースともにかえられていた。)
 ようやくたどりついた頂上は平坦で広く、三角点を見つけるのにすこし手間どった。松の木のおおい森林の中である。
 帰途、民家の前をとおると、黄檗の皮はぎ作業はまだ黙々とつづけられていた。

 
「うま(、、)のあう友だち同志のように、自然は、自分とうまのあう人の胸にしか語りかけない。」

オスカール・エーリヒ・マイエル 『行為と夢想』



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西峰山     718.3m    三等三角点     土佐松原

大正町の山である。ニシミネヤマ。地形図

「矢立街道を歩こう会」の標柱が立っていた





 昔、陸路のおもな交通手段が徒歩であった頃、尾根、または谷の複雑に入り組んだ四国山地を移動するための歩道が縦横に造られていたはずである。その一つではないだろうか。土地の人は「矢立街道」と呼んでいた。大奈呂から下津井までの間の連山の尾根上に、かなり歩きやすい歩道が今も残っている。その山地の最高点が西峰山である。
 国道439号線の古味野々から、山の反対側の、中津川に越えるために使われていた峠道から登った。その矢立峠に出ると、一本の標柱が立っていた。裏を見ると、「矢立街道を歩こう会」と書かれていた。この会の人たちが、今も二年に一回、歩道の整備をしているという。昨日降った雪の上に、動物の足跡が点々と続いている。偶蹄類ではない。それよりも小型で、前爪が鋭い。たぶん、タヌキかなにかだろう。山頂を往復するために歩道から外れると、急に荒涼とした伐採跡の荒地になった。歩きやすいところを探して登る。
 斜面で、直径20センチぐらいの巣穴を見つけた。先ほど、歩道で見た足跡の主のすみかだろうか。頂上も同様、荒れていて、ゆっくり休憩を取る気にはなれなかった。冷たい風が吹き、雲が今にも雪を降らしそうに垂れ込めていたせいもあるだろうか。

 
 寒々と凍るような空気に満たされた陰鬱ともいえるほどの一日が私は案外好きである。それと同じ意味で、澄み渡った青空のもと森林限界を超えた尾根を歩くのもいいが、うっそうと樹木の生い茂った空も見えないほどの森林の中をあわてずに散策することのほうが、どちらかといえば私の性に合っているのかもしれない。だからかどうか、はでな北アルプスよりも南や中央アルプスのほうがいいと思うし、日本の名山のうちでもさらに地味な辺境の山を好む。しかしそれ以上に高知の山々は静かですばらしいとつくづく思う。そういえば高知の山ほど辺境の山は日本にそれほど多くはない。



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地蔵山    1128m     三角点はない    土佐松原

愛媛県日吉村と十和村境の山である。大正町にも近く、ほとんど交点といった方がいいかもしれない。ジゾウヤマ。地形図

頂はあの辺りか



 大正町や西土佐村と愛媛県との県境の尾根の主だった頂には祠や地蔵菩薩が祀られていることが多いようであるが、この山にも名前の通り、山頂にはお地蔵さまが鎮座されている。それも二体。ひとつは土佐地蔵で、高知県の方を向いている。そこから10分ほど歩いた、標高1128mの地点には伊予地蔵が愛媛県の方を向いて、座っていなさる。伊予さまの方は、広葉樹に取り囲まれ景色は見えないが、土佐地蔵の前は、土佐側にかなりの展望が開けている。
 妻と二人で登ってきた私たちはここで昼食を取った。居間の壁にそのときに撮った写真が掛かっている。草むらのなかで並んで、お弁当を広げている姿は、こんなことをいうのは仏さんに対して不謹慎かもしれないが、自身らのことながら二体の地蔵のようで笑える。
 私たちは日吉村の方から登ったが、十和村、番所谷奥の国有林の林道からも登山道が延びている。

 
「千代子は頂上に立った。浅間神社に礼拝して、その裏側に出ると、剣ヶ峰が夕陽に輝いていた。野中観測所の屋根の一部が光って見えた。噴火口をへだてて呼べばすぐ答えが戻って来そうなところだった。
 富士山は頂上だけを残して、雲に包まれていた。八合目あたりに雲海が接していた。風は頂上に出ると、さらに強くなったようだった。」    

新田次郎『芙蓉の人』

 
 日本人女性として厳冬期の富士にはじめて登頂したのは野中千代子だったとされるが、その瞬間はたぶんこの様であったであろう。ちなみに富士山の最初の女性登頂者は1832年の高山たつであったといわれている。彼女はキリシタン大名として知られる高山右近の直系の子孫だといわれ、不二道の大先達、小谷三志に連れられての登山であった。



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笹平山    1034.8m     二等三角点    土佐松原

大正町と十和村境の山である。ササヒラヤマ。地形図

「仁井田越」より見る山頂付近



 名前から、頂上は平坦で笹が密生しているのではないかと心配していた。しかしだんだん登るにつれて、それは杞憂であることが分かった。登山口の仁井田越の峠から、一本の笹やスズタケの類も見なかったからである。しかし頂上が平らであることだけは当たっていた。
 最近、再測量が行われたのか、真新しい国土地理院の標柱の立つ、二等三角点の周辺は、広く樹林が切り倒され、空が大きく開けていたが、それはまさしく平らかであった。
 登ったのは111日。季節がよかったせいか、地元の人が知るぐらいでしかない山ながら、紅葉も楽しめ、気分よく歩くことができた。北西の方角には地蔵山が間近に望め、土佐地蔵のピークは険しげであった。その右の方には霧立山が木々の間から垣間見えた。下山時、途中の松林にマツタケ狩りに登る二人連れに出会った。

 
「登山家は経験を積むほどに、困難と危険の見極めがより確かなものになる。注意深く、すべての要素を考慮に入れて、成功のチャンスと、それに含まれる危険性のバランスを保とうとする。そして、含まれているであろうリスクが、ゴールや目標に見合ったものかどうかを自分で決めなければならない。これはまた、どの登山隊も登山と人生における、自分自身の哲学によって解決しなければならないという、個人的な決断でもある。目的、対象が重要であればあるほど、人はそれを成し遂げるために、引き受けるべきリスクが、当然ながらますます大きくなる。たとえそうであっても、登山家がそのリスクを受け入れるなら、行動の過程に含まれるリスクを最小にするために、自分の力の範囲内で、あらゆることをするはずである。一〇〇パーセント安全だということはあり得ないであろう。生きているということが危険な状態の中にある、ということである。登山家は未知なるものの挑戦を受けることを恐れてはならない。しかし、無頓着に先に進むべきではない。無能は冒険心ではなく、罪悪である。」     

ニコラス・クリンチ 『ヒドンピーク初登頂』

 
 カラコルムのヒドゥン・ピーク(ガッシャーブルムⅠ峰)8068mは世界で11番目に高い山であり、その意味は英語で「隠れた峰」のことである。これは1892年に、イギリス人、WM・コンウェーがカラコルムを探検したときにつけた名前が、その後も使われるようになったもので、本来の名はガッシャーブルムⅠ、インド測量局記号はK5である。ヒドゥン・ピークは隣接の諸峰にかくされてコンコルディアあたりからは見えず、バルトロ氷河をずっと遡ったとき、ようやく姿をあらわすと思われたことからの命名であった。
 この壮麗な峰に先鞭をつけたのは1934年のディレンフルト国際隊であった。二人の隊員はこのとき6200mまで登って引きかえした。その2年後、こんどはフランス隊が登頂を試みる。同国の最初のヒマラヤ遠征であったが、悪天候のため途中断念せざるをえなかった。戦争をはさんで、しばらく登山隊はこの山からも遠ざかっていたが、1958年になって、アメリカの小規模な登山隊が挑戦することになる。
『ヒドンピーク初登頂』(原題A walk in the sky「大空の散歩」)は1982年にアメリカで出版され、日本語版が出されたのはさらに後の1998年になってからのことであった。この山が初登頂されたのは195875日のことであるから、ずいぶん遅れて世に出たことになる。アンナ・プルナが1950年に初登頂されてのち、ヒドン・ピークは11番目に登られた8000m峰であった。もはやその登頂記はありふれたものでしかなく、出版社の倉庫にはその手の本が山積みされていて、誰も死にもせず怪我もしない冒険物語など当時のアメリカでは見向きもされなかっただろうと、著者は述べている。その後、出版されることになったいきさつにはいろいろあろうが、ニック・クリンチが後にアメリカ山岳会の会長やシェラ・クラブ財団の理事長を歴任したことによるのかもしれない。日本でも、14座の8000m峰のうち、登頂記の出されていなかったのはこの山のみであった。
 本の中で、隊員が同じくバルトロ氷河上部でガッシャーブルムⅣ峰に登るためにキャンプしていたイタリア隊のところに御馳走をあてにして立ち寄る場面がある。国の支援を受けて資金豊富なイタリア隊に比べて、アメリカ隊はたいしたスポンサーもつかず、隊員もけっして最強のグループが組めたわけでもなかった。ただ気の合った友人たちだけで、貧弱な装備や食糧と資金の不足を、仲間同士の結束で乗りきって、ついにはヒマラヤの雪と氷の巨人を征服してしまったのである。
 とにかくこの成功によって、アメリカが西洋先進国の中でただ一つ、8000m峰14座のひとつも初登頂できなかった国として取り残されるのをまぬがれたことだけは確かなことである。日本ですらマナスルで凱歌をあげているのにである。

 
「午後三時、丸みを帯びた尾根の頂上に立った。そこより高い場所はなかった。ついにヒドン・ピークの頂上に達したのだ。長期間の計画、チーム・ワーク、そして不断の努力、それらの終着点がこの頂上である。そこは歓喜に満ちた素晴らしい世界だった。
 北方約二五㌔のところに世界第二の高峰、K2の特徴あるピラミッドが屹立していた。私も参加していた一九五三年の登山隊の、第八キャンプの位置がはっきり見えた。ヒドン・ピークとK2の間にも、巨峰がいくつか並んでいた。ブロード・ピーク、ガッシャーブルムⅡ峰、Ⅲ峰、Ⅳ峰。すべてが標高八千㍍前後の高峰であるが、いずれもヒドン・ピークよりわずかに低い。北東の方向には、荒涼とした丘陵のうねりが地平線まで果てしなく続く。そのあたりはなんとなく暖かそうに見えた。われわれは峻険な側面をもつ、氷と雪におおわれた巨大な山塊に囲まれている。約二四〇〇㍍下には、南ガッシャーブルム氷河とアブルッツィ氷河が横たわり、それらとガッシャーブルムⅤ峰とⅥ峰の向こうには、バルトロ氷河が見えていた。それは、ヒドン・ピークと呼ばれているわれわれの山が、やはり決して「ヒドン」(隠れた山)ではなかった、という確かな証拠である。」

ニコラス・クリンチ『ヒドンピーク初登頂』 ピーター・K・ショーニング記



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重利山     640.3m     三等三角点     田野々

十和村の山である。シゲリヤマ、あるいはシゲトシヤマと読む。地形図

頂上も間近である



 久しぶりに登山口から三角点まで、道が完全につながっている山に登った。国道381号線から頂上に至るまで四国電力の送電線の管理道が延びているからである。登山口近くの民家の男性にたずねると、「ああ、しげとしやまか、きついよ、こんな道だよ」と手の平を立てて、傾斜度をあらわして見せた。その言葉通り、登山道は急勾配で、その上スリップしやすそうな道が、雑木林の中を、ときにはジグザグと上方に続いていた。途中45番から42番までの鉄塔を通過した。そして42番鉄塔の数十メートル先の、道が直角に左におれるところに、三角点は頭を赤くぬられて立っていた。あえぎながら登ってきたが、それはあっけなく目に付くところにあった。
 そこから僅か42番鉄塔に寄ったところから、南西側に展望がひらけていた。堂ヶ森から、遠くには県境の篠山や大黒山などまで見えた。そしてそれらの手前の、これから登ることになるであろう地吉山や大中尾山などの十和村の山々が、私たちに、早くおいでと手招きしているように感じられた。

 
「空山人跡を見ずとか孤猿友をよぶの声とか悠然と南山を見るとか……そういった仙境を見つけることがまるっきりできなくなったわけではないが、さがすのにいろいろ苦心が要るようなことにはなってきた。もう名山秀峰をたずねていっては、いかに裾をめぐってみてもビニールや空罐を眼にせずに済ますことは困難だ。二十万を取りだし五万を拡げて、自分の山谷をさがすのは、この際新しく生まれた一種別格の楽しみといってもいいかも知れない。」      

『続 辻まことの世界』 岳人の言葉



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     700.2m     二等三角点     田野々

十和村と大正町の境界にある山である。金属をドロドロ溶かして、鉄や銅のかたまりを造ることを「吹く」という。この「吹」やこれから変化した「福」などの文字の付く山には古に金属鉱山やタタラなどがあったことが多いといわれる。フキノミネ、フクノミネ。地形図

吹の峰からの下山



 すこし遠いが、国道381号線、屋敷峠の四電の管理道入り口から入山することにした。入山すると数分おきに鉄塔があらわれ、目的の主稜線に達するまでに、五基の鉄塔の下をとおった。問題はそこから先であった。もし、小喬木やイバラやシダのヤブに閉ざされていれば、頂上までどれくらい時間がかかるか分からないからだ。しかし心配は杞憂に終わった。間もなく国有林のエリアに入り、巾のひろい歩道が待っていた。標高差550m、距離約5kmのなだらかで快適な、広葉樹林の中のプロムナードである。結局、入山してから2時間を経ずに、頂上に達することができた。
 頂上は三方向からの歩道がまじわり、広々としている。中央に二等点のすこし大きめの石柱が立ち(実際は二等と三等の標石は同じ大きさのはずであるが)、南側の桧林以外は広葉樹の林であった。20mほど西が開けており、県境の山や、三島辺りの四万十川沿いの国道が見えた。下山時には、牧野植物園に勤務する娘が、リース教室の企画で使うという、ツタやサルトリイバラの赤い実、マツボックリなどを採集しながら、ゆっくりと帰った。

 
「山とはなにか それは意識的にしろ無意識的にしろ、われわれすべてのものの心にはたらきかける、大きな無目標な憧れを象徴するものである。その憧れは、空の星をつかみたいのだが、実際にはほんの数歩しか近づけないという気持なのだ。だから、無限のかなたにある目標(人生の無明の意志はそれを手探りしているのだが)の代りに、つかもうと思えば実際につかめる人生の具体的なものを、象徴とするのである。」

オスカール・エーリヒ・マイエル 『行為と夢想』



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唐谷山     607.9m     三等三角点     田野々

十和村南東部の山。地形図に名前がみえる。カラタニヤマ。地形図

吹の峰より見た唐谷山



 はじめ、里川のほうから登ろうと試みたのだが、地形図に記された峠道を見つけることができずに断念した。次にアプローチしたのは茅吹手から入る林道であった。両側の植林は枝打ちも行き届き、よく手入れされていた。高知県の人工林率は65%と全国的に見ても群を抜いているのだが、このようによく手入れ された森林を見るのも気持ちの良いものである。
 林道の終わりから山道に足を踏み入れたが、登るにつれて周囲は広葉樹の尾根になり、色とりどりの落ち葉の絨毯の上を歩く。やがて北隣の吹峰から下るときに見えた(登るときには霧)パラポラアンテナの施設に到着した。その時には612m点にあると考えていたのだが、実際にはアンテナはそこから5分ほどの北の尾根上にあった。その612mの頂から、さらに30分ほどアップダウンを繰り返さなければならなかった頂上は、広葉樹や松の木に囲まれた、だだっ広い平凡なところだった。
 三角点からすこし北の方の尾根の東側が、伐採されたばかりで、四万十川や国道に並行するJRの鉄橋などが、下方に見え、吹の峰や重利山、そのほかの紅葉した山が重なり連なるさまは素晴らしかったが、昼食時、汗が冷えてきて肌寒いのだけが不満であった。

 
「一つの山を中国側からとネパール側から登ったわけである。しかしぼくにはどうもピンとこない。むしろ全く別の山を登ったという気がする。
 北側はアプローチが非常に長いが、トラックでBCまで入ることができる。そして六五〇〇メートルのABCまでヤクが荷を運び、登山者はそこで今までの運動靴を登山靴にはきかえる。しかし南側は、六五〇〇メートルのABCまでのあいだが最も危険で、セラックの崩壊や雪崩の起こりやすいアイスフォールを登らねばならない。また北側に比べ雪の量は南側がずっと多い。北側の今回は春で日が長く、気温もさほど厳しくなかったが、南側の時は秋で日が短く、気温の低下には殺人的なものがあった。見覚えのある頂上に着いて初めてなつかしく感じたが、しかしそれも今では何か錯覚だったような気がする。
 一つの山の北側と南側を登ったのだろうか。いや、二つの別の山、チョモランマとエベレストに登ったのだと思っている。」 

加藤保男『雪煙をめざして』 雪煙のチョモランマ

 
 今井通子という女性登山家がいる。彼女にクライミングをコーチしたのが加藤滝男といい、加藤保男(かとうやすお  19491982)の兄である。ヨーロッパ・アルプスで腕をみがいたあと、保男は1973年と1980年、モンスーンの後の10月と前の5月に、それぞれネパール側からと中国側からエヴェレストに登頂した。そして、198212月、エヴェレストの南東稜から冬季初登頂をはたして下山中に行方不明となる。今井通子は加藤滝男がいなくても別のコーチを見つけたであろうが、保男は、もし山をやる兄弟がいなかったとすれば、山の世界に入っただろうか、運命の分れ目である。



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崎山      568.5m      二等三角点     田野々

十和村の山である。サキヤマ。地形図



「崎山」二等三角点

 これも土地柄というものであろうか。国道381号線から大道林道に入って、数人の人に入山口などの情報を得ようとしたのだが、その誰も非常に親切であった。そのうちの一人は車で先導して、通りがかりの知人に聞いてくれたし、また他の人は車からわざわざ降りて頂上の方向を指し示してくれた。地形図を持 つ私たちにとって、それは先刻承知なのだが、そんな親身な対応は旅人の心を明るくし、慰めてくれるものである。
 森林組合の人たちが出入りしていたというその道は、最初のうちしっかりしたもので、これはわれわれにとっては一級品の道だ、などと話しながら登っていたのだが、標高400m辺りで植林のなかに消えた。それからは密な等高線の斜面を喘ぎながら登った。尾根道に出てからも、覆い被さるシダや、下刈りの小喬木、間伐材などが、まるで足かせのように感じられた。
 登ったのは5月下旬であったが、温度のわりに湿度が高く、ひどく汗をかいて、その年初めて山でバテてしまった。景色がよいと聞いていた頂上も、昭和の末頃に植えられた植林にさえぎられ、ちらちら程度しか見えなかった。下山してから、車道のそばで登山靴を脱いでいると、地元の中学校の野球部員が一人、「こんにちわっ」と言いながら通りすぎていった。

 
「私たちは地図の空白部へ歩みだそうとしている……わくわくしてきた」

ジョージ・リー・マロリー



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大又山     620m     三角点はない     田野々

十和村の山である。昭和の市街地の上方に見えるアンテナ群の山。オオマタヤマ。地形図

途中、「北山」四等点578.0mを通過する



 テレビ局、ケーブルシステム、防災無線、携帯電話、その上アマチュア無線のアンテナまで見えた。展望はここで少々得られるのみ。地形図に大又山と書かれているのは、そこから、「北山」四等点578.0mをへて、2kmほど北東に歩いた尾根上の頂で、そこは国有林の中である。
 国有林は稜線や頂上部には自然林が残されていることが多い。というより現在では意図的にそのようにされていることが多い。ここも例外ではなく、頂上周辺はほとんど広葉樹(松の木がところどころにある)の林である。そこはフレッシュグリーンの季節は過ぎようとしているが、ダークグリーンというほどにはまだ成熟していない緑で覆われていた。
 文明がますます進んで、行き詰まった人類を救うことのできる色はと考えれば、それはたぶん緑色だろう。
 訪れたのは6月中旬であったが、梅雨のさなかにしては季節外れと言えるほど涼しく、思いのほか快適な山行、尾根歩きとなった。その時その時、一喜一憂しながら毎回山を歩いている。
 下山後、林道上にある「四手峠」に寄った。四万十川の大きな蛇行で遠回りになる道を、ショートカットする目的でむかし利用されていた峠道である。お堂とミニ八十八ヶ所などもある。「土佐の峠風土記」では展望がよいと書かれていたが、お堂周辺は深い緑に包まれて、どこから眺めてよいものか分からないうちに帰途に着いた。

 
「人間がみずからの手で道を切り拓かなければならないような、荒々しくも神秘に充ち満ちた大自然以外に、より美しいものがあるだろうか。より圧倒的なものがあるだろうか。一歩進むごとに問題にぶつかり、一歩進むごとになにかがなしとげられる。」

ワルテル・ボナッティ『大いなる山の日々』 寒極



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大中尾山     620.6m    三等三角点     田野々

十和村の山である。オオナカオヤマ。地形図



三角点の前で記念撮影をする

 同山の三角点上を通る線を境として国有林と民有林とに分かれている。その境界付近に登路はないものか探していると、林道のすこし国有林寄りに、歩道入り口があり、そこから登ることにした。しかしそれは、歩道とは名ばかりの伐採跡の荒廃地だった。足場の悪い転げ落ちそうな急斜面の上に伐採時の残滓が山のように乗り、その間にイバラ等が育ち始めている。さらに登ると尾根上には広葉樹の回廊が残されていた。主尾根に出てからも、民間の森は植林だが、官のほうは大きな松が混じる自然林。
 頂上の三角点周辺は伐採跡がもの凄いヤブに変貌していた。もし踏み跡がまったくなければそれを探し出すことはできなかっただろう。そのすぐそばに鹿か猪でも寝ていたのか下草がお椀状に押しつぶされていたし、三角点の横ではウサギか何かの糞があった。そこ以外でも動物たちの足跡、地面を掘り返した跡や糞、植林の根方がかじられたあとなどの痕跡が多く残されていた。
 秋。登っていると汗ばむが、やはり寒気が肌に感じられる季節になった。展望のきくところに出てゆっくり昼食を取りながら周囲の山を眺めたが、紅葉はこの辺りの山ではまだ先のようであった。

 
「死のしずけさは晴れて葉のない木」              

種田山頭火



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白石      724.6m      一等三角点       大用

中村市の山である。シロイシ。地元では白石、あるいは白石山と呼ばれているようである。頂上の三角点の標柱には鴨川山と書かれていた。地形図



その一等点はなぜか四隅が欠けていた

 高知県に20近くある一等三角点の山は、そのどれもが展望に恵まれていたり、大きな施設に利用されていたりと、ほとんどはそれなりに優雅である。しかしこの鴨川山、白石はそのどれにも当てはまらない。頂上に到る手近な道はなく、また何かの大木の森が広がるわけでもなく、山頂から素晴らしい展望が得られるわけでもない。おそらく県下で最も不遇をかこっている一等三角点の山ではあるまいか。しかし、それだけに静謐は保たれている。
 地図とコンパスを駆使し、小喬木を押し開いてようやく登りきった頂上には、数本の桧のほかには目立った喬木も見当たらず、空はひらけているが展望はまったくない。なぜか大きな一等三角点の頭部の四隅が欠けていた。
 この山で私たちは高知県の一等三角点の山をすべて登りおえた。

 
「彼ら農夫たちは、一生涯、その目の前の山を眺めているだけで登ろうとしない。月山や羽黒山に登っても、千メートルの山へは登らない。それは彼らにとって全く用がないからで、登ってみようとすること自体、意味を持たないのである。彼らにしてみても、高いところから、普段見なれているあの山の頂から、自分たちの集落を眺めてみたいと思うことはあるだろう。けれども、そうは思っても、一日の遠足をあえて試みるまでには発展しない。」         

串田孫一『若き日の山』 荒小屋記

 
 いまはそんなことはない。都会の働き虫よりよほど進歩している人もおおい。



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不動山     780.5m     三等三角点      大用

中村市と大正町の境界にある山である。フドウヤマ、フドウサン。地形図

頂上には想像していた祠もなかった



 地形図を見てもらえば分かるが、三角点は数メートル中村市側に寄っており、また十和村も150mほどの距離である。厳密にいえば中村市の山だが、実質的には三市町村の交点にあると言ってもいいだろう。
 なんとなく興味をそそられる名前である。不動明王でも山頂に居座っていそう。誰もそう思うのか、頂上には春野町の人の記念プレートが立ち木の幹に残されていた。また、もう一枚は、なぜか頂上の手前の小高いところにあった。
 三角点は植林と広葉樹林にはさまれた平坦なところにあるが、どちらも疎林なので閉塞感はない。東側の植林の間から大規模林道がチラチラ見える程度で、展望はほとんど得られない。期待していたお不動さんの祠もなかった。行動中も、植林かそれほど大きくない広葉樹の林ばかりで、周囲の眺望や空さえもひらけず、ナビゲーションもままならない。

 
「旅ほど多くのことを学べるものはない。とくに徒歩旅行はそうだ。今一度僕はこのことを経験してきたところだ。
 旅先の宿で、僕は行き当りばったりに多くの人と付合い、それこそいろんな話を聞いたものだ。素朴な話や、見栄を張ったもの、子供っぽい無邪気なものや、はなはだしく高慢ちきなもの、これらはちっぽけで醜い人間の本性について多くの興味深い事柄を教えてくれた。
 人の話や、僕に見せびらかされるものの根底には、何よりも虚栄があることを僕は発見した。」              

ジョン・コスト 『アルピニストの心』



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堂ヶ森      857.4m     二等三角点      大用

中村市と十和村、そして西土佐村の交点に位置する山で、中村市の最高峰である。ドウガモリ。地形図

椿山より見る堂ヶ森



 堂ヶ森とは、お堂のある山ということだが、その名の通り古くからの由緒ある祠がある。それもかなり大きい。今でも毎年55日にお祭りが行われているというから肯ける。その傍らに樹齢500年というヤブ椿の大木があり、地元の人によって由来などが説明されていた。周りは、樹齢100年以上はありそうな杉 の大木を含む雑木林になっている。
 私たちが登ったのは7月初旬のひどく暑い日だった。ほとんどの山行には家の犬が一緒なのだが、この犬が、仏さんに対してオシッコを掛けるとか何か非礼なことでもしたのか、帰った後、高熱を発して倒れ伏してしまった。医者に連れて行っても、もうダメだと言われたが、妻がけんめいに看病して何とか持ちなおしたものだった。そういえば、下山の時、蚊の大群に追われたのだが、あれが仏さんの追手だったのか。
 頂上からの展望はほとんど開けない。それより林道からの眺めの方が何倍もすばらしかった。

 
「登山界では、最近、「ヒマラヤ、鉄の時代」といわれ、すでに登られた巨峰を、より困難なルートから登ることが脚光をあびるようになってきている。だがAACKは、それでもなお、いちずに初登頂主義をかかげている。未踏峰は少なくなり、八〇〇〇メートル峰の初登頂は、すべて終わったといわれているとき、ヤルン・カンをえらびだしてきた。これは登山史的にみれば、消えゆく運命にある巨峰の初登頂歴史に、最後の残照をあてようとしているといえるだろう。」     

上田豊『残照のヤルン・カン』 丸木橋は一気に渡れ

 
 ヤルン・カンはカンチェン・ジュンガ西峰の別名である。このように世界に14座あるとされている8000m峰もこまかく分けるとさらに多くの数になる。カンチェン・ジュンガだけとってみても、西峰のほかに本峰、中央峰、南峰と、すべて8000mをこえている。そして、1973年時点において、すべての8000m超峰のなかで未登頂であったのはこのヤルン・カンのみであった。また、ヒマラヤの登頂史においては、超高峰の初登頂の時代はおわり、人類はヒマラヤにおいても新しい課程に入ろうとしていた。メスナーが無酸素、しかも単独で、ナンガ・パルバートに登ったのは1978年のことで、その意味で500名の大人数で高峰に挑んだAACKのヤルン・カン登頂は、すでにある時代の終焉を飾るものでしかなかった。二つの意味で、題名に「残照」とあるのはまさに当を得ているといえる。
 この世界で五指にはいる高峰、しかも日本人に初登頂されたなかではもっとも標高の高い山に、おおいなるロマンチシズムをもって挑戦したAACK15人の面々ではあったが、新ルートからの登頂は容易なものではなかった。7500mあたりから上のいわゆる「死の地帯」に難所が待ちかまえていて、ようやく2名のアタック隊を頂上に送りこんだものの、彼らは帰途に道を失い、一名は行方不明、のこりの一名も救援隊が助けださなければ、十中八九、生還はおぼつかない状態での成功であった。山に登るとは、自力で帰還してこそはじめて成り立つものと、通常は考えられ、これを初登頂といえるのかどうかは意見が分かれるところであろう。ともあれ、彼らによって頂上が踏まれたこともまた事実である。こうして8000m峰はすべてその頂を人類にゆるした。
 ちなみに、初登頂者のひとりであり、作者である上田豊(あげたゆたか 1943‐)は高知市の生れである。

 
「ヤルン・カンの初登頂という事実は、永久に消えない。だが、人間の命は、とりかえしのつかない、なにものにもかえられないものだ。ひしひしと感じるこの重いものこそ、人命のとうとさであろう。
 わたしたちの心のなかにわきでてくるいいようのないエネルギーは、なにものかとのたたかいにぶつけられ、精神は高揚し、成功をかちとれば充足する。そのなにものかとは、わたしの場合、ヤルン・カンであった。たたかいの相手は、敵ではなく、わたしが畏敬し、こよなく愛する山であった。そのきびしい行動のなかに自由なよろこびを感じることができたのは、それが、みずから欲した行為であったからにほかならない。そのよろこびがあるかぎり、たとえたたかいがどんな結果におわろうとも、山に対する気持はかわらない。かわりようがない。」          

上田豊『残照のヤルン・カン』 傷心の帰路



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百塔      607.5m      三等三角点      大用

中村市と大方町境の山である。ヒャクトウ、ビャクトウ、ジャガトウ。地形図



いい景色だなあ!

 同じ市町境の南西側すぐに黒塔(くろんとう)がある。隣り合っているので、対になっていると考えるのが普通で、黒に対するのは百ではなくて、やはり白だと思うのである。昔はおそらく白塔であったに違いない。白塔が転訛したのか、あるいは白より一つ多い百の方が良いと考えて、誰かが百塔に変えてしまったのかもしれない。
 今は誰も住んでいない中村市の白皇から登る。白皇は県道336号、大用大方線上にあり、高新の「高知県万能地図」などでは大方町から白皇まで車道がすでにあるようになっているが、実際には山道しかない。いや、その山道すら途中で何回も途切れ、よほどこの辺りに通じている人以外は短時間では市町境の尾 根まですら到達し得ないほどである。私たちもそこまでに1時間30分ほど要してしまった。だが、その主稜線に出て思わず声を上げた。すばらしい尾根道が現れたのである。防火帯を兼ねているのであろう、巾も5m以上はある。起伏もすくなく、山というより森の中を歩く感じになった。
 頂上も同様、広く明るい。北の方のみ展望がきき、隣の山が見えていた。多分そこにも三角点があるのであろう。

 
「登りたくない山としては迷沢岳(北海道)や迷岳(三重)、奇妙山(長野)や化穴山(山形)などがある。逆に山名だけで行ってみたくなるのは、花香月山(栃木・茨城)、愛染山(岩手)である。見ただけで嫌になる金糞山(滋賀・岐阜)はタタラ製鉄に由来する山名だそうで、山はいいらしい。」    

石井光造『山を楽しむ山名辞典』



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     579.6m      三等三角点      大用

中村市の山である。点名は「角塔山」。ホウガモリ。
 波の多き郡の盟主であり、四万十川の河口を擁する同市はまた、25以上の山名を国土地理院の地形図上に見せる山国でもある。その一つ一つの山も、標高は低いものの、登ることのやっかいな山が多い。この方森もそんな一山である。地形図

緑の美しい急な尾根を登る



 西側の川奥地区で二人の男性に情報を得ようとするが、どちらも異口同音、こちらから登るのは無理で遠回りだが山向こうの大規模林道からの方が、まだ道があると言う。今回も結局、家で地形図上にトレースしてあったエンピツ線通りの(川奥からの)ルートを登ることにした。新緑の急な尾根をたどる。ところどころツツジが咲いていた。直線距離700m、標高差330mの道程を2時間近くかけて登った。頂上周辺は30年生以上のおもに桧の植林である。樹陰に育つ小喬木の葉に木漏れ日があたり、光り輝く緑が美しかった。
 同日の高知新聞の朝刊に「ベッドで森林散歩」という記事が載った。ガンの患者さんにバーチャルリアリティを使って、森林の中のウォーキングを心理的に経験させ、その苦痛を和らげるというものだった。話は飛ぶが、人がこの世を去るとき、よく花園で表現されるが、心地よい林間の光景のほうが私にはふさわしいように思われる。その風景の中に花々が咲き乱れることは問題ない。ま、とにかく人それぞれに天国のイメージは違っているものであろう。

 
 私自身又聞きで出典はあきらかでないが、のちに弘法大師とよばれる僧空海は、「森は美しくすばらしい、それは天国よりもすばらしいところであろう」と言っている。たぶんそれは事実であろう。だからこそ彼は四国の山深い森の中で修行のすえ悟りをひらき、その後、高野山という深い山中に聖域をつくったのである。



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      570.2m     三等三角点      大用

中村市の山である。点名は「刈留」。マツガトウ。地形図

スズメバチに刺されてしまった!



 ある年の9月、私たちはこの山にいちど登りに出かけた。奥古尾からの作業道に入り、崩壊地の手前に車をとめ、準備の間、つれてきていた犬を近くの小さな杉の木につないでいた。これが悲劇のはじまりだった。見ると彼のまわりを何かが飛びまわっている。スズメバチであった。その杉の根元に巣があったのだ。犬が巨大戦艦でハチはそれに群がる戦闘機となった。次々に飛び立って急降下爆撃してくる機を最初のうちは果敢に口でくわえて撃墜していたのだが、衆寡敵せず。多勢に無勢。あとで調べると30ヶ所以上を刺されて、間もなく犬は撃沈され、横たわって動かなくなってしまった。
 私たちはどうすることもできず、数メートルはなれたところでその様子をただじっと見守るだけであった。もちろんその後は登山どころではなく、大急ぎで彼を中村市街の動物病院まで運んだものであった。動物は強いもので、1週間ほどで元に戻って、今も私たちと一緒に山を歩いているから驚きである。人間だったらひとたまりもなかっただろう。
 そんなこともあり、翌年、再び訪れたのは4月末のゴールデンウイークのはじまる頃だった。どこへ行ったのか蜂たちは杉の根方には見えなかった。頂上へは林道をすこし、急な尾根をまたすこし歩いて30分ほどで、たわいもなく到着した。圧迫感のない30年生ほどの、桧の植林の中に三角点はあった。その日は曇天で肌寒ささえ感じるほどだった。

 
 ウォルター・ウェストンも山中で蜂に襲われている。

「嘉門次は地蜂の巣を踏んだのだった。──だから、あんなに飛び跳ねていたのである。私が彼に近づいた時、蜂は怒ってぶんぶん飛び回っていたので、まもなく私も、思わず知らず、不恰好なホーンパイプ踊りを始めた。嘉門次の着物は、きっちりと身に合った大麻製の丈夫なものだったので、彼の身体はほとんど刺されなかったが、私の薄いフランネルの半ズボンには大きな裂け目がある上に、私の首や腕は露出していたので、蜂には全くいいチャンスを与えた。選ばれた的になった私は、二三分の後には、一ダースも刺されていた。」      

ウェストン「日本アルプス登山と探検」第九章 穂高山からの帰途

 
 嘉門次は、ウェストンが日本を最後に去って三年後、1917年の秋に死んだ。ウェストンは、はるか極東の地の山野をしのびながら、1940年、79歳でロンドンで亡くなっている。



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古尾峰      370.9m      三等三角点     大用

中村市の山である。点名は「古尾」。コビミネ。地形図



谷川の水で顔を洗う

 まわりには上古尾を初め、下古尾、古尾崎、大古尾などの地名が見える。東側を流れている川は古尾川である。
 標高が低いこともあり、最初、この山は夏の間にと考えていた。しかし、この日向かった前森が林道工事中だったため、古尾峰に登ることにしたのだ。その思わぬ予定変更は幸いだったかもしれない。
「この山には道がある」と下竹屋敷のおじいさんは言ったのだが、その道は中腹のタケノコ採りの竹林までで、その先は低い山にありがちな、イバラ、小喬木、シダの藪に悩まされた。とくに背の高いシダは予想をうわまわる障壁になった。盛夏のシダのヤブ漕ぎはあまり楽しいものではないのだ。
 主尾根に出てからも、シダは部分的にのこり、そのため三角点を見落としてしまい、しばらく尾根上をさまようことになった。数十分歩いて、やはり三角点ははじめに尾根に出た辺りにあることを確信して引きかえして探すと、低いシダの陰でこんどは簡単に見つかった。
 周辺は広葉樹林。そこからの展望はなかったが、すぐ近くの尾根上から、一等三角点の鴨川山(白石)が、春の若葉や新芽のかろやかな衣装をまとっているのが見えた。

 
「まっ青な空がかなしくなるような、きれいな朝である。」

山口耀久『八ヶ岳挽歌』 続・北八日記



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      611.0m     二等三角点      大用

中村市の山である。マエガモリ。点名は「舞ヶ森」。18世紀初頭の地誌「土佐州郡志」には蕨岡村に「舞森」と記されている。地形図

大用より前が森をのぞむ




 自然の雄大な造形物である山は、見る角度によってさまざまな表情を見せる。畳々と山の重なる地域では、見る角度によっては、まったくそれを同定することすら難しいことも多いが、逆にすばらしいその姿により麓の人から神仏のように崇められている山もある。
 2ヶ月前には工事中だった林道は、もう作業する人の姿もなく、小さな四駆車はどうにか登山点まで私たちを運んでくれた。そこから頂上までそれほど時間はかからない。三角点のまわりだけ自然林が残り、空がすこし開けて明るかった。そばには祠の跡だろうか、ひくい石積みが残っている。そこからは何も見えなかったが、すぐ北にあるNTT森無線中継所からは不動山や方森などの北方の山々、右下方には大用の集落のほぼ全体を見おろすことができた。
 71日、下界では今年最高の36.5度を記録したというが、そこは嘘のように涼しくて、昼寝でもしたいほどだった。帰路、大用の方にまわり、トンネルの手前で車から降りてふりかえって前森を見た。そこには驚くほどに様子のいい同山の姿があった。前森はやはり大用の山ではないのだろうかと思われた。

 
      今日ひょいと山が恋しくて

山に来ぬ

去年腰掛けし石をさがすかな

ふるさとの山に向ひて

言うことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 
 石川啄木の有名な詩である。ここに見える山は、岩手山であるとか、いや姫神山であったとか、いろいろ憶測されているが、あんがい、幼いころに彼が遊んだ、生家のうらの名もはっきりしない山だったのかもしれない。「ふるさとの山」は、どうしても「岩木山」や、「岩手山」など、東北地方の、平野のどこからでもみえる独立峰をイメージさせてしまう。



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片魚山      594.6m     三等三角点      大用

中村市と大正町の境界にある山。カタウオヤマ。地形図

前が森から片魚山を望む



 国道439号線を中村市から大正町に向けて走るとき、杓子峠の手前で、くねくねと曲がる山道にさしかかった頃に、左手に見えているアンテナのが片魚山である。地形図に山名はなく、三角点名は「蛇ヶ塔」、その所在は「大字片魚字ジャノアナ」という何ともおどろおどろしいものである。そこで、NTTなどの片魚無線中継所などのあるところから片魚山とした。それにしても蛇ヶ塔、ジャノアナとはすごい名前を付けたものである。ロマンチックとはほど遠い、生活者の命名である。
 三角点は荒れた植林の間にある。そばに四電の金属製の大きな電柱が2本立っていた。そこからは何も見えない。2ヶ所にある電波塔から西や南東に展望がすこし開けているに過ぎない。近くにある杓子峠は、吹峰などと共に大正町かどこかの、山岳信仰でいう重要な鎮めの山ではなかったか。なにかそんなことをその種の本で読んだ気がする。

 
「人は登攀に向けてひとたび足を踏み出すと、その試みを成功させたいという、とてつもない原動力を自分に持つものだ。」  

クリス・ボニントン『現代の冒険』 エヴェレスト



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黒塔       397.8m     三等三角点       蕨岡

大方町と中村市の境にある山である。地形図に「くろんとう」とルビがふられている。点名は「松ヶ谷」。地形図

黒塔の黒い頂がのぞいている



 半年ほど前に、この山に登るために出かけたのだが、道路工事のために断念し別の山にむかったことがあった。そんなことや印象的な名前のこともあり、今回こそはと期待をこめて登りはじめた。
 登山道は快適である。二反地から国道439号線側の入川谷に抜ける峠道が今もよく手入れされていた。ところどころ石畳などの残る、その道には小さいながら華やかな春の花が盛りと咲いていて、自然と心が浮き立った。途中、屋根や壁面を、孟宗竹を二つ割りにしたものでふいた一軒屋があった。今は生活をされていないようであるが、まわりは広々としていて荒れていることもなく、そこでも桜やツバキ、あやめなどが若葉の淡いグリーンをバックに咲いており、 陶淵明の書いた武陵桃源の里とはこんなところではなかったかとふと思ったものである。
 三角点は残念ながら、うっそうとした植林の尾根の、何でもない頂にぽつりとあった。そして、その頂もすぐ東側のほうが僅かだが標高が高いという具合で、そこのところはすこし期待外れであった。

 
「しかも山々は輝いていた。つかのまに流れゆく日々を超えて輝きつづけた。山々はどの故郷にも属さなかった。そして静かに永遠に輝きつづけた。魂の永久の隠れ家であり、万象をまつる最後の祭壇だった。」   

オスカール・エーリヒ・マイエル 『行為と夢想』



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高畑       243.5m     三等三角点      蕨岡

大方町と中村市境にある山である。この山の三角点名は「石山」である。タカハタ。地形図

十畳岩の上で憩う



 山は標高が高いというだけで、重んじられることが多いが、低い山でも十分に楽しむことができるということを、納得させられるような山行であった。
 大方町側の植林が更新されて、まだ日が浅く、市町境の尾根に出た瞬間に目前に頂上部が現れ、斜面のところどころに点名どおりの角の取れた丸くて大きい岩塊が見えた。
 三角点は草むらの中だが、そこからでも大正町側の山々を眺望することができた。しかし圧巻はその20mほど西の、わたしたちが十畳岩と名付けた大岩(石)からである。その上は平坦な台地になっていて、かなりな人数がゆっくり休息することのできるスペースになっていた。その上で、家族で昼食を取ったのだが、目前には石見寺山を中心として、周辺の山々がパノラミックに広がり、中村市の安並あたりや、すぐ下の集落なども望まれた。
 まったく、時の流れが急にスローダウンしたのではないかと思われるほど、私たちはその小さな山の岩(石)の上でゆっくりくつろぐことができたのである。

 
「新しい(山)道具は人間と同じで、みかけただけではわからない。艱難辛苦をともにしてみて、つき合えるかつき合えないかわかってくるものだ。」

『続 辻まことの世界』 岳人の言葉 



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浦田峰     145.2m      三等三角点      蕨岡

中村市の山である。点名は「辺田谷」。ウラタミネ。地形図



落ち葉の下からようやく見つけだした三角点

 東側に浦田という部落があり、その上の山という意味であろう。頂上のすぐ横を送電線が通っており、その鉄塔の管理道を使って登った。三角点周辺はかなり大きな広場である。植林された桧のほか、竹や照葉樹なども生えている。
 三角点のプラスチックの標柱はすぐに見つかったのだが、肝心の本体が見当たらなかった。杖で落ち葉を掻き分けて、やっと探し出した三角点は地面から欠けた頭部を少しだけ出していた。
 近くに大きな栗の木が数本あり、それが落とした葉で埋もれていたのである。もし白い標柱が立っていなければ、見つけることは不可能だっただろう。頂上からの展望はない。東側の鉄塔管理道から、後川や正面の山などが見えた。

 
「アイガー北壁の登山口はどう行くのですか」

ハインリッヒ・ハラー 『新編 白い蜘蛛』



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     279.0m      三等三角点      蕨岡

中村市の山である。モリガミネ。地形図

”森”に登る



 高知県の総面積の85%近くを森林が占めるという。そして、植物や動物たちのテリトリーであり、人間にも深い影響を精神面、物質面ともに与える森林。
「森に足を踏み入れると、混沌とした思考や、澱のような疲労が、霞でも晴れるように薄れていく。浄化されていくのが分かる。森には、そうした特別な浄 化作用が働いている。それは樹木や草花、苔といった森を形成する植物が、混然一体となって発散し、漂わせる神秘に満ちた〝気〟だ。」と房総の山中にすむ自然主義作家、遠藤ケイが言っているが、その森の名をもろに山名の頭に冠する「森が峰」である。
 その名前どおり頂上の三角点周辺は桧、杉などの針葉樹や広葉樹入り混じる、うっそうとした森の中である。もしその上に落ち葉や枯れ枝などが積もれば、絶対に見つからないだろうと思われるところに、ぽつんと三角点はあった。周りより少し高いかなという程度で、全体に高低差はすくなく広々している。
 展望は頂上、その途中を含めてまったく得られない。山名どおりすべて森の中である。危なげな谷から入山。急坂を注意しながら登る。三角点のそばに生育する、地表から2mほどのところから3本に幹分かれした杉の大木が印象に残った。

 
「僕等は、結局晴天にだけ登っていては、山の深さを知る事が出来ない。」

加藤泰三『霧の山稜』



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小川境     393.3m      三等三角点      蕨岡

中村市の山である。点名は「田野川」。コガワサカイ、オガワサカイ、オガワキョウ。地形図

中村市街まで見えた



 山頂のすぐ南側まで林道が来ている。そこから登れば数十分であるが、それだけの山で終わるだろう。あえて北側の小川(こがわ)地区から登ることにした。地形図上で小川と記されている集落まではしっかりした歩道があった。(地形図ではここまで実線で描かれているが、車では入れない)そこから道は急にあやふやになり、やがて森林の中に消え、急坂やイバラ、小喬木の枝に行く手を阻まれるようになった。
 3時間後、ようやく着いた頂上も同じように、手入れの行き届かない植林と喬木林に挟まれたヤブ気味のところで、写真を撮るために少々刈り広げなければならなかった。しかし南東側に数メートル進んだところからは、植林の更新が行われたばかりで、中村市街や石見寺山、高畑などの山々の雄大な展望が広がっていた。それが苦労して登ってきた私たちへの、この山からのすくなからざる報奨だった。

 
「白昼夢だ。山は私にとって最も静かなる魂の道場である。伽藍である。言葉なき哲学であり、言葉なき詩である。私はいまペンをとりつゝ剣に過された青春の断片を限りなく懐かしく思ふ。」 

『いしづち ―松高登山史―』剣山頂雑感 昭和2122



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     314.3m     三等三角点       蕨岡

中村市の四万十川ぞいの山である。点名は「井出ヶ森」。ツガモリ。地形図

人も犬も暑さでバテバテ



 北東側の、板の川集落の人は津森の名をしらず、「もみじ山」とよんでいた。また「入道森」とよぶ地区もあるようである。
 それにしても津森とは港の山という意味であるが、なぜこんな海からはなれたところに港の文字をもつ山があるのだろう。この山の東側に浦田峰という山がある。また南東側には東灘、すこし下って灘という地名がある。すべて海に関する名である。考えてみるに、宿毛湾がむかし、ずっと奥まではいっていたように、四万十川河口付近も、1000年もさかのぼらずとも、入り江のように海がはいりこんでいたのだ。海にばかりこだわっていたが、その前に、四万十川には、おもに江川崎より下流で使われた大舟のセンバや、より小型で回頭性能にもすぐれた高瀬舟、そしてさらに上流でつかわれた小型のセンビなどを利用した中近世からの河川交通があった。また橋がない時代には渡し舟も必要である。なんらかの目的をもったそんな船着場がこの山の南側にあったのではないか。それやこれや思いをめぐらしながら山を歩くのもまた楽しいものである。
 もみじ谷川砂防ダムに沿う道から入山。沢のそばにはヤブミョウガやオウハンゲが花をさかせていた。途中から斜面をのぼって右側の尾根に出て頂上までたどった。そこには桧の植林と、南西側だけ照葉樹林が残されていた。広々として圧迫感はない。しかし景色は見えそうで見えなかった。ここでも三角点が等級の確認もできないほど欠損していた。

 
「ぼくはしばらくヨーロッパに戻ると、ほとんどぶっ続けに仕事をした。インタビューに応じ、このエヴェレストの本を書いた。だが、そういうことをしているときも、すでにぼくの心はいつも遠い彼方にあった。パキスタンのどこか、やがて何週間にもわたって自分が過ごすことになる静かな谷のどこかに。ぼくの心はまた死の地帯へもさすらっていった。ぼくはエヴェレストで死の地帯を徹底的に味わったし、もうここから降りていって、山登りなんかはやめてしまいたいという思いに、しばしばかられた。と同時に、ぼくはまた山に戻り、この限界状況に改めて身を置いてみたいという思いにもかられたのである。」

ラインホルト・メスナー『エヴェレスト 極点への遠征』 魂は虹の彼方に

 
《死の地帯》という高高度からくる障害がなければ、エヴェレストにしても1953年まで待たずとも、とうの昔に初登頂されていたことはまちがいない。南東稜という現在では一般ルートとなっているウェスタン・クーム氷河をへてローチェ・フェイス、サウス・コルに出て頂上にいたるルートにしても、氷河の曲がり角にあるアイス・フォール(氷崖、乱氷帯)の手前にベース・キャンプを置いた場合、頂上までの標高差はおよそ3500mほどしかない。さらにもっとも困難な場所であるアイス・フォールは高度の影響を受けにくい低い地帯にあり、ローチェ・フェイスから上方の危険地帯には古い残置ロープが各所にあるといわれている。もし、確実に高度順応できる自信があり、ガイドとシェルパに相当の出費を覚悟するなら、いまや世界最高峰ですら、これを読んでいる貴方にも大いにチャンスがあると思われるがどうだろう。私自身ならば、もし費用と時間が与えられるならば、たとえ6000m級になろうとも初登頂をしてみたいとは思う。



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佐田山      313.1m     二等三角点      蕨岡

中村市の山。佐田の沈下橋は四万十川本流のみで21ヶ所に掛かる沈下橋のうち、最下流、河口近くの橋で、長さも300m近くあり、これも一番である。佐田山はその橋の少し西よりの南側に位置する。対岸に津森が見える。サダヤマ。地形図

四万十川の佐田沈下橋の上に見える佐田山



 振り返ると沈下橋の見える、伐採跡の作業道から入山し、北東稜をたどった。まもなくシダが出はじめる。その薄い部分を選って歩くが、どうにもならない深いヤブに時折迷いこみ動きが取れなくなる。さらに上では、小喬木のブッシュを開きながら登った。途中若い植林の頭越しに四万十川の河原とその向こうに家並が見える。頂上近くになるとすっかり植林の中になり、ヤブも薄くなって歩きやすくなった。
 ヒノキの林の中で二等三角点を見つけた。遠慮会釈なく植林されて、標石の20cmのところにも30年から40年生ほどのヒノキが育っていた。その他の木も、この、山の文化のシンボルに対して何の考慮をすることもなく整然と並んでいる。下ばえの小さな木々が視界をさえぎる中で、そんな状態の三角点をよく見 つけられたものである。石柱の頭部は二ヶ所ほど小さく欠けていた。
 昼食時、ザックに付けた温度計は0℃を示していた。北西からの強い風が吹き上げ、ヒノキたちの梢が大きく波打っている。それはあたかも、ダイバーが水中から見上げた、荒れる海の表面のようで、妻が、「見ていると酔いそうなね。」と言ったが、本当にそんな感じで森は大騒ぎをしていた。

 
「絶巓はすぐ其處だ。氣に伴はない脚のもどかしさ。」 

木暮理太郎『山の憶ひ出』



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飯積山    217.5m      三等三角点    土佐中村

大方町の山である。点名は「飯積寺」。イヅミヤマ、またはイイヅミヤマ。地形図

入野の海岸のむこうに姿を見せる飯積山



 海の方からこの山を見ると、茶椀にもられた飯のように、ほんわりと丸く見えるという。海岸近くを走りながら見ても、本当に柔和なもりあがりを見せて、ああ、この山だな、ということがすぐに確認できた。私の持っている国土地理院の地形図には、描かれていなかったが、頂上まで車道が通じていて、その道路を縫うように旧参道の歩道が見える。
 頂上には僧、行基が開き、空海も修業したという十一面観世音菩薩を本尊とする、宝来山南覚院飯積寺(通称田の浦観音)のお堂が建っており、廻りには「船石さん」などもあり、いかにも海の人の信仰を集める寺といったような雰囲気である。その他、「聖天さん」とか「雷電権現」、「ふるはたさん」など大小の祠が数多く見られた。
 三角点は観音さん奥の、背の高い照葉樹の中にある。展望は八合目辺りで開けている。田の浦漁港を正面に、そしてその左右に広がる海岸線の風景は非常に美しい。標高はわずか217mであるが、それ以上のスケールの大きさを感じた。登ったのは、12月の、土佐で俗にいう〝しぶった〟の日の午後のことであった。

 
「シシャ・パンマの偵察は前年(一九六三年)の秋から行なわれた。第一次調査隊は山麓をめぐって地元の牧畜民や狩猟民から訊き尋ね、おおよその山の観察をした。続く第二次調査隊は六五五〇メートルの地点まで登り、そこから登頂ルートを発見した。そのルートを最終的に確認したのが第三次調査隊で、冬の悪天候が始まったにも拘わらず七一六〇メートルまで達した。
 その偵察によって確信を得た本隊が、シシャ・パンマの麓に着いたのは翌一九六四年の三月であった。この前のエヴェレスト登山と同じく非常な大規模で、隊員百九十五名(もちろんポーターをも隊員と見なしたであろう)、ベース・キャンプはさながら「登山都市」の観を呈し、そこには空高くアンテナが立ち、その下の通信連絡所では北京と密接に通信を交わす設備があった。
 テント群の中で一番大きいのは、二百人余り入れる「登山ホール」と呼ばれたもので、そこで集会をしたり映画を見たりした。白色のテントは倉庫で、食糧や装備がそこに並べられ、心電図機械を備えた「高山病院」までできた。」

深田久弥『ヒマラヤ登攀史 第二版』 ゴサインタン

 
 ゴサインタン(サンスクリットでゴサインは「聖者」、タンは「場所」、すなわち「聖者のおられる場所」。またチベット語ではシシャ・パンマと呼ばれ、これは「草しげき平原の上にそびえる連峰」を意味する。インド測量局ナンバーはピークⅩⅩⅢ)は14座の最後に登られた8000m峰である。
 エヴェレストの北西およそ120kmに位置し、比較的登りやすいネパール・ヒマラヤにありながら、西洋諸国によって登頂されなかったのは、中国が自国で登るために許可を与えなかったことにもよるようである(マックス・アイゼリンの「ダウラギリ登頂」にもそのようなことを書かれたところが出てくる)。まわりの地形を探り、登山ルートを検討する自由圏の国々の人々も、日本隊をふくめ、あるにはあったが、それがチベット領内にあるということだけで、彼らは空しく指をくわえていなければならなかった。
 かくしてとうとう、19645月、ソ連の指導で力をつけた中国登山界は一挙にこの最後の巨峰を落としてしまう。ヨーロッパや日本の遠征隊がようやくの思いで費用を捻出し、できるだけ少ない登山家とシェルパ、そして道具立てですまそうと努力していたのにくらべ、共産圏の中国は、どうだ、と言わんばかりの派手さで8000m峰征服の栄光を、文字どおり力まかせにもぎとってしまったのである。

 
「それから大きなアイス・フォールを越えると、約四十五度の斜面へ出た。副隊長張俊岩が先に立ってその斜面を喘ぎながら登った。その左上方は頂稜に続いていた。彼らはその頂稜に達した。頂上まであと十メートルくらいだが、体力の消耗がひどかったので、そこで一休息した。
 頂上へ達したのは北京時間で十時二十分。五平方メートルほどの平らな三角形の地面であった。隊長は「中国登山隊許競ら十名、シシャ・パンマを征服す、一九六四年五月二日」と紙に書いて、それを頂上の雪の中に埋めた。ソーナン・ドージはリュックから五星紅旗と毛沢東主席の彫像を取り出し、ミーマ・リーシがピッケルで掘った穴の中にそれを安置した。こういう点はいかにもお国柄で、山登りはもう個人の楽しみではなくなって、国威発揚的な一種の国家事業のおもむきがある。一行は記念撮影をして、頂上にとどまること四十分、十一時にまた組にわかれて下山の途についた。
 登山隊全員が北京に凱旋した時、党と国家の指導者および首都人民は、一行を熱烈に歓迎してその労をねぎらい、彼らに記念カップを与えた。ともあれ八千メートルの一峰を中国隊が獲得したのである。同じ東洋人として私たちも喝采をおくりたい。」

深田久弥『ヒマラヤ登攀史 第二版』 ゴサインタン



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香山寺山    222.0m    三等三角点    土佐中村

中村市の山である。コウザンジヤマ、コウザンジザン。地形図

三重塔展望台にて



「香山寺市民の森」という公園になっており、頂上には香山寺のほか、フィールドアスレチックや休憩所、展望台などの各種施設がある。国道56号線で四万十川を宿毛市のほうに渡るとき、また321号線を渡川大橋の方に向けて堤防の上を走るときなどに、頂上部に五重塔の屋根のようなものが見える山がある。これが香山寺山なのだが、登る前、それを見るたびに、この山の頂上には大きな伽藍を持った壮麗な寺があるに違いないと思っていた。しかし実際に登って、その寺を見ると、それは伽藍というよりは庵か祠というほうが近いような古くて小さな寺であるのを見て、なぜだかホッとした。

 昔は在住の寺があり、足摺金剛福寺の歴史に現れる最初の住職、南仏上人はこの香山寺で往生を遂げられたそうである。
 下から見えた屋根はお寺の塔ではなく、三重の塔の姿はしているが、大きな展望台だった。そこからは四万十川の河口部や周辺の山々、そしてなによりも具同を中心とした中村市街がよく見える。その他、ミニ西国三十三ヶ所の苔むした地蔵さんが並んでいたり、いろんな種類の藤の木が植えられていたりするのも目を引く。三角点は貯水タンクのそばにポツリとある。

 
「谷間から木蔭からもそろそろと匍ひ出した闇は、この打ち開けた原を取り巻いて、最初は地の上を匍うてゐるに過ぎなかつたが、次第に上の方にのし上がつて、何時の間にかつと抱き合ふと、大きな翼の下に原を押覆せてしまつた。満天の星は美しい光を投げて、静かな心地よい夜が來た。時々霜の飛ぶのがチラと眼を射る。
 焚火を前にして三人は温かい晩飯を終つた。火が明るくなつたり暗くなつたりする度に、ぼうつと映し出された森の木の間で、闇が大きな吐息をついてゐる。其奥の方で井戸澤の清い流れが或時は銀の糸のやうに細く幽かに、或時は瑠璃盤上を走る玉のやうに滑かに快よく、筋面白い自然の音楽を奏でゝゐる。サラッ、サラサラと風なきに散るこの葉の音が、滿山の寂寞を破つて、思はず耳を欹てながら闇を透して其方を覗き込ませる。實に静かな夜だ、沈默そのものだ。恐らく夏の高山に野宿した經驗のある人でも、斯る静けさを體得しえなかつたであろう。」

木暮理太郎『山の憶ひ出』 霜柱と柿



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金山     355.9m     三等三角点     土佐中村

 中村市四万十川沿いの香山寺山西4kmほどのところにある。金の鉱脈が土佐にあったとは聞かないから金鉱ではなかろうが、たしかになにかの鉱山が昔にはあり、石英や水晶などが山中でいまでも多く見かけられるのだそうである。中村市教育委員会のS.K.さんにこんな山もあるよと教えていただいておもむいた山の一つである。キンザン、カネヤマ。地形図

高速越しに見える金山



 足の調子のわるい妻と犬を林道の車に残し930分ごろ出発。ときどき携帯電話で連絡を取りあう。地形図では頭上に見えるはずの送電線が見えないので、なんでかなと思っていたら登りはじめて数分のところに鉄塔のコンクリートの基台部分だけが残っていた。送電線は撤去されていたのである。そこからしばらくは古い山道をたどったが、そのうちもの凄いシダのヤブに突入した。ただの一歩が踏み出せずにあえぐ。寒いが空は青く、目のまえには緑のシダの海が果てなく続いているように思われた。汗がにじむ。ナタを力まかせに叩きつけては数千数万とからみ合うシダの脈絡を切り足かせを断ち切って一歩一歩前進する。
 最初に達したのはニセピークであった。地形図を見ずに高みへ高みへと登ればかならず到達するだろう頂である。貝ヶ森など宿毛市の山々や有岡あたりの景色が見えた。金山の頂上はその手前でいちど尾根から下り、登りかえした先にあった。だが、そこもヒノキの間伐材がところかまわず切り倒されていて、着いたとき、あ、これは見つからないかもしれないなと先ず考えたものだった。かなり広い頂である。地形図を見ると350mの等高線の手前左寄りに三角点がある。そこら辺りを注意してさがすと間もなく標石が見つかった。その上にも間伐材が乗っていたが、葉の部分で覆われていなかったことは幸運であった。重い間伐材をわきに除き三角点のお化粧をしてから写真撮影と昼食。ケイタイでふもとの車(ベースキャンプ)に登頂成功を報告する。気分はヒマラヤである。

 
「京都大学学士山岳会(The Academic Alpine Club of Kyoto)は、略称をAACKとよび、一九三〇年に結成された。会員はおもに京大と旧三高の、山に関係した卒業生だ。AACKは、結成以来、いくどかヒマラヤの初登頂をめざす登山計画をたてたが、あいつぐ戦争によって実現しなかった。しかし、それらの不運にめげず活動はつづけられ、一九五八年のチョゴリザ(七六五四メートル)以降一年おきにノシャック(七四九〇メートル)、サルトロ・カンリ(七七四二メートル)の、いずれも初登頂に成功した。この次の目標は、未踏峰では最も高い、東ネパールのカンチェン・ジュンガ西峰(約八五〇〇メートル)にさだめられた。この山は、ネパールとシッキムの国境にあるカンチェン・ジュンガ山塊に属し、現在は、ヤルン・カンという山名が定着している。」

上田豊『残照のヤルン・カン』 丸木橋は一気に渡れ



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伊屋山     88.6m     二等三角点    土佐中村

 中村市下田の二等点の山である。イオクヤマ。地形図



シダのなかの三角点

 高喬木が少なく、陽光が良く当たるせいか全山シダの山という感じである。ところによっては背よりも高いそれが茂っている。もし誰かが切りひらいてくれていなければ、夕方近くに来て、その日の内に登り切ることは多分できなか
っただろう。
 喬木がすくないので展望はよく利き、四万十川や太平洋の打ち寄せる浜も見えるし、それらの間からオートキャンプ場「トマロット」も見えていた。
 登り口からの標高差はごく僅かであるが、明確な頂と言えるものもなく、シダの海や喬木の林などが視界を惑わし、三角点を見つけるのに手間取った。刻々と夕暮れが迫る中、心急きながら、すこしでも高い所のシダを押し分け、目印や手掛かりになるものが何かないか探す。そして数十分後、ここが最後という一番北の広場まで足を伸ばしてようやく標石を見つけた。東側の後ろがわずか欠けている他はきれいである。狭いがここも刈り広げられていた。
 5時をいくぶん廻って車まで帰ったとき、四万十川の向こうの山に太陽は落ち、雲を赤く染めようとしていた。

 
「眠るがいい、美しい夏の思い出の子供たち、そよかぜの吹く九月の夜を私と一緒に眠るがいい……」                   

尾崎喜八 『山の詩帖』



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深木山     477.9m    二等三角点     土佐中村

三原村と中村市の境界にある山である。フカギヤマ。地形図

風化の進んだような雰囲気の三角点



 予定していた登り口から作業道が新しくできて、山の方へ上っていた。とにかくそれに車で入ってみたのだが、あまりの泥道で、バックをして結局県道から幾ばくも入らない地点から登ることになった。作業道は10分ほどで終点。そのうえ凄い急坂。車で入らないのが正解だった。
 そこから尾根に出た。最初はシダの密生に悩まされ、今日中の登頂は無理ではないかと考えたほど。市村境まで出ると、すっかりシダはかげをひそめて、かわりに植林中の下ばえの小喬木を、さけたり切り払ったりしながら登ることになった。ひろい尾根なので、帰途迷わないための目印もかかせない。
 頂上もやはりヒノキの植林の中。広く平坦である。空も見えない。一本のヒノキの上方に例の、航空測量のための、木と発泡スチロールでできた枠組みの残骸が見える。そばに何の目的か、大きな石が積み上げられてあった。三角点は何ヶ所も欠けて損傷している。それだけでなく風化していて、その石柱がなんだか悲しげに見えた。

 
「‥‥これは魔の山だ。冷酷で、すぐ裏切る。はっきり言って、事はあまりうまくいっていない。やられる危険があまりに大きく、高所で人間が使える力はあまりに小さい‥‥」

ジョージ・リー・マロリー



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葛篭山      471.4m    二等三角点     下加江

土佐清水市の山であるが、中村市との境界はすぐそばである。点名は「権行山」。ツヅラヤマ。地形図

下田港からトマロット、大方町の海岸線などがよく見えた



 テレビ放送などの各種アンテナの鉄塔が頂上付近に56本、いやそれ以上立っていた。三角点はNHKRKCKSSの放送施設の間にあり、そばまで車で行くことができる。中村市や土佐清水市、そのほかの幡多地方22000所帯に番組を届けているとNHKの看板に書かれてあった。
 その近く、とくにRKCアンテナのよこからは四万十川の河口周辺の展望を得ることができた。下田港やオートキャンプ場「とまろっと」、そのむこうには平野浜、さらに大方町の海岸線などの眺望は、風情もあり悪くはない。頂上のそんな施設の周辺に、ただ1本だけ残されていたヤマモモの大きな木は枝ぶりもよく心にのこっている。

 
「森の中をひとりで歩いているときは、なにか高尚な考えの糸でもたぐれそうな気がするが、私の経験からいえば、そんなことはまずない。山小屋のランプの下でペンなど持っても、ろくな文章が書けないように、いくら静かな森の中でも、歩きながら頭に浮んでくる考えなど、およそ雑念にちかいものだ。山で印象されたなにかが、たしかな想念(イデエ)として言葉のかたちを整えるようになるのは、おそらくは山を下ってからしばらくあとのことである。」       

山口耀久『北八ツ彷徨』 北八ツ彷徨



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森山       96.1m     三等三角点      下ノ加江

土佐清水市の山である。モリヤマ。地形図

国道321号線から見る森山



 加江の東、布崎の岬の山で、つねに潮騒に包まれている。
 一周1.2kmほどの車道が山をめぐっており、その途中から北側の山頂に向けて、ゆるやかな石段が続いていた。頂上部は桜やツバキ、ツツジなども植えられた大きな広場になっている。奥のほうに金毘羅さんのかなり大きな祠が、その右のほうには石鎚神社、そして手前の三角点の西側には弁財天の小さな祠があった。
 祭りの後片付けに来ていた神主さんに話を聞くと、山主はこの弁才天さまだということであった。コンクリートでできた展望台に登ってみたが、周囲の木々が育ち何も見えなかった。石段を下っていると、足摺岬が微かに海の向こうに見え、にわかに涼風が吹いた思いがした。駐車場のすぐ下に布崎灯台があった。

 
「人間の周辺で、その食べ残しで生きられる動物たちは別ですが、カワウソのように生きた魚やエビ・カニなど自然の餌しか食べられない動物たちにとっては、死んでいくより仕方がないのでしょうか。
 この美しい自然にめぐまれた地球は、わたしたち人間だけのものではありません。地球上の多くの動物たちと、いっしょにすんでこそ、わたしたちにとっても、いつまでもすばらしい地球なのです。」        

『カワウソの消えた日』 高橋健

 
 昭和54810日午後5時すぎ、土佐清水市下加江川において最後の生体を確認。
 昭和6110月に同じ土佐清水市の尾浦半島真浜において子どものカワウソの腐乱した死体を発見したのを最後に、だれもニホンカワウソを見たものはいない。



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譲葉山     427.5m     三等三角点    下ノ加江

土佐清水市の山である。ユズリハヤマ。地形図

トンビが一羽、ゆっくりと頭上で旋回していた



 ユズリハは縁起のいい植物とされている。この木は新芽が十分にそだったのちに、ようやく古い葉をおとして葉(代)を譲るのだという。そんなところから家族や子孫の安寧をのぞんで、いまでも土佐などでは、正月には床の間に 橙(だいだい)と重ねてかざる。そうして代々の家族の健康と子孫の繁栄をいのったのだろう。
 四電の鉄塔管理道を40分ほど歩き、その後、尾根の切りわけ道に入るのだが、急坂に喘ぐときもあれば、緩やかになりほっと一息つけるところもある。そしてようやく着いたと思ったら、頂上はさらにその先で、いちど大下りし、目のまえに壁のように見えた急坂を、もうひと登りせねばならなかった。
 植生は、三番目の鉄塔に出るまでは桧の植林だったが、頂上に近づくにつれ、周りはカシ類を中心とした広葉樹の林に変わった。根元の部分で何本かに幹分かれしている木が多い。ユズリハを探すのだが見つけることはできなかった。三角点の周辺は平成5年度の測量時に切り開かれた60度、240度、360度の方角の山々が見えていたが、それすら木々が勢いを回復して展望を閉ざそうとしていた。
 そこで昼食をとったのだが、鳥影が地面に落ちたので見あげると、トンビが一羽すぐ樹上をゆっくりと旋回していた。私たちを獲物とまちがえていたのだろうか。今年初めてホトトギスの鳴く声を聞いた。

 
「景色の良し悪しは云う人を見て信ずべきだと思ったのは、シベリヤ線を通った人が退屈だ退屈だとそればかりこぼすから、渡欧の時もつい正直にその気になって、汽車の中で読むつもりで書物なども持ち込んだものだが、どうしてどうして退屈どころか、日の暮れるのが惜しくって、寝ている夜を除いては、食堂で食事する際にさえ、窓の外ばかり見ておった。葉をふるった白樺の林の奥にバイカルの水のちらちら光るのや、雪の中に黒い樅の梢を並べたウラールの密林ばかりではない。マンチェリヤの西、砂漠のような荒原に日の入るのも、チャダエフカの落葉松の粗林も、引っくるめて云えば浦塩からモスクワまで、実際汽車の走るのが惜しいくらいあの荒漠たる原野に見惚れていた。」

辻村伊助『ハイランド』 アヴェモア



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南平山     580.0m     三等三角点    下ノ加江

土佐清水市の山である。点名は「足谷」。ミナミヒラヤマ、ミナミダイラヤマ。地形図

山頂から登り口の峠の方を見下ろす



 譲葉山と同山体で、尾根を伝えば、お互い車道を経ずに行き来することができる。
 南平山西側の林道の峠に立って、その方角を見たとき少し恐れをなしたものである。登る予定だった尾根の両面がすっかり切り払われていてリッジのように切り立って見え、地形図上の等高線よりも狭く急峻に見えていた。実際、二つ のコブを越えるまでは、岩のヤセ尾根の部分もあり、少し神経を使わなければならなかった。しかしそこから先は桧の植林と樹高10mに満たない小喬木に挟まれた切り分け道に変わり、それほど苦労することもなく頂上三角点に達することができた。
 周辺は測量のためか西の方角が開かれているにはいたが、それもほとんどないにひとしく、展望はゼロと言ってもよかっただろう。

 
「私たちは宇宙のこの片隅にいてやすらかな気持だ。岩壁を登ることをよろこんでいることは勿論だが、もし心が無味乾燥なら、なんにもならない。」

ガストン・レビュファ 『星と嵐』



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長笹山     328.5m    三等三角点     下ノ加江

土佐清水市の山である。ナガササヤマ、ナガザサヤマ。地形図

中腹より下浦港を垣間見る



 布地区の長笹集落の上方の山ということであるが、そこからは同山の頂上部は見えない。
 ほとんど空もひらけない照葉樹の林や植林の中をコンパスと地形図をたよりに進む。下浦港をよく望めるところがあり、ナビゲーションによって現在位置と三角点のある方向を確認することができた。頂上周辺は根の部分で何本にも幹わかれしたカシ類の木やヤブツバキなどの雰囲気のよい林であった。譲葉山では見あたらなかったユズリハもここでは見えた。
 平成6年に測量の手がはいっていたが、切りひらかれた何ヶ所かの展望もほとんど閉ざされて、再びうっそうとした原生の森にかえろうとしていた。5月下旬に登ったが、今年になってセミの声をきいたのは、この山がはじめてだった。

 
「ぼくが山に登りはじめて、もう何年になるだろう。苦しかった山があり、こわかった山があり、さびしかった山があった。苦しい山や、こわい山にはめったに追い返されはしなかったけれど、さびしい山にはときどき敗けた。敗けて帰ったじぶんの弱さは、いつまでも肚にこたえた。(中略)
 さびしい山になぜ行くのか。山はなにも答えない。問いはこだまのように、おなじ問いを人の胸に返すだけだ。ぼくにはただ、じぶんがそれでもなお山に行くのをやめないだろう、ということだけがわかっていた。」 

山口耀久『北八ツ彷徨』 岩小舎の記

 
 彼はおおくの人に好まれそうな山の文章を書く。詩人で随筆家の尾崎喜八の家に出入りして親交したという山口耀久(やまぐちあきひさ 1926-)はもともと深い文学的な素養をもった登山家だった。ほかの山にも登ったが、彼はやっぱり八ヶ岳の人である。『北八ツ彷徨』の「富士見高原の思い出」は肺結核に病み、生死をさまよう闘病生活を送ったことを書いた私小説といえるものであるが、生死のことはやはり山に通じる。そう思って彼はあえてこの本にいれたのではあるまいか。

 
「まるでそこで、そのとき急に風が吹きはじめた、とでも思えるような突然の激しさだった。あっ、と驚くようなすばやさで、いきなり風景の転調がおこなわれた。静止した落葉松林がいっせいに動いた。私たちは足を止め、息をのんだ。
 小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すさまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒にいちめんに空を飛び散っていた。
 滅びるものは滅びなければならぬ。一切の執着を絶て
 もはやそこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。ひとつの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、ひとつの季節の移りをまっしぐらに急いでいた。
 秋は終った。なんといういさぎよい、すさまじい別れ。私はとり残されたような気がした。帰るべき日に帰らなかった自分たちの旅の終りが、ひどくぶざまなものに思われた。」

                     山口耀久『北八ツ彷徨』 落葉松峠



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横山     466.5m      三等三角点    下ノ加江

三原村と土佐清水市の境にある山であるが、三角点は三原村寄りにある。ヨコヤマ。地形図

なんとなく寂しげに見えた三角点であった



 県道21号線で、土地の人に同山の話を聞くと、昔は芳井と狼内を結ぶ峠道があったそうだが、今はもう荒れはてているだろうということだった。植林の中を尾根まで出、それをたどることにした。ほとんど家で地図上にプロットしてあったとおりのルートを登る。杉の植林の中も、尾根に出てからも下草はなく比較的快適だった。
 尾根は照葉樹を中心とした喬木林であるが、黒い表皮の大木は見えず、うっとうしさはすくない。鉈でひらいたあとがずっと続いていたが、そこを通らなくても進めるほどの植生であった。
 頂上には三角点広場といったものはなく、尾根道の上に15cm角ほどの三等三角点が周囲を守り石にかこまれて立っていた。背の高い喬木林の中で、南平山などの山が木々の間からのぞいている。ウグイスがケキョケキョといそがしげで、林道上ではトンボの群れが風景にとけこむように飛翔していた。

 
「私のような旅路に出てはもはや何一つ失う物は無い。ただ得るばかりだ。」

尾崎喜八



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ヒノタニ山    471.7m    三等三角点     下ノ加江

三原村の山である。点名は「火谷」。ヒノタニヤマ。地形図

三角点を探す



 展望がまったく得られないわけではない。頂上からは、中村市や大方町辺りの海岸線や葛篭山などの山々も望めるし、途中からは今山なども見える。空も大きく開け、陽光もさんさんと降り注いでいる。
 しかしそれがどうもいけないようなのである。遮るもののない陽光はブッシュを育て、それが著しく歩行を妨げるのである。シダのヤブ。イバラ交じりの小喬木、カヤの密生。それに急坂も加わって距離のわりに時間を要する。冒険家か修行僧にでもなった気持ちで登らなければならない。作家、田中澄江さんは、そんな時「自分の身を敗残の兵になぞらえる」といっている。そうして敵に追い詰められる気持ちで磐石のように重い体を頂上まで運ぶ、というのである。
 頂上の尾根は南北に続き、その上高低差がほとんどない。GPSで何回も確認しながら、探したのだが三角点の姿をとうとう見ることはなかった。どうも靴の底が地に着かないほど密生したシダの藪のなかに消されてしまっているようであった。

 
「誰もが夢中になれることに出会えるとは限りませんし、それを追求できない生活環境の人もいると思います。僕はもしかしたら、とても恵まれているかもしれません。」

山野井泰史『垂直の記憶』 あとがき



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白滝山    446.9m     一等三角点    土佐清水

土佐清水市の山である。シラタキヤマ、シロタキヤマ。地形図

山頂より白皇山を望む



 旧足摺スカイラインのそばにゲートで通行を遮断された車道入り口がある。そこを歩いていくと再びゲートと忍び返しまであるフェンスで囲まれた施設が現れた。「運輸省大阪航空局土佐清水航空路監視レーダー」と書かれている。どうしたわけか、そこここにあるマンホールの蓋にまで施錠されている。まるで007映画(もちろんショーンコネリー主演のである)の舞台のような雰囲気。どこからかマシンガンを小脇に抱えた男どもが走り出してきそうである。
 三角点はその施設内のコンクリートたたきの下に隠されてあり、数少ない一等三角点だけに残念だが、そのまま立ち入ることはできない。どうしても見たければ許可を得ることである。
 白皇山から眺めた同山はレーダー施設などの建設のためもあろうが、平べったくて際立ったピークも持たない平凡な山容だった。(施設を造るためにどうも削りとられて平らにされたようである)

 
「山はけちけちしない。一つの努力に対して、山は百倍のむくいを与えてくれる。あたしたちは、生命の限りない価値をふたたび知った。登山家や探検家の生活は、窮迫の生活である。しかし、その生活は、忘れられた富について、豊かな収穫を本人に与える。」      

『白嶺 ―コルディイェラ・ブランカ― 』 ニコール・レイナンジェの物語



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鷹取山     307.6m     四等三角点     土佐清水

土佐清水市の山である。清水の地名由来について、『土佐州郡志』には「清水浦 有泉流故名」と書かれている。清水港近くの山腹からとうとうと清泉が湧出していたことから名づけられたものだということである。タカトリヤマ。地形図

大岐の浜の上に姿を見せる鷹取山



 土佐清水市街のすぐ北側、大岐海岸の南西側に姿よく見えている。この山は昔から、近場の漁をする人たちが、船を進めたり漁場の位置の判断をしたりするのに使っていた、俗に「山を立てる」ための目標山だったそうである。
 途中まで送電線管理道を登った。標高のわりに高度感があり、もっと高い山に登っているような感じであった。切りひらかれた山の斜面を登っているとき、親子であろうかトンビが5羽、無風に近い空間をゆうゆうと滑空飛遊していた。まだまだこの地方ではトンビも餌に事欠かないのであろう、しばしば見かける。高知市の、私の家の周辺などでも何十年か前にはよく見たものだが、最近は、とんと見ることもなくなった。
 比較的視界はひらけている。海も見え、足摺港や清水市市街も見えた。北には今山、岬側には白滝山、すぐ隣には九輪森も大きく望めた。登山道の傍には、コバノタツナミソウ、シハイスミレなどの色々なスミレ類が可憐な花をいっぱいに咲かせていた。ただ一つ惜しまれるのは、頂上三角点周辺はとざされて、そこからの展望がまったく得られなかったことであった。

 
「私はマゾヒストではないから、苦痛や苦労はやはりただ苦痛であり、苦労としかおもわれない。しかし登山にもし苦痛や苦労が伴わなかったら、悦びは発見できないだろうとおもう。健康の爽快さは重荷なしには確かめられない。苦味や塩辛さが旨みを作るようなもんだ。登山家は山を降りると素直に苦労や苦痛を忘れてしまうもんだ。そして山や谷や風や雲のことばかりおぼえていて忘れないのである。」

『続 辻まことの世界』 岳人の言葉



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宮ヶ谷山     289.2m     二等三角点    土佐清水

土佐清水市の鷹取山の北方、尾根続きの山である。この山の西山麓に天神様があるが、その社殿のある谷の上にある山という意味合いの山名のようである。点名も同じだが、集落の人にもそのように呼ばれている。ミヤガタニヤマ。地形図





 一般の人にとって、登山に適した山というのはどんな山をいうのだろう。たぶん、登山道がはっきりしていること。その周囲に大きな自然林などが多く残されていること。頂上がそれらしい雰囲気を持っていること。明るくて、はっきりとした頂を持ち、できれば展望がひらけていること。登山に要する時間が長すぎず、かといって短すぎもしないことなどだろうか。
 その条件のかなりな部分をこの山は満たしているように思われた。鉄塔の管理道を登った後は尾根の大きなヤブツバキやカシ、シイなど、照葉樹の林の中を行き、切りひらく必要のある下生えもほとんどなく迷うこともない。三角点の まわりはきれいに整えられてスポットライトが集中して当たっているように明るかった。しかし、鷹取山などの周囲の山々が木々の間からかろうじて確認できるものの、胸のすくような眺望が眼前にひらけることはとうとう下山するまでなかった。

 
「さあ、これで倉岳山は僕のものになった。今日以後、どこの山頂から、又どんな山路のはずれから、ゆくりなくお前の横顔を見ることがあっても、決して見損なったり、他人のような気がしたりすることはないだろう。僕は心でお前を呼ぶよ。お前を見るよ。人からは窺い知られない特別な気持と眼つきとで。」   

尾崎喜八 『山の詩帖』



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三崎山      91.9m    二等三角点     土佐清水

土佐清水市の有数の観光地、竜串の千尋岬にある山である。ミサキヤマ。地形図

右の方に三角点が見えている



 山と海の関係を、どう例えたらいいだろう。豊かな山は豊穣の海を育てるというように、実質的な意味合いからも切っても切れない間柄にあることは確かだが、それ以外に風景的に見ても、相乗してお互いを引き立てていることも事実である。また山から見える風景のなかに、海が見えると見えないとではその感 動も雲泥の感がある。
 この山も、竜串の海を、その緑と波打ち際の崖の色などで引き立てているが、逆に、三崎山の頂上や周辺からは海もなにも見えなかった。三角点はフェンスに囲まれたNHKRKCの中継施設の中で、コンクリートに埋められて欠けた頭をかろうじて出している。ほかの歩行距離の極端に短い山と同じように、この山の場合も岬の西側に指定されている「四国の道」を同時に歩いて、弘法大師もあまりの疲れで見ずに通り過ぎてしまわれたという、岬の先端の名勝「見残し」や「化石蓮痕」などの見どころを、見学して廻ってこそ価値を増すように思われる。

 
「人間の心に宿る永劫の孤独感が、カラコルムの広大な偉観に溶け込んでいく。」

ニコラス・クリンチ 『ヒドンピーク初登頂』



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石槌山      532m     三角点はない     下鍵山

十和村の山である。イシヅチサン、イシヅチヤマ。地形図

マムシの群れをみる。杖で追うと森に消えた



 日本百名山の石鎚山は金偏であるが、十和村のそれは木偏である。遠慮があるのか、分家のイシヅチ山は木偏か、土の字を使う場合が多いように思う。この山の西の麓に、石鎚神社があることが山名の由来であろう。そこには、急な崖に鎖が掛けられており、その上にも祠がある。
 むかし、追和と戸川を結んでいた峠道を登った。標高は低いが、いしづちの名に恥じないほど、なかなか手強い。
 入山して間もなく、山道中央の、落ち葉のなかにマムシの群れがいた。孵化して、それほど日時が経っていないのか密着して56匹がうごめいている。杖で追い払うと、小さいがしっかりマムシの姿をしたやつがゆっくりと道のわきに入って行った。
 頂上はヤセ尾根上にある。数十本の松の木が生育しており、ほかに大きな喬木はないので松林と言っていい。それらの間から、周囲の山々や下界の部落の、家や畑などが見えた。8月中旬、子供たちの夏休みもなかばの頃だが、もう立秋も過ぎ、山にも涼風が吹きはじめていた。あまりの心地よさに、松籟を聞きながら1時間ちかく頂上にいた。

 
『四國山岳 第一輯』の編集後記にはこう述べられている。

「ところで石槌山は、石鎚山とも書かれ、これはいづれが正しいものか不明でありますので、大體御執筆各位の御使用により、敢てこちらでは、その統一をいたしませんでした。」



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巣山     654.6m     三等三角点     江川崎

西土佐村と十和村境の山である。地形図に名のある山。点名は「鷹巣山」。タカノスヤマ。地形図

三角点に辿りつく



 巣山(鷹巣山、鷹巣山)も烏帽子や国見が付く山ほどではないが、それでも全国的に多い山名のようである。高知県にも他に少なくみてももう一つあるが、どれも標高が2000m未満の、鷹が巣をかけていそうな深い樹林帯の山ということであろう。
 江川崎の「カヌー館」で初老の男性はこう言ったものである。「鷹巣山は、南東の堂ヶ森と並んで、ふもとの人たちの、信仰の対象になっている山であり、頂上には祠がある」と。しかし登ってみた頂上には、三角点の周りは広々としているが、祠らしいものは見当たらなかった。山岳信仰では、堂ヶ森などと共に、十和村の「五方の鎮め山」の一つとして、この鷹巣山が重要視されていることは確かのようで、どこか他の場所にあるのかもしれない。南側は桧の植林、その他の方向はかなりな古木もまじる広葉樹の林である。その透き間から周りの山が少し見える程度で、展望らしいものもない。
 林道は途中から崩壊していて、かなり手前から歩くことになった。山に入ってからは頂上までずっと切り開かれていた。ヤブを払う必要は一回もなかったが、非常な急坂の部分もあり、一歩一歩足場を確認しながら登った。
 周囲の林は空いていて雰囲気も悪くない。落葉樹はもうかなり葉を落とし、赤や黄のまだら模様を斜面に描き出していた。下山時には、妻はリースなどに使うため、マツボックリやドングリを拾っていた。ドングリはすでにハカマの部分が離れていたが、一緒に拾い、接着剤でくっつけて使うということであった。

 
「独標を越えることが、この山行の頂点だという考えが、常にふたりの頭にあった。
 いかなる山行においても困難があった、困難と辛苦があってこそ山をやる意味があるのだ。彼等は日本を代表する若手の山岳家だった。風雪が白い牙をむいて襲いかかって来ても、彼等はそれに簡単には降伏しようとはしなかった。彼等に取って風雪との戦いに勝つことは独標を越え、安全な場所へ雪洞を設けることであった。雪洞という砦を設ければ、その内部まで白魔の攻撃は及ばなかった。」        

新田次郎『風雪の北鎌尾根』

 
『風雪の北鎌尾根』は、『氷雪のビバーク』の松濤明たちの遭難を新田次郎が小説化したものである。



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奥野川山    426.0m    三等三角点     江川崎

 愛媛県松野町、西土佐村の境界にある山である。梼原町から十和村と千メ-トル内外の標高を保ってきた県境の山はこの奥野川山あたりから五百メートル前後に高度を落とすが、その後、黒尊にはいって再び高さを取りもどす。オクノカワヤマ、オクノガワヤマ。地形図

奥野川山の山頂



 縦走とは峰から峰へと稜線を伝いながら辿る登山法であるが、杖峠から奥野川山をへて、「おそ越」までの県境の尾根は思いのほか手応えのあるものだった。峰の上はプラトー状に広くなっているのだが上り下りがきつく、一つ一つの頂は離れたところからは山稜上に険しそうにそびえたコブのように見えた。その上尾根のやせた部分もある。
 三角点の上には測量のため赤白ポールが針金で支えられて立っていた。木々のすき間からまわりの山々や伊予側の集落などが見えた。とくに松平山がすばらしい三角錐の姿を見せ戸祗御前山はこちらから見るとあんがいに凡庸であった。
 そこから南に、いくつかの頂を越え大きく下ったところが「おそ越」の峠であった。そこにはただ尾根に切り通しがあり、土予両方に歩道が続いているだけで地蔵も何もない。そこで出あった猟師の男性に里に下る道を尋ねたあと、今年の猟の成果を聞くと、「145頭も獲っつろうか」という答が返ってきた。ワサによるものがほとんどであるようだが、シカもたいへんな増えようと聞くから、山はまだケモノであふれているようである。

 
「しかし旅の春だった。そして私は旅人だった。私たちのまわりには高原の春が、私のうちには心の春が、たとえどんなに萌え、花咲き、歌おうとも、詩人であり旅人である私はそうした豊かな、想像のうちで千変万化する美には馴れている筈だった。私は美の諸相を知っている。浮動する雲や光線のような美を。うつろい易い花や虹のような無常の美を。循環する季節の美、世代の美を。また知っている。人類の精神文化が打ちたてる芸術や思想の美を。永く後代への遺産となるべき耐久力のある美を。そして私のなすべき事は、それらの美を摘み取ったり、占有したり、弄んで汚したりすることではなくて、それを視、それに傾聴し、それを敬い讃えながら、此の世で生きた祭の日々を悦ばしく回顧し記念することだ。またいま善き旅人として私のなすべき事は、静かに、優しく、朗らかに、心惹かれる此の世界や人々から別れることだ。」    

尾崎喜八『詩人の風土』 高原の朝

 
 登山や旅によって、自然と文学との融合をこころみようとした詩人、岡本喜八(18921974)は東京生まれの都会人だが、郊外の田園や、そこでの生活、さらなる自然の中に足を伸ばすことを好んだ。ヘルマン・ヘッセやロマン・ローラン、日本人では高村光太郎や武者小路実篤らとの親交を深めながら、畑をたがやし、山や丘を歩いた。彼の詩や文章はいまでも山や野を歩く人たちに愛され影響をあたえている。



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大内又山    341.9m    四等三角点     江川崎

愛媛県松野町と西土佐村の境、奥野川山と笠松山の間にある三角点である。オオウチノマタヤマ。地形図

頂にあった三体の地蔵さん



「おそ越」と思われる峠は前後二ヶ所で通過した。標高も、あるかなきかの差で同じような切り通しなので、どちらがそれかはっきりしないが、たぶん標高のすこし低いほう、後で行きかかったほうではないかと思う。なぜなら、こちらが歩道や切り通し自体の荒れがすくなく現在も使用されているようであるし、げんに鉄砲を肩にした猟師の男性ともそこで出あったからである。
 大内又山の三角点はそこからわずかな距離のところにあった。小さな栗の木など、シブリのある明るい伊予側は開けていてバックに山々や空が見えたが、大きなヤマモモの木や大岩のある土佐側は全体にうっそうとしていて、わずかにも周囲の景色は望めなかった。樹陰では三体の地蔵が長い年月をそこで過ごしている。地蔵は一体でなければ三体であることが多い。三という数は異界、あるいは彼岸とつながる数であると、最近そのような本をつぎつぎ読んでいる娘に聞いた。そのような世界のことを考えずに地蔵や祠を山上にまつる人はまずいない。
 一段下りた土佐側の大岩の狭間で昼食をとった。終わって片づけようとしたとき突然の風にお弁当のビニール袋が飛ばされて、あれよあれよという間に鳥か凧のように空高く舞い上がっていってしまった。どんなゴミであってもわざわざ捨てることはまずないが、このような偶然はたまに起りうる。故意であるなしにかかわらず、まったく自然にダメージを与えることなく、そこに足を踏み入れることはできないということである。

 
「都会に木があるのは不自然です。これは自然に生えているのではなく、人間が植えたものなんです。そこにある木と山に生えている、どちらが貴いか、それを知ることも人間にとってたいせつなことだと思います。」 

長谷川恒男『行きぬくことは冒険だよ』 講演録



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笠松山    476.2m     三等三角点     江川崎

 愛媛県松野町と西土佐村の境界にある。西土佐村最北部の県境の尾根は国道381号線と杖峠のある村道によって分断されている。笠松山はそのほぼ中央部にある山である。カサマツヤマ。地形図

松の木はいっぱいあった



 大内又山を出るころから降りはじめた霧のような雨は、だんだんその粒の大きさを増し、やがて木々の葉や枝に当たる音が聞こえだし、そのうち水滴となって落ちてくるようになった。雨具を取り出すべきか迷う。雨に濡れなければ汗で蒸れてしまうからである。そのころから下りより上りが多くなり、登山らしくなった。やがて笠松山の頂上へ。
「笠松」を広辞苑で引くと「枝が四方に広がり垂れて、笠の形をした松」とある。この笠松山もどこか遠くから見たとき、こんな姿に見えるのかもしれない。そのことは置いても、この山の頂はマツで一杯であった。樹皮が赤いのやら黒いのやら何十本も見え、ここに限って言えば広葉樹は少数派であった。そんな木が夕刻のように暗い空を背景に、枝葉を伸ばしていた。山頂らしい雰囲気をもつ三角点まわりである。南西にすこし開けて土佐の山や集落の家々が見えていた。
 急いで帰途につく。天候と時間との勝負である。きた道を引きかえして、猟師の男性に聞いていた地蔵のコルから里におりた。そして車道を7kmほど歩いて、杖峠においてあった車に5時前になってようやく帰りついた。

 
「たいがいの人間の生活がいかに愚劣なものかを君は考えたことがあるだろうか
 君の身近な者を例にとってみたまえ。
 彼は人生を準備し、将来を保証するために、働くことに青春を過した。壮年になった彼は、子供たちを養育するために闘っている。
 彼は何をしたか、何をしているのか
 何もしない……何も
 やがて老年がやってくる。憩いといわれるものがやってくるわけだ。わずかばかりの憩い それも現実には、彼の力が次々と衰えてゆくのを自覚する残酷な夕べなのだ。それは夜が、つまり死が、彼を小刻みにじわりじわり捕えてゆこうとする痛ましい黄昏なのだ。これが最後と崩れる前に、彼は刻一刻と傷ついてゆく自分の姿を見なければならない
 彼が死ねば、すぐにだれも彼のことを話さなくなってしまうだろう。
 彼は何をしたのか
 何も……何も……何もしなかったのだ

ジョン・コスト 『アルピニストの心』



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大防山     523.9m    四等三角点      江川崎

愛媛県松野町と西土佐村の境にある三角点の頂である。杖峠と国道381号線で区切られる県境線上には現在五つの三角点が認められる。東から奥野川、大内又、笠松山とつづき、つぎにこの大防山、さらに蔵王をへて国道におりる。オオボウヤマ。地形図

「大防山」三角点に到着する



 一般に県境の尾根はほかの場所のものよりもはっきりしていて、縦走も容易な場合が多い。しかしときには今回のように、ヤブを切りひらくための、よく切れる利器が手ばなせない部分もある。
 登り口となった国道の県境付近には尾根に取りつく方法がいくらでもありそうに思われた。これも案外こまるものである。どれにしようか迷ううちに時間がたってしまう。入山してすぐに左側の尾根に上ったが、さっそく植林のなかに茂る小喬木を掃うのに手間どる。その後もこれらのほか、倒木、シダ、植林のための伐倒木、そして急坂のために、登攀は遅々として進まなかった。まるでウシかカメの歩み。愛媛側からの風が強く冷たい。やがて伐採跡に出た。いまはマツの大木の下に小さなヒノキが植えられた複層林である。北の県境や、黒尊の山々はグレーのベールのような雲にかくされ、その下の降雪を想像させた。
 そこから短いが急坂を下り、登りかえしたところに大防山の三角点があった。平成
5年に設置された新しいタイプの標石である。コンクリートのブロックの上に金属製で円形の標識が埋め込まれたもの。まだ草にも落葉にもうずもれていず、すぐに目についた。登りはじめて3時間後のことである。南には、樹間から二等三角点の半家山が見え、すこし開けた東方向には539.8m峰が正面に、その右手に鷹巣山が望まれた。

 マフラーを肩に掛けても寒く、手袋もはずさずに昼食をとる。寒くても暑くてもこれからも苦労して山に登りつづけるだろう。そのときが私にとってもっとも満ち足りた時間であるからである。新型車も新製品の電子機器もとりたててほしくはない。いままでのものが修理して使えればいい。おいしいものは食べたいとは思うが、高価な食材はいらない。ただそこそこ自由に動ける体と、心身ともに拘束されない環境だけはほしい。年齢か、あるいは山や森が、そう思わせるのであろうか。

 
「南壁がどのくらいの高さなのか、すぐには言えなかった。しかしアイガー北壁が二つ、恐らく三つ分ぐらいその中に納まると思った。写真を前にした時点で私たちは、この壁への遠征を頭に描いたわけではない。また私たちの誰にしても、この写真を目にして、これから自分たちが試みようとしていることの真の意味合いを、十分に分かっていたとは私は思わない。アンナプルナの南壁は、それまでヒマラヤで試みられたどの山よりも、はるかに急峻で巨大で、明らかに困難なものだった。この壁への挑戦を私たちが初めて決意したのは、一九六八年の秋のことだ。私たちがここまで来たのは、個人個人の成長の結果だけではなく、ヒマラヤ登山の幅広い自然な展開がもたらした一つの結果であったといえる。」

クリス・ボニントン『アンナプルナ南壁』

 
 19世紀終りごろまでに、ほとんどの頂が踏まれたヨーロッパ・アルプスの峰々は、登山者たちによって、より困難でより垂直に近い山稜や壁から、ハーケン、カラビナなどの登攀用具を多用して登られるようになった。登山史上「アルプス 鉄の時代」と呼ばれた時期である。同じことが巨大なヒマラヤにおいてもくりかえされる。1950年にアンナプルナがフランス隊によって初登頂されて以来、わずか十数年で、ヒマラヤの代表的な8000m峰は登りつくされ、人々は、より困難なヴァリエーションルートからその山頂を目ざすことを試みはじめた。その先鞭をつけたのが、1970年、イギリスのクリスチャン・ボニントン(1934‐)に率いられた「アンナプルナ南壁登山隊」であったといわれる。いわば、これが「ヒマラヤの鉄の時代」の幕開けである。そして、最後の難関といわれたエヴェレスト南西壁を隊長として成功させたのもやはり彼の統率力によった。



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蔵王山     251.2m    四等三角点      江川崎

 愛媛県松野町と西土佐村の境界にある山である。ザオウザン。地形図

「蔵王」三角点周辺は荒れていた



 名前はなんというか忘れたが、宮城県と山形県境にある蔵王山の最高峰、熊野岳の頂には石垣でかこまれた神社があった。蔵王山であるから蔵王権現でも祀られていたのであろうか。そこからはるか離れたこの土佐の同名の山にもそれらしい祠でもあれば楽しいだろうと思っていたが、祠どころか、もしかすればシダやイバラのヤブに包まれてしまったのか、三角点はいっこうにわれわれの前に姿を見せようとはしなかった。

 国道381号線から大防山にむかう往還にその所在をもとめた。一ヶ所、たおれた古い赤白ポールと薄い発泡スチロール板の破片があるのを見つけたが、それはすぐ近くにあるプラスチック製図根点のもののようであった。四等点「蔵王」が埋設されたのは昭和31年のことである。それ以来いちどの確認も再測も行なわれなかったとすればこのような木製のポールなどが残っているほうがおかしい。それどころか誰にかえりみられることもなく、しずかにヤブや落葉の下に眠っていると考える方が自然というもの。
 あるいは私たちが知らず知らずのうちにその横を通り抜けてしまったのかもしれない。今回はそれ以上執ように追及することはやめた。先ほどから天気が下り気味になっていたが、急に雨が降りはじめたからである。
 しかしそれはただ雨ではなく、白いものが混じり、それが横殴りに樹間をとおして吹きぬけていた。寒さも増したように感じられ、下山を急いだ。

 
「六月三十日、彼らが再び第一キャンプに登ってびっくり仰天した。留守の間に大きな雪崩がおそって、そこに置いておいた全部の荷を埋めてしまっていた。(中略)雪崩があった時、彼らがテントにいなかったことは、もっけの幸いであった。
 大事な装備や食糧の大部分は、五メートルから十メートルの雪の下になっていた。それを掘り出そうとしてまる二日もかかったが、結局は徒労に終った。さあ、どうする もしこのまま退くのが嫌なら、計画をたて直し、ラッシュ・アタックを取らねばならない。行動はすぐおこされた。七月二日、第一キャンプから上の氷の尾根に、ステップが刻まれ、固定ザイルが取りつけられ、第二キャンプ(六七〇〇メートル)が築かれた。四日には、尾根の肩の第三キャンプ(七一〇〇メートル)までの道がつけられた。」

深田久弥『ヒマラヤ登攀史 第二版』 ガッシャーブルムⅡ

 
 ガッシャーブルムと名のつく峰はⅠからⅥまであるが、そのうち標高が8000m前後の峰は4座ある。ⅠからⅣまでである。Ⅰは別名、ヒドゥン・ピークと呼ばれ、11番目に高い8000m峰である。そしてⅡがⅠより33m低いだけのやはり13番目の8000m超峰で、当の山である。ⅠとⅡは槍ヶ岳と穂高岳ほどはなれ、その間はふかく落ちくぼんでいる。ほかの2座は8000mにわずか満たない。ガッシャーブルムとはチベット語の一方言であるバルティ語で「輝く壁」という意味であるらしいが、これはもともとガッシャーブルムⅣに付けられた名前である。カラコルムのバルトロ氷河のコンコルディア(氷河中の大広場)から仰ぐと、このⅣ峰の氷壁が輝く壁のように見えるのだそうである。
 ガッシャーブルムⅡ(測量局記号K4)8035m19567月、オーストリアの登山隊によって登られた。登山隊員6名、学術調査隊員2名の小規模なもので、それまでこの山に挑戦したものは誰もいなかった。わずかに1934年のディレンフルトの国際隊が、この山の南面をさぐり、登頂の可能性があることを述べており、この観察がオーストリア隊に希望を与えたのであろう。
 途中、雪崩で資材のおおくを失い、ラッシュ・タクティックスに切りかえなければならなかった。しかし、少数精鋭のきびしい登山はもともとオーストリア隊の得意とするところでもある。天候にめぐまれたこともあろうが、彼らは順調に短時日で登頂に成功する。作戦を変更してわずかに一週間後のことである。エヴェレストが登頂されてから十年余、この間にも登山技術や装備はいちじるしく進歩したであろうし、高度に対する順応力の考え方も、以前とはまったく違ったものであったにちがいない。


「頂上までまだ高さにして三百メートル以上あった。その急峻な雪の壁は、朝の光線で軟かくなっていて、登って行くのに非常に骨が折れた。その上空気稀薄になって息が苦しかった。二、三歩行っては休みながら、あらん限りの気力を絞り出して、少しずつ登って行った。そしてついに午後一時半、ガッシャーブルムⅡの頂きに足を置いた。
 そこは小さな雪の台地で、傍に人の背丈ほどの尖った岩が二つ立っていた。疲れ果てた三人は雪の中に座り込んだ。しばらくしてようやく彼らは、すべてのヒマラヤ登頂者がなすこと、すなわちオーストリアとパキスタンの国旗を結びつけたピッケルを雪に立てて、頂上の写真とパノラマを撮った。それからフィルムの空罐に登頂の日付と聖母のメダルを入れて、それをオーストリアの国旗で包み雪の中に埋めた。そしてその上にケルンを建てた。空は美しく輝き、ずっと遠くの方まではっきりと見えた。ウインドヤッケを脱ぐほど暖かった。彼らは一時間も頂上にいて、下降の途についた。」

深田久弥『ヒマラヤ登攀史 第二版』 ガッシャーブルムⅡ



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半家山     552.5m     二等三角点      江川崎

西土佐村の山である。ハゲヤマ。地形図

四万十川も鷹の巣山も、そのほかの山々も…



 地形図にはない作業道が三角点そばまで伸びていた。しかしそれは、まず乗用車では登れないような、車道とは名ばかりの過酷なものだった。上部では、非常に急な上に路面は荒れ、ときどき降りては落石を道端に除けながら進まなければならず、さらに次々と現れる狭いヘアピンでの切りなおしにも神経を使った。結局、私たちも尾根に出たところのヘアピンに車を乗り捨て、残りは歩くことにした。
 しかし、途中から尾根にかけて展望にはすぐれ、恐怖感を覚えるほどの、崖のような斜面の下方には、四万十川の蛇行して流れる様子が見下ろせ、まわりにはその大河を包含する穏やかな幡多の山々が畳々とつらなっていた。何年か前に登った鷹巣山も大きくその全体像を四万十のうえ目前に見せている。2月ではあるがもう春である。そんな空気がわれわれとそれらの風景の間には満ちていた。
 頂上の三角点の一角だけ作業道の工事からはずれ、一段高く残されていた。それにしても植林もほとんどない山に、なぜこんな作業道が頂上まで必要なのだろう。下山後、たずねると「ドングリの木ですよ」と答が返ってきた。シイタケを栽培するための、用材を育てたり、伐採したものを下ろしたりするための作業道だったのである。

 
「なんとその春がぼうぼうと果てしもなく、なんと悲しく美しく、なんと惑溺させる力をもってこの私を包んでいることだろう」  

尾崎喜八『詩人の風土』 信州峠



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扇山      541.4m     二等三角点      口屋内

西土佐村の山である。点名は「茅生」オオギヤマ。地形図

口屋内沈下橋と扇山



 黒尊渓谷の玄関口、口屋内大橋をわたる途中、右側を見ると、沈下橋や四万十川の流れのうえに優美な扇山の姿を望むことができる。また、逆に登っている途中には、清流にかかる口屋内大橋あたりが見えた。四万十川屈指の風光をいつも見おろしていられるこの山は幸せである。
 林道からの登り口を見つけるのに手間取り、登りはじめたのはもう11時近かった。入山して以後は消えかかる踏みあとに迷うことはあったが、それほど困難なこともない。主尾根の南側は、広葉樹が植林のため間引き伐採されあかるかった。頂上も同じく南にひらけ、枝葉のあいだから、悪戦苦闘して登った「ほけ森」が驚くほどかっこうよく見えた。
 出発するときにも鳴いていたホトトギスが、帰ったときにも「てっぺんかけたか」とむかえてくれた。出発する前には登路もはっきりせず、すこし心細いので「まだだよ」などと笑いながら妻と言いあっていたが、帰ってきたときには、「てっぺん(頂上)かけて(駆けて)きたよ」と元気に鳥に答えたものだった。

 
「それほどの危険があるのに何故山に登るのかと問う人もあろう。真面目な登山者はかりそめにも山で命を失くしてもよいなどとは口にしないであろうが、同じような運命を分け担っていることは黙っていて知っている。それでありながら山を棄て去ることはできないのみならず、あくまでも登って行きたいのである。」

槇有恒 大島亮吉『山 ―随想―』の序文において



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白石      650.1m     三等三角点      口屋内

中村市と西土佐村の境の山。シライシ、シロイシ。地形図

地蔵さんの文字に目をこらす



 地形図を見ると、この白石の東に同名の山がもうひとつある。あちらの三角点名は鴨川山(かもかわやま)だが、こちらの白石は稗持山(ひじやま)である。
 地元の人に聞くと、この山は白石とは呼ばないと話していた。それでは何という名前なのか重ねて聞くと、「忘れたが、とにかく東側の方が白石である」ということだった。またある人はこの山は衣笠山と呼ばれているといっていたが、そうであるならば山麓には奥鴨川があり、対面に見えるのは鴨川山であるから、どれも京都にゆかりの名ばかりである。
 下見や天候などで、登るまでに3回通ったが、尾根まで出ると、広葉樹林の中に快適な歩道が山頂からさらに先にかけ、通っていた。
 その道端に苔むした小さな地蔵が石積みの上に立っていた。「慶応元丑七月、施主篠田氏」と彫られ、その上に「為鎮猪鹿」と、何とか読み取れた。慶応元年といえば、明治維新の3年前で、武市瑞山がこの年に自刃し、坂本龍馬はその2年後に殺されている。また猟で獲った猪鹿の鎮魂のためなのか、あるいは彼らを鎮めて森林を守るためなのか分からないが、私は後者ではないかと思った。登ってくる途中、通過した防鹿ネット(鹿の被害を防ぐため植林したばかりの区域を囲ったネットのこと)のことを出すまでもなく、下見のときには2回、合計3頭の鹿を見たし、入山してからも食み跡や大きな動物の足跡を随所で見ていたからである。
 その先の急坂を上り詰めたところが頂上で、三角点が下草のまったくない落ち葉の中に立っていた。展望はきかないが明るく、周囲の広葉樹も少し紅葉していた。汗が冷えて急に寒くなったが気分は爽快だった。

 
「昨年死んだ竹沢長衛(本来猟師であるが登山案内人としても有名…著者注)から、四高がやりそうだから早くこい、という電報がきてあわてたがデマだった。長衛が毎日何頭かのカモシカを射ちとり、そればかり食った。その禁猟の毛皮をもって帰ったら、警察に知れたらしいから、かくして下さい、というトボケた電報を長衛がうってきて、おびえてかくした私たちも子供っぽかった。」 

桑原武夫「積雪期の白根三山」

 「ずっと向こうの屋久笹の中に鹿を見つけた。初め一匹だけに気がついたが、よく見ているうちにさらに二匹いることが分った。鉄砲を持ってくるんだったと矢野君が残念がる。よく眺めた末、大きな声を立てると三匹とも尻を揃えて逃げていった。」

深田久弥「屋久島」


 など、『忘れえぬ山Ⅰ』にはいま動物愛好家が聞けば目をむきそうな話が出てくる。そういえばあのウォルター・ウェストンも日本アルプス山中で鉄砲や石ツブテで雷鳥を獲って食べたという話の部分が『日本アルプス 登山と探検』に何ヶ所もある。といっても登山や探検のさいに、現地で食物を得るというのは本来なにも不自然なことではない。たとえば、串田孫一『若き日の山』小黒部谷 にも次のように書かれている。


「草叢の中に幕営の場所を探しに行ったが蝨(だに)が多いので河原へ戻ったが、対岸(左岸)に狩人のわら小舎らしいものを見出して、大喜びで中に入り夜中の寒さも非常に楽だった。蟇(がま)の大きいのがいたので焼いて食べたらおいしかったが脳味噌や腸は余り感心できない。」


 また、なおすごい場面が木暮理太郎の『山の憶ひ出』にある。


「雷鳥は可なり多かった。翌日私は造作なく(木曽駒の)頂上で二羽を捕え、その翼を土産に持ち帰った。」


 また今では、高山植物の女王と称えられる「コマクサ」にも受難の時代があり、明治大正時代には薬草として乾燥して売られ、また相応に買手も多かったそうである。そのため御嶽など多くの山では駒草は採りつくされていたという。



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